赤坂の不動産業「バトルステーション」営業日記

赤坂で不動産業を営んでおります株式会社バトルステーションの日記です。

大昇産業時代

2015年11月25日 | 日記
私は平成14年4月1日より(株)大昇産業にお世話になった。しかしお世話になった期間は6か月という短いものだった。何故6か月で辞めてしまったかと言うと、意味も無く長い会議、会社での営業以外での業務の不満、社長との軋轢等により結果として退職することになってしまった。
毎日朝8時半から会議が始まるが、だらだらと時間を浪費し早く営業に出かけたいのに出られず結果的にやる気があるのに思いっきりやらせてもらえない環境、そして月初の会議では気合と根性を大声で叫ばされたり全くそれをやることの意味を説明されずにやらされる不快感が溜まっていった。
営業以外では、水曜日と土曜日の朝は室内でラジオ体操をさせられ、(工場労働者じゃないんだよ~と思ったり)社訓のようなものを毎日読まされるのだが、社訓もコロコロ変わり、段々長文化していったのでものすごく読むのが大変で時間が掛かるものになっていった。
極めつけは、月初の会議があまりにも詰まらないので寝てしまった。それで事あるごとに社長から寝てた事を指摘されたので思わず社長に言ってしまった。「私が社長なら、社員が何で寝てしまったのか、会議のあり方をまず考える」と言ってしまい完全に社長から不評を買ってしまった。
オーナー会社で社長に嫌われてしまった以上もう私は会社にはいられないと思い、会社を辞める決心をした。
辞めた後、どうするか考えた場合、結局男はサラリーマンをやるか自分で会社をやるか二つに一つしか選択肢が無い訳で、私はこんな形で会社を辞めたなら、もうサラリーマンは無理だと思い、仕方なくという感じとその時の勢いで独立の道を選ぶことにした。

今はその社長さんとも仲良くお付き合いをさせてもらっている事だけは付け加えさせて頂く。
こんなドタバタの大昇産業時代だったが、ここで一番の私の大きな出来事は、現在も取締役として一緒にやってもらっている公認会計士のH氏と知り合った事である。この出会いが無ければ、今の私は無かっただけに私にとって人生のターニングポイントになった。
またH氏以外でも、今でもお付き合いをさせて頂いている先輩同僚の方々が多数いる。
私が勤めた商工ファンドも大昇産業も私が退職してから数年後に両方とも倒産した。私は傾く前に運よくどちらの会社も退職している。
たまたまだが私は節目節目では付いている気がしている。そして人との出会いに関しても運が良いと自分でも思っている。

しかしながらこれで私のサラリーマン人生は終わりを告げるのである。
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無職時代

2015年11月16日 | 日記
私は、平成14年の1月から平成14年の3月31日まで無職であった。私は有給消化中に、静岡の家を引き払い、足立区の舎人に住んだ。正確な住所は埼玉県草加市遊馬町というところだが舎人から竹ノ塚までのバス便の家だった。今後の生活の不安と生活レベルを落とすために、新築であるが家賃75,000円のバス便のアパートを選び、そこから第二の人生のスタートを切った。
妻は生活の為にパートをしてくれていたので、私は近くの舎人公園で妻を駅に送った後にジョギングをして、ファイナンシャルプランナーの学校に行ったり、失業給付金を申請するのにハローワークに行ったり、無職生活を楽しんでいた。夜は空手道場に通ったり、商工ファンドを辞めた人たちと連絡を取り、今後の就職の情報収集も欠かさず行っていた。
だが2月くらいからさすがにまずいと思い始め、人材紹介会社や転職フェア等にも言ったりしたが30歳を超えての転職は結構厳しかった。私は類似業種と商工ファンドを辞めた人が多く就職している金融と保険と不動産には行きたくないと思っていたが、営業が出来ると言っても形に表しにくいので、提示された給料は商工ファンド時代の半分以下ということで非常に厳しい現実を突き付けられた。
その中で、商工ファンドの後輩が就職した人材紹介会社のエリートネットワークの社長さんの話を聞いて、上場を考えている不動産会社があるからといことで1社紹介を受けた。
その時、リクルートエイブリックからも2社紹介を受けて内定はもらっていたが、パチンコのスロット屋と営業支援会社だったので給料は良かったが決めかねていた。私はエリートネットワークの社長に給料が欲しければ今までの経験を少しでも活かせる会社を選べという事と、将来独立志向があるなら不動産業だと言われ、私は独立する気はその時は無かったが、上場後の持ち株のキャピタルゲインを狙い、株長者になろうと思って、上場を目指している勢いのある不動産会社に就職することを決めた。
その会社名は、「大昇産業」という会社である。平成14年4月1日よりお世話になることにした。
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傍流の旅から退職へ

