ベリーダンサーASYA ☆ オフィシャルブログ

レバノンを拠点に、アラブ諸国を股にかけた過去を持つベリーダンサーASYA(アシア)の今と昔の奮闘日記

世界難民の日

2014-06-20 14:26:05 | Weblog

今日、6月20日は、世界難民の日だそう。

それより何より、こんな日があること自体が悲しい。

 

難民(refugee)とは、

対外戦争民族紛争、人種差別、宗教的迫害、思想的弾圧、政治的迫害、経済的困窮、自然災害飢餓伝染病などの理由によって居住区域(自国)を逃れた、あるいは強制的に追われた人々を指す

(wikipediaより抜粋)

 

世界中には自国を追われて生活しなければいけない難民(refugee)の人が沢山いて、国を出ているか出ていないかで名称が変わるらしいのだけど、(国内)避難民(internally displaced persons)も合わせると、一体何百万人もしくはもっと沢山の人たちが、故郷から離れたところでの生活を強いられているであろうか、考えるだけで胸が痛い。(もちろん幸せな人もいるだろうけど、それでもね。。。)

 

そんな人たちを今一度思おう、そしてそんな人たちが国に戻れるよう、幸せに暮らせるよう世界中で考える日ってことだろうね。

 

もっと詳しく書きたいけど、時間がないのでまた!

今からリハーサルに行ってきます。

 

UNHCR(世界難民高等弁務官事務所)のサイト

http://www.unhcr.or.jp/event/info/

 

wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A3%E6%B0%91


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23 コメント

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Unknown (ルテナン)
2014-06-21 12:35:34
ここにも、ボタンがあるといいのに。
どこかのサイトみたいに、
「イイネ!」。
返信する
ハリージ動画からの諸々① (ルテナン)
2014-06-22 20:18:17
先日拝見した動画を発端に、ここしばらくの見聞と雑感を一筆啓上。
感心したことやら、驚愕の話やら、ネット環境の不調に悩まされながら拾い歩いた諸々と、
内心の呟きをいくつか、書かせていただくつもり。
忙中閑の慰めになれば幸いです。
適当なところで分割しながら書きますが、途中で尻切れトンボになる可能性も ...。
途中で挫折したときは、何卒ご容赦のほどを。(^_^;

【フォークロア】
> 私が「カウリヤ」と認識しているものとよく似ている

と書きましたが、正確には少し違っています。
ハリージ動画では頭を「∞」を描くように振っていますが、「カウリヤ」は「○」を描くように振ります。
なので右旋回と左旋回があります。
高速で振るには「∞」のほうが理に適っていると思います。

昨年の夏、ウェブ上で「カウリヤ・ダンス」なる動画を見かけました。
そのときは「後で見る」式に片付けていたのですが、今回は改めて追ってみました。
するとこれが、思いのほか多数。
見事にベリーダンスにブレンドしている人、原型に忠実にやっている人、等々。
これが“フォークロアブーム”ということでしょうか?
驚くのはベリーダンスの融合力です。
伝統的なものであれ、革新的なサブカルチャーであれ、異質なものを取り込みながらも、
その特質を失わない。
原初的パワーはそのままです。

動画投稿は2000年代以降に盛んになったので、それ以前の映像情報が見当たらなくても、
何ら不思議ではありません。
が、テキスト情報でも「カウリア」に関する2000年以前のものは、ほとんど見当たりません。
あったとしても、2000年代に書かれたものの中で、過去形で言及されているぐらいです。
伝道者が居て、90年代から活動していたかもしれませんが、やはり2000年代に広まったとしか
思えません。
80年代、これがイラク国外に広く流布するなど、私は「到底ありえん!」と思っていました。
それを言えばベリーダンスだって、カルチャーセンターでコースがないところを探すのが難しい、
今日の日本の普及状況は「ありえへん話」だったわけで、驚くのは自分が時代遅れであることを
カミングアウトしているようなもの ...。
光が当たらなかったものは、いずれ発掘される運命だった、と言ってしまえばそれまでですが、
30年以上経って、再びこの名を耳にするとは、感慨深いものがあります。

