パーリ語「サティ(念)」は、サンスクリットの「スムリティ」に対応する。
「サティ」という用語は、八正道の「正念」などとしても用いられるが、自分にとっては分かりにくさの伴う用語である。
ここ十数年来、南方上座部(タイ、ミャンマー、スリランカ等)の「ヴィッパサナー瞑想」が、瞑想を志す多くの方々に受け入れられ、実践されている。この「ヴィパッサナー」は、「止観」の「観」にあたり、「サティ(念)」は「ヴィパッサナー(観)」と深く関わる。
実は、「サティ」を自分が理解しにくいと感じるのは、上座部(以降「テーラワーダ」と表記)等で実践されている「サティ」の行法に馴染めないからである。今回『ブッダの瞑想法』を読み進めるうえで、漠然としている「サティ」に関する自分の印象に形を与え、疑問点を明らかにしておきたいと思う。
テーラワーダが「サティ」を行ずる時に「ラヴェリング」ということをする。どういうことかというと、自分に生じる感覚、心、からだの動き等に、文字通りラヴェルを張っていくのである。コップの水を飲むときを例にとろう。
コップを手に取るときには
コップに手が「触れている、触れている」、コップを「持っている、持っている」、口に「運んでいる、運んでいる」、唇がコップに「触れている、触れている」、水を「飲んでいる、飲んでいる」、「飲み込んでいる、飲み込んでいる」、「冷たい、冷たい」というように、念じながら行うのである。確かに、「サティ」は「念じる」ということではあるが、私が捉えている「サティ」とは、やはり違う。
では、私が考える「サティ」とは何か。
諸仏典中で最古、「ゴータマ・ブッダの直説に最も近い詩句を集成しているのでは」と、言われるものに『スッタ・ニパータ』という経典がある。
『スッタ・ニパータ』中でも最古層と呼ばれるものに「彼岸道品」という一章がある。
中村元博士の訳された『ブッダの言葉――スッタニパータ――』(岩波文庫)から引用してみよう。
(1034)アジタさんがいった、
「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎまもるものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」
(1035)師(ブッダ)は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけること(サティ)である。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるだろう。」
私にとっての「サティ」は、以上で説かれているように、感覚、心、からだの動き等に「囚われないように気をつけること」なのである。そのように「気をつけること」が、「無漏(むろ=漏れないこと)」をもたらす。それに対して「ラヴェリング」という行為は、私に限って言えば、無常なるものに追随する「有漏(うろ=漏れ出ること)」の感覚をもたらす。「心が心の表面をすべっている」、という感覚なのである。
以上、自分にとっての「サティ」とはいかなるものか、ということを確認し、まずは地橋秀雄著『ブッダの瞑想法』の「前書き」と「序章」の初めの方を読んでみた。
実は、なぜテーラワーダでは、「止観」の「観」だけが強調されるのだろうかと、常々疑問に思っていたのだが、その「序章」には次のような内容が書いてあった。少し乱暴にまとめてしまえば、「止は難しいので、観を教える」ということらしい。あまりにも単純な理由で、これには吃驚してしまった。
さて、今後読み進めることで、私に誤解があるならば誤解が解け、「サティ」を含む「ヴィパッサナー(観)」の広く深い理解に導かれることを大いに期待して、同書を読み進めていきたいと思っている。
――――――――――――――――――
<追記>
編集者の意向なのであろうが、同書の帯には「人脳コンピューターのCPUがヴァージョンアップされ、……」等の言葉が並ぶ。『ブッダの瞑想法』をタイトルとしているならば、「真理が明らかとなる」や、「空を体得する」などの、より本質的な文言(同書に書かれているならばであるが)を引用した方がいいのではないだろうか、と感じた。些細なことではあるが、ふと目に付き気になったので一応記しておく。
<関連記事>
「ヴィパッサナー考――『ブッダの瞑想法』を読む(2)」
スマナサーラ長老著「仏陀の実践心理学」を読む
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「サティ」という用語は、八正道の「正念」などとしても用いられるが、自分にとっては分かりにくさの伴う用語である。
ここ十数年来、南方上座部(タイ、ミャンマー、スリランカ等)の「ヴィッパサナー瞑想」が、瞑想を志す多くの方々に受け入れられ、実践されている。この「ヴィパッサナー」は、「止観」の「観」にあたり、「サティ(念)」は「ヴィパッサナー(観)」と深く関わる。