2015年11月09日 | 日記
私は平成13年4月に本社審査部へ転勤になり、退職の申し出をしたことにより、その年の7月に大宮支店の管理部へ飛ばされた。そこでは部下もいない中、債権回収を北関東を統括する管理部長の下で行う事になった。部下がいなくなったからと言って別に寂しい訳では無く、行った先の東日本統括部長が私の同期のS氏だったことから、気楽に楽しく仕事が出来た。プレッシャーが無いのが良い事か悪い事かは分からないが私にとっては有意義な時間であった。仕事は同期のS氏を助けるべく一生懸命にやってそこそこの業績は残せた。しかしさすがに楽が出来るのは長く続く訳も無く、債権回収の仕事は一か月で終了し、東海ブロックのブロック長として静岡支店に転勤を命ぜられた。
平成13年8月に静岡県内5店舗を統括する東海ブロック長に就任した。以前に比べれば都落ちも良いところだったが、私には特にそれに関して焦る気持ちや恥ずかしい気持ちは無かった。私のこれまでやってきた実績は、社内の誰もが認めるところであり、かつ今は小規模かもしれないが、また成績を上げて伸し上る気持ちも自信もあったからである。私は就任後、人の面で苦戦したが、何とか3か月目の平成13年10月に不動産融資を行い、瞬間風速であるが静岡支店の収益を2000万から3000万に1000万純増させた。
しかしその他の新規獲得等が振るわなかった為に、名古屋支店の副支店長に転勤を命ぜられた。私は、新規獲得が悪い事は事前に分かっていたので、自身で新規顧客の訪問に行き、会社では時間が無いので会社からDM類を持ち帰り、妻にDMの作成をしてもらい、新規獲得について成果を出すために着々と準備をしていた所だった。その矢先に、転勤を言い渡され私はとうとう切れてしまった。
私の努力など本社には分からないのも当然だが、3か月で見切られたことに納得が出来なかった。業績自体は伸びていたにも関わらずにだ。私はこうして11月の1日に静岡支店の引き継ぎを終え、名古屋に行くと言って名古屋駅の新幹線の待合所で1時間考えた結果、静岡へ戻り今回は本当に辞める決心をして会社の人間と連絡を絶った。
携帯はドライブモードにして留守電も入らないようにして連絡は支店と人事の特定の人だけと連絡を取った。家は借り上げ社宅の為、当然すぐ引っ越しをしなければいけないが、家を探すのも東京で探さなければならないので、すぐ東京へ行って家さがしを行った。
私は、新卒から10年7か月務めた商工ファンドをこのような理由で退職した。未練はあったがここで辞めなかったらもう辞める理由は無くなるだろうと思った。今後2回も退職を申し出た人間が出世街道に乗ることは無いだろう。今後ずっと虐げられた人事で、浮き草のように傍流を歩む事を選択することは私には出来なかった。だから辞めた。
退職日は有給休暇を消化して平成13年12月30日に退職をした。
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本社へ転勤そして傍流へ

2015年11月07日 | 日記
私は、この激動の仙台支店を1年経ったところでまた転勤になった。仙台支店でも新卒社員の教育に注力した結果、仕事の出来る社員に育ってくれていたので仙台もこれからという時だったがサラリーマンの宿命というところだろうか。正直仙台支店では、業績は悪くなかったが、広島の時のようにずば抜けた業績では無かったので、本社へ行く意味が分からなかった。
その年の2月に結婚して、2週間新婚旅行で会社を休んだから転勤になったのか。(私は新卒で入社して10年間病気も含め一度も会社を休んだことは無かったので新婚旅行くらいゆっくりしようと思って休んだのだが他の役員に2週間も休むのは前代未聞と言われた。)社長が若手を起用したかったからところてん式に私が出されたのか、あまり納得のいく人事では無かった。
私は本社へは審査部に配属された。肩書は審査部長だった。筆頭では無い2番目か3番目の審査部長で待遇は栄転だったが、扱いは左遷みたいな感じだった。