国が安定し、平和で開かれた社会になったから、国外に伝播するようになったのでしょうか?
実際の状況はまったく逆です。
80年代は、恐怖政治の独裁政権下、10年にも及ぶ対イラン戦争。
90年代は、クウェート侵攻に対する手痛いしっぺ返しの湾岸戦争と、それに続く長期の経済制裁。
中途半端な侵攻でフセイン体制は維持され、政権打倒を期待して叛旗を翻した勢力は取り残され、
国内の弾圧は苛烈になって、一種の末期症状を呈するようにも見えました。
そして00年代は、アメリカが後先考えず政権打倒に突っ走った、無慈悲で大儀のないイラク戦争。
湾岸戦争よりはるかに少ない兵力で占領し、新たな秩序の成立を期待する、という無謀な試みが
どうなったか?は周知とおり。
隣国シリアの三つ巴の内戦が、今や双子に分裂、イラクで膨張しつつあります。

湾岸戦争の時点で政権が打倒されていたとしても、アフガンに代わり10年早く、テロリストの
培養土が出来上がっただけ、という可能性が高かったでしょう。
たとえ国民に多大な犠牲を強いる独裁政権でも、政府や制度が機能し、曲りなりにも秩序が
維持されているうちは、大方の日常は平穏です。
独裁政権は社会の騒乱を嫌い、犯罪も厳しく取り締まるので、治安も比較的良かったのです。
もちろん、反体制の立場の者にとっては、平穏などないわけですが ...。

私は、イラクとその周辺の現代史を論ずるつもりではありません。
ただ、イラク戦争以降、半独立状態を勝ち取ったクルド自治区を除けば、独裁の時代のほうが
良かったと思えるほど酷い状況で、全体的には何も良くなっていないことを指摘したかったのです。
敵対するものには情け容赦ないが、味方を増やすために、少数民族、宗教・宗派で少数の者を
保護もしていた独裁政権。
それが倒れ、新たな秩序は新たな力の均衡が生まれない限り望めず、それがいつ訪れるのかは
知れず、明日の不安が増大する日々。
社会の軋轢が暴力的な形で噴出するようになったとき、そのシワ寄せをより大きく受けるのは
マイノリティ、というのは想像に難くありません。

「カウリア」というのは、いわゆるジプシーです。
当時、私もそれほど多くを知り得たわけではないのですが、それでも書くと長くなるので簡単に。
ロシアと、トルコを含む欧州全域では「ロマ」。
ご存知の通り、“エジプシャン”が訛ったという説もある“ジプシー”は、現在は誤謬の多い用語とされ、
使われなくなっています。
その「ロマ」のうち、どこかで進路を変えて中東へ移動していった一団の、イラク国内での呼称が
「カウリア」です。
地域によってその呼称は異なり、同じ一国の中でも複数の呼称が存在します。
これは、論議はあるものの統一的な名称が存在している「ロマ」と異なり、アラブ圏における
この民族の研究が進んでいない証左でしょう。
彼らが現れたのは、中東全域がイスラム化/アラブ化する以前か?以後か?さえ諸説あって
はっきりしません。

何処へ行っても先住者が居て、土地が持てないので農業はやれず、都市周辺で先住者を圧迫
しないような職業にしか就けなかった、というのは「ロマ」と同じです。
そして、蔑視の対象であり、差別されることも同様で、社会的な地位はキリスト教圏でのそれと
何も違わないでしょう。
そんな彼らの芸能が平和裏に国外へ伝播したのでしょうか?
2000年代という時期と、先に書いたような、マイノリティには一層厳しいと思われる状況が背景に
あったのではないか?
そのようなことを書いた記事は見つからないのですが、関係ないこともないだろうと思うのです。
それはちょっと「考えすぎじゃない?」と言われそうですし、まったくの私見ですが、動画を発端に
行き着いたのは、こんなところ。
World Refugee Day に寄せて、まんざら関係なくもない一件でした。

(次の話に続く ..、つもり)
返信する
Re:ハリージ動画からの諸々U+2460 (bellydancer_asya)
2014-06-24 03:50:59
ルテナンさん
ひっじょーに面白い見解そしてリサーチをありがとうございます!
ただ、カウリーヤで頭を回す時はU+26AAU+FE0E、ハリージの時は8の字オンリー、というのは定かではないです。
というのがハリージでも頭をU+26AAU+FE0Eに回すこともあれば、カウリーヤのパフォーマンスでも頭を8の字に回すところを見たことがあり、なんだか互いに影響し合っていることが思われるから。
ステップの違いなど明瞭にも思えますが、定かなところは分からないですよね。。。
音楽は完全に違いますが!
私ももう少し勉強してまたエントリーでお話出来れば!と思います。
気長に待ってて下さい。笑