実は、「サティ」を自分が理解しにくいと感じるのは、上座部(以降「テーラワーダ」と表記)等で実践されている「サティ」の行法に馴染めないからである。今回『ブッダの瞑想法』を読み進めるうえで、漠然としている「サティ」に関する自分の印象に形を与え、疑問点を明らかにしておきたいと思う。
テーラワーダが「サティ」を行ずる時に「ラヴェリング」ということをする。どういうことかというと、自分に生じる感覚、心、からだの動き等に、文字通りラヴェルを張っていくのである。コップの水を飲むときを例にとろう。
コップを手に取るときには
コップに手が「触れている、触れている」、コップを「持っている、持っている」、口に「運んでいる、運んでいる」、唇がコップに「触れている、触れている」、水を「飲んでいる、飲んでいる」、「飲み込んでいる、飲み込んでいる」、「冷たい、冷たい」というように、念じながら行うのである。確かに、「サティ」は「念じる」ということではあるが、私が捉えている「サティ」とは、やはり違う。
では、私が考える「サティ」とは何か。
諸仏典中で最古、「ゴータマ・ブッダの直説に最も近い詩句を集成しているのでは」と、言われるものに『スッタ・ニパータ』という経典がある。
『スッタ・ニパータ』中でも最古層と呼ばれるものに「彼岸道品」という一章がある。
中村元博士の訳された『ブッダの言葉――スッタニパータ――』(岩波文庫)から引用してみよう。
(1034)アジタさんがいった、
「煩悩の流れはあらゆるところに向かって流れる。その流れをせき止めるものは何ですか? その流れを防ぎまもるものは何ですか? その流れは何によって塞がれるのでしょうか? それを説いてください。」
(1035)師(ブッダ)は答えた、「アジタよ。世の中におけるあらゆる煩悩の流れをせき止めるものは、気をつけること(サティ)である。(気をつけることが)煩悩の流れを防ぎまもるものである、とわたしは説く。その流れは智慧によって塞がれるだろう。」
私にとっての「サティ」は、以上で説かれているように、感覚、心、からだの動き等に「囚われないように気をつけること」なのである。そのように「気をつけること」が、「無漏(むろ=漏れないこと)」をもたらす。それに対して「ラヴェリング」という行為は、私に限って言えば、無常なるものに追随する「有漏(うろ=漏れ出ること)」の感覚をもたらす。「心が心の表面をすべっている」、という感覚なのである。
以上、自分にとっての「サティ」とはいかなるものか、ということを確認し、まずは地橋秀雄著『ブッダの瞑想法』の「前書き」と「序章」の初めの方を読んでみた。
実は、なぜテーラワーダでは、「止観」の「観」だけが強調されるのだろうかと、常々疑問に思っていたのだが、その「序章」には次のような内容が書いてあった。少し乱暴にまとめてしまえば、「止は難しいので、観を教える」ということらしい。あまりにも単純な理由で、これには吃驚してしまった。
さて、今後読み進めることで、私に誤解があるならば誤解が解け、「サティ」を含む「ヴィパッサナー(観)」の広く深い理解に導かれることを大いに期待して、同書を読み進めていきたいと思っている。
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<追記>
編集者の意向なのであろうが、同書の帯には「人脳コンピューターのCPUがヴァージョンアップされ、……」等の言葉が並ぶ。『ブッダの瞑想法』をタイトルとしているならば、「真理が明らかとなる」や、「空を体得する」などの、より本質的な文言(同書に書かれているならばであるが)を引用した方がいいのではないだろうか、と感じた。些細なことではあるが、ふと目に付き気になったので一応記しておく。
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「ヴィパッサナー考――『ブッダの瞑想法』を読む(2)」
スマナサーラ長老著「仏陀の実践心理学」を読む
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便造さんのブログ&HPを拝見させていただきました。
私の稚拙なブログを省みれば、お恥ずかしい限りです。
ぜひとも勉強させてください。
よろしくお願いします。
サントーシーさんのブログは、私の興味を引く話題が満載です!
これからちょくちょくお邪魔したいと思いますので、こちらこそ、どうぞよろしくお願い致します。
「ただ心を静かにする」に近いような意味だったと思うのだけど。
そして、私には、それがとてもしっくりくるのだけど。
カタカナは苦手なので、漢字で書きますけれども、観るという行為は、念じるとは違うよね?
(ヴィパッサナーとサティの違いということか?)
そして、この本では、念じつつ観るってことを教えているんだよね?
でも・・・観るのに必要なのは、念じることではなくて、静けさだと思うんだけど。
行為を念じているだけでは、観ることはできないような気がするのは、やったことがないからだろうか?