また、上手く世界難民の日につなげてくださり、ありがとうございます!
返信する
ハリージ動画からの諸々② (ルテナン)
2014-06-25 03:20:40
ワールドカップ視聴サイクルの生活で、妙な時間に眠くなります。
全部自分で書くと間に合わないので、今回は人様の力も借りて、手早く行きたいと思います。

【モスル】
俄かに戦乱の渦中となって、世界の注目を集める都市。
報道では、“アラブとクルドの境界都市”という表現を見受けます。
たしかに、単純化すればその通りなのですが、それだけでもありません。
いつも予約なしで行っていたのに、何故かほぼ同じ部屋が空いていた下町の安ホテル。
アルメニア人が経営していました。
私が「カウリヤ」を目撃したというか、遭遇したというかも、このモスルです。
町外れに点在する集落のうちの一つも、「カウリヤ」と呼ばれていました。
我々は「香り屋」などと捩っていましたが、この字面はかなりキレイすぎる表現です。(笑)

モスル北方の山間部。
それまで通過してきた町とは様子の異なる、小さな町がありました。
車を停めさせて、一つの建物を見ていました。
さほど大きくはないのですが、正面は暗い色の石造りで、不釣合いなほど大きく立派な扉。
教会のように思えましたが、見慣れた教会とは異質の雰囲気。
しげしげと眺めていると、脇の路地から娘が二人出てきました。
二人とも当時流行のイタリア風スリムジーンズに、目に沁みるような赤い口紅で、一人は明るい髪の色。
モスルはもちろん、首都でも滅多に拝めないほどスタイリシュ。
思わずサングラスをずり下げて、まじまじと見入ってしまった私は、彼女達に胡散臭げに見られてしまいました。
後に聞いたところによると、クリスチャンであってもアルメニア人ではないとのこと。
イラク国内で少数派のキリスト教徒でもさらに少数の宗派、カトリックでも正教でもない中東諸派の中でも、
孤立した宗派でした。
アメリカへ移民したり、出稼ぎに行っている者が多く、そこからいろいろな物が送られてくると聞いて、前述の
二人の出で立ちが理解できたものです。

このように、大まかにはアラブとクルドですが、その中に民族・宗教・宗派の異なるコミュニティが
モザイクのように散在しているのがこの辺りの風土です。
クルド人は勢力が大きくて、もはや少数民族と呼ぶには抵抗がありますが、その中にさえ非ムスリムの
集団が存在します。
このような事情が窺い知れるコラムを、酒井啓子氏がニューズウィーク日本版に書いておられます。

『イラクの細分化が始まるのか』
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2014/02/post-792.php

2月の上旬、このコラムで示された危惧が、現実になりました。
このところの急展開を受けて、かつてない頻度でアップされるこの↓コラム。

『中東徒然日記』
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/?from=neighbor

的確な分析と、鋭い考察が山積みであるにも拘わらず、どうしてこんな長さで分かり易く書けるのか?
と、毎回感心しながら拝読しています。
さすがはイラク政治史・現代中東政治研究の第一人者。
長年の疑問が氷解し、目から鱗の思いもしばしばで、どれも一読に値します。
関心をそそるタイトルがあれば、拾い読みされることをお薦めします。

さて、今回の ISIL(又はISIS)によるモスル攻略。
あっけなく陥落した原因は、この地域で中央政権が民心を失っているとか、反動でスンナ派が ISIL を
支持したからとか言われています。
それもあるでしょうが、目立つのはテロ組織の用意周到さです。
シリアへ行って外国人テロリストを吸収し、成長してモスルに攻め上ってきたのなら、その途中で戦闘が
あってもよさそうなものです。
しかし、シリアからモスルへの経路上にある、タラファールでの戦闘が伝えられたのは陥落の3日後。
密かに潜入して集結、最大の衝撃を与えることを狙った奇襲だったと思われます。
狂犬のような集団がむやみに突出して、「たまたま時機を得て成功した」のではないことは明らかです。
最初の数日の展開を見ていて、何やら胃の裏側が冷たくなるような感覚を覚えました。
狂信者が指導する集団が、旧ドイツ軍ばりの電撃戦をやるだけの、冷静さと計画性を兼ね備えている。
この国の分邦化と、その固定化は避けられないように見えます。
さらに、シリアと併せて、この一帯の国境線の形と数が変わってしまうのでは?と思わせます。
地中海からペルシャ湾最奥部に至る、広大な原理主義の支配地などできた日には、世界中にテロが
輸出されるでしょう。
そうなったら悪夢の中の悪夢です。

さすがにバクダッドは、そう簡単に落ちることはないでしょう。
しかし、すでに過激派に奪われた地域を取り戻すことも、難しいでしょう。
奪われた地域では、暗黒の中世さながらの統治が予想されます。
非ムスリムには割り増しの税金をかける、などは序の口。
シリアでの暴虐ぶりが知れ渡っていた連中が舞い戻ってきた、と思うからこそわずか2日で50万人が、
エルビル目指して逃げ出したのだと思います。
それから一週間、UNHCR が「第二次大戦後初めて、難民・避難民が5千万人を超えた」と発表しました。
昨年末時点での統計です。
同じ日、「イラク難民、100万人突破」が報じられました。
集計の重複を差し引いても、発表直前の10日あまりで、1%以上統計が上積みされたのです。
もう、ムチャクチャです!

数日前、そんなこんなを全部代弁してくれるような文章↓に出会いました。

『イラク各地を制圧しなががら首都バグダッドに迫るアル・カイーダ系武装集団「ISIS」の脅威』
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/39610

4ページのちょっと長いコラム。
この方の文章、今回初めて読んだのですが、感じること、考えるところ、ほぼ100%私と一致します。
なんというか、思考のデジャヴというか ...。
ISIL の「レバント」という用語に引っ掛かりを感じるところとか、人々を避難に駆り立てる恐怖の正体とか。
久しくなかった、「読む」という行為で頭がくらくらする経験をしました。
読み直してみると、この方の在イラク期間は、私の期間とピッタリ重なります。
バクダッドに落ちたミサイル、当時の北部の状況、等々みな私の記憶と寸分違いません。
極端な話、「自分が書いたんじゃないか?」と思えるぐらいです。
さらに、著者プロフィールを見ると ...。
なんと、生年まで同じでした!(^_^;

それにしても、この方面について感服する文章を書く人が、揃って女性というのはこれ如何に?
男は書かんのかい!?
いや、書いてる人は少なくないのですが、だいたい小難しくって、読みにくいんですよね。(笑)

ちゃっかり引用して済ませた今回は、硬派な話に終始しましたが、最後にダンス。
どうやら風営法が改正されそうですね。
そもそも風俗を取り締まれても、文化を管理できない、警察に任せているのが間違いだと思いますが、
少なくともダンスだけで取り締まられることは、なくなりそうです。
こんなものが残っていたのでは、イスラム法を振りかざす原理主義者を、時代錯誤と非難することは
できませんよね。

(次の話に続く ..、かもしれません)
返信する
ハリージ動画からの諸々(補足) (ルテナン)
2014-06-29 21:18:04
文字化けしています。
丸付き数字が意味不明の文字列になっています。
PCからでは、おかしなところはありませんが、モバイルデバイスで化けているようです。
2014/06/22 のコメントタイトル:「ハリージ動画からの諸々」の後は、丸付き数字の「1」です。
2014/06/25 のコメントタイトル:「ハリージ動画からの諸々」の後は、丸付き数字の「2」です。
モバイルデバイスからの「Re:」のタイトルで、化けているのがPCからも分かります。
記号「∞」(←無限大)は大丈夫そうですが ...。

以後は、丸付き数字を使わないようにします。(^^:)
返信する
Re:ハリージ動画からの諸々(補足) (bellydancer_asya)
2014-06-30 22:10:51
お知らせ、ありがとうございます!
今更ですが、私もJST...(?)ってなんだろう?と思ってました(*^_^*)

先のコメントも大変勉強になります!
このブログを読んでらっしゃる方も皆さん私の言葉足らず、情報足らずを上手くフォローしてくれていると思っていると思います!
いつもありがとうございます!
返信する
【世界難民の日:引用補足-1】 (ルテナン)
2014-07-13 22:27:23
【レバント】
中東の地図を広げて、以下の引き算をします。
詳細には異なる部分がありますが、便宜上現在の国境線も使います。

まず、トルコ共和国とイランを切り離します。
これで北と東は空白です。
次にアラビア半島を切り離し、シナイ半島以西のアフリカも切り離します。
これで南も空白、西に残るのは地中海だけです。
この残った土地、これをなんと称するか?