止観の止が難しいから、観を教えるって、変な感じですね。
私にとっては、止と観は、ニワトリと卵みたいなものに思えるんですけれど。
静かにしていれば、観えてくる。
観えてくれば、ますます静かになる。
そんな感じがするなぁ。
止なくして、観はありえるのだろうか?
というのが疑問だな。
自分の動作を1つ1つ念じていたら、疲れちゃうよ。
どうせ念じるならば、もっと、良いものを念じていたいかなぁ。
そんなの正統派じゃなくて自己流だよ、と言われようとも、私的には「ラヴェリング」は、あまり意味がないような気がしてなりません。
雑念に囚われないために、行為の一つ一つを念じ、観察するという行法が生まれたのかも知れないけれど、かえって遠回りな印象を受けてしまうなぁ。
さすがに鋭く突いてくるね。
あれだけの記事の内容で、よくここまで理解したね。本当に私のコメントは何も要らないぐらいです。でも、何とか努力してみましょう(^_^)v
やはり止と観は一つだね。
どちらも自分にとっては必要です。
「静かにしていれば、観えてくる。観えてくれば、ますます静かになる。」本当にその通りだね。静かであれば、集中は自然に生じるしね。
その静まりの中で、智慧が生じるわけだし。
その静けさが得られれば、ラヴェリングはかえって「静かさ」を壊すものになってしまう。このところ何度か挑戦してみているのですが。
途中まで読んでの発言で恐縮ですが、どうも著者は本当の「止」を知らないんじゃないかな、とよく思う。一般的なイメージで語っているような気がするね。もっと自然で豊かなものなのに、と思ってしまう。
いずれ読了したら改めて記事をアップするつもりですが、読みながら結構引っかかる。
誤解があればその記事で訂正もするつもりです。
でも、今のペースでは、読み終えて記事をまとめるには結構時間がかかりそう。
ま、タバコでも吸って、気長に待っていてくだせぇ(-。-)y-゜゜゜
タバコは一本につき、どれだけ短く吸っても5分かからないもん。
私は、せっかちなのだから、さっさと読んで、さっさとアップしてね。
えっと、「止」について考えていたら、「カルマの流れ(?)」が止まるようなイメージが湧いてきました。
よくカルマの浄化とか言うけれど、刻々とカルマは蓄積されているような気がするし、浄化する端から、また溜まっていくようなイメージだったのだけど。
それを止めるのが、「止」なのか・・・?
なんて思ってみたりして。
実体のない自分に、形を与えるのがカルマの不断の流れで、その流れを止めるってことかなぁ・・・と言いますか。
>、「止」について考えていたら、「カルマの流れ(?)」が止まるようなイメージが湧いてきました。
このように諸法の真の姿をありのままに観察するのが「観(ヴィッパッサナー)」であり、その洞察をもとにして諸法を見ることも「観」だね。
そして「止」に関しては、「精神を集中する」や、「心を静める」という意味から、潜在する一切の形成作用の「止」がニルヴァーナを表す、と言われているらしいので、「実体のない自分に、形を与えるのがカルマの不断の流れで、その流れを止めるってこと」という洞察は、「止」の最も肝要な意味を捉えたのかもしれないね。
改めてびっくりだね。
「ラヴェリング」をしない吟遊詩人さんが、このような洞察に達することができるなら、「やっぱりラヴェリングは必要ない」、てことになってしまうね。
さて、記事のアップは10月ごろを予定しています(^_^)v
この機会にのんびりまとめてみたいものだ。(←許されるならば。)
はじめまして。まさに私もこのように思っていたはずなのですが、本を読んで嫌だなと思った自分を素直に表現できず後ろ髪引かれて頭の中で氏をきっちり批評できませんでした。そのことで苦しかったのですが。
氏の瞑想理論は釈尊の名を借りた氏独自のものであり、自分の瞑想に関する考え方が合わないのと
認識できました。
ありがとうございました。
確かに読んでいて、何故か嫌な気持ちや苦しさを感じる本でした。無理に読み続ける時間がもったいなく、結局途中で放り出してしまいました。
著者は偏りのないヴィッパッサナーを標榜しながら、実はヴィパッサナーに偏ってしまっているのかもしれませんね。
妄想狂時代さんの書き込みを読んで、私もほっとしました。自分ひとりの誤解かもしれなかったので・・・・・・。
これからも豊かな瞑想の世界で、お互いの道で進歩できたら良いですね。