長年ピッタリのものがない、と不思議にも思い、歴史を遡ってみたりもしましたが、ありません。
なので、シリア内戦にISIL(イラクとレバントのイスラム国)が登場したとき、奇異に感じたものです。
先のコメントで引用したコラム冒頭で、川口マーン惠美氏も書いておられるとおり、「レバント」というのは
中世以降の用語です。
海上帝国というほど交易で栄えた、ジェノバやベネチアなどのイタリア都市国家が、交易の相手としていた
地中海東端の沿岸部を指してそう呼んだのが始まりのようです。
そうすると、ISILでは「シリアとヨルダンが抜けてるぞ」ということになります。
ISIS(イラクとシャ-ムのイスラム国)というのも、収まりは良くありません。
「イラク」が英字表記しても通用するのに対して、「シャーム」は馴染みがなく、英字表記で並べても、
「イラク」同等の通用性がないからです。

過激派の彼らも自らの名称を考えるとき、きっと悩んだのだと思い、内心ニヤリとしてしまいました。
この地図に残った領域が、より広大な帝国の一部であったことは、史上何度もあります。
しかしそれはこの領域が、政治的・文化的に一体であったという意味ではありません。
内実は細かく分かれたままだったのです。
引き算した部分にまたがらず、この範囲だけを指す地方名がないことは、かつて一度も一体であった
ことがない証明のようなものでしょう。

いかに過激派の勢力が伸張しようとも、今後も一体になることはないような気がします。
返信する
世界難民の日:引用補足-2 (ルテナン)
2014-07-13 22:58:08
【砂漠】
私の旧知にバラの栽培を趣味にしている人がいます。
会うたびに聞かれます、「ねぇねぇ、砂漠に咲くバラがあるんだって?」と。
どうやら、サハラというバラの品種から連想しているようす。
その都度答えます、「いや、砂漠なんて見たことないし」と。

川口マーン惠美氏も「砂漠」と書いておられますが、「砂漠」という訳語から想像される、
サハラの観光ポスターのような光景は、一度も見たことがありません。
あるところは石と砂、またあるところは、歩けば膝まで土煙が舞い上がるほど微細な土ばかり。
かと思えば、角のある礫と露出した岩の頭で覆われた、いわゆるガレ場が延々と続いていたり。
川筋を一歩離れると、荒涼・茫漠としていることは間違いないのですが、砂の山が見渡す限り続く
光景は、アラビア半島まで南下しないと見られないのではないかと思います。

美貌のシリア大統領夫人は、欧米のメディアから「砂漠のバラ」という称号を奉られたとか。
やはり「砂漠」という訳語が良くないと思います。
「砂」の字があるので、どうしても「砂」のイメージに支配されてしまいます。
しかし、どちらからというと「荒地」「荒蕪地」のほうが実態に近いでしょう。
でもそれでは、実際には存在する「砂」のイメージが消えてしまうし ..。

う~ん、難しいものです。
そして件の薔薇栽培夫人がまた、「ねぇねぇ、砂漠に ...」。(´_`)
返信する
世界難民の日:引用補足-3 (ルテナン)
2014-07-13 23:05:32
【山】
川口マーン惠美氏が、モスルを含む北部を旅行したときの記述。
「あちこちに緑が息づく起伏のある風景」が、南方の荒涼とした平坦地から来ると新鮮だ。
と書いておられます。
たしかに、比較すればそうなのですが ..。
モンスーン影響下の温帯に暮らす、日本人の一般的な「山」のイメージとはかなり違います。

春先の短期間、新鮮な緑の癒しを感じることはありますが、我々が見慣れた、樹木に覆われた山を
見た記憶がありません。
そして冬以外は、日中となると平地同様に酷暑。
山間部の涼しさとは無縁です。

なるほど、古来から木材が貴重なわけだ。
だからレバノンまで、わざわざ杉を伐り出しに行ったんだな。
と、納得させられる風景でした。
返信する
世界難民の日:続報 (ルテナン)
2014-07-19 01:48:54
【カラコシュ】
まだリンク先の記事が読めるうちに追加します。

2014/06/28
『日本のNGO、支援本格化へ=避難民流入のクルド自治区-イラク』
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201406/2014062800040&g=soc

政府の資金を受託できるNGOは、動きが早いですね。
スタッフもそこそこ充実しているようだし。
が、私が気になったのは、過激派に攻撃されたという「カラコシュ」という町。
語感がアラビア語ではありません。
調べてみると、意外にも Wikipedia に記事がありました。

誰でも編集に参加できるので、すべての記事が信用できるわけではありません。
しかし、編集履歴と記事の内容から見ると、信用してもよさそうです。
小さな町なのに記述が広汎で、充実しすぎの感もありますが ...。
最初にこの記事をアップした人物は、この町の住人だったかもしれません。
その↓記事。

『Bakhdida』
http://en.wikipedia.org/wiki/Bakhdida

読むのは、最初の数項目でもいいでしょう。
'70年代、アラブ化政策を推進する前政権により、「ハムダニヤ」と名前が変えられたとか。
中国がウイグルやチベットで行っている同化政策と同じです。

ハムダニヤなら私にも聞き憶えがあります。
エルビルよりはモスルに近く、実用試験をかねて先行設置されたサイトがありました。
私が行ったときにはほぼ完成しており、用もなかったので一度ぐらい行ったか行かないか。
記憶しているのは「ハムダニヤ」という名前ぐらいなものです。
こんなところでその由来を知ることがあろうとは、思いもよりませんでした。

記事の最初に「アッシリア人の町」とあります。
Nineveh(ニネヴェ)もNimrud(ニムルド)も、古代アッシリア帝国の首都だった都市。
ニネヴェの遺跡は現在のモスルの中にありますが、ニムルドは現在の町が近くにありません。
当時、ハムダニヤは私の眼中になく、ニネヴェの廃墟を探し回っていました。

話を戻して、現代アッシリア人。
彼らは古代アッシリア人の末裔だと主張しているのですが ...。
アッシリアは釈迦が生まれた頃には滅びています。
国が滅びても、アッシリア人がいきなり消滅したはずはないでしょう。
しかし、民族の興亡の激しいこの土地で、古代からの連続性を保つ集団が存在するなど、
信じがたい話です。
彼らの主張の真偽のほどは、考古学者に任せておくとして、「町の状況」。

近年の国内事情により、クリスチャンのモスル周辺の高原(平原)への集中が進んだ、
というのは間違いないでしょう。
Syriac Catholic Church とか、Syriac Orthodox とか、カトリックと正教双方の系統の宗派が
登場していますが、Assyrian Church of the East (アッシリア東方教会)というのが注目です。
この宗派はネストリウス派を継承していると伝えられています。
先のコメントに、「カトリックでも正教でもない」と書いたのはこの宗派のことです。
話には聞いていたものの、半信半疑だったので、娘達のファッションと同じくらい驚きました。
あの町も、別の名前があったのかもしれません。

ネストリウス派はキリスト教史のごく早い段階で異端とされたので、東方へ活路を求め、
7世紀前半には唐代の長安に達しました。
けっきょくは消滅しましたが、「景教」と呼ばれ、寺院が建設されたと記録されています。
同じ頃、日本が国家事業として遣唐使を始めました。
ペルシャ人司祭の居る景教寺院を、留学生達は見学したかもしれません。

宣教師が来るぐらい、隊商の往来も盛んだったということです。
「胡」は中国人がペルシャ系の民族に当てた字です。
実際には中央アジア以西の南西アジアが、中国人にとって全部「胡」だったのではないか
と思います。
胡の文物は、伝統を重んじる士大夫が嘆くほど流行したようです。
「胡風」のクラブでは葡萄酒が出て、碧眼の「胡姫」が舞う「胡旋舞」は大人気だったとか。
どんな音楽で、どんな舞踊だったのか、知りたいものです。
この「胡旋舞」、おそらくはベリーダンスの祖形の一つではないかと思います。
「旋」というぐらいですから、高速連続ターンが印象的だったのでしょうか?

再び話を戻して、カラコシュ。
住人が避難したこの町の、その後を伝えるレポートがありました。

2014/07/11
『Is this the end for Christianity in Iraq ?』
http://www.globalpost.com/dispatch/news/regions/middle-east/140708/christians-mosul-end-christianity-iraq

動員された自警団の警備の下、住民は町に戻っているようです。
過激派の攻撃というも、本気で町を奪取する気はなかったのではないかと思います。
しかし、他の町、他のマイノリティの居住地はどうなっていることやら。

このビデオレポート、珍しい風景が写っていて、興味深いものがあります。
町の様子もさることながら、車窓の外の平原と山の遠景なども。
インタヴューに答える住人も、「バクディダ」と言ったり「カラコシュ」と言ったり。
いったいこれから何が起きるのか?何が起きないのか?
予断を許さない状況にもかかわらず、自宅に戻れることになった女性の嬉しそうな
表情が印象的です。
願わくは、その安心が一時のものでなからんことを。

出ないときは何もないのに、出るときはまたいろいろと ..。
でも、このシリーズもそろそろ終わりにしたいと思います。
次の書けるときに、書けることを、ということで。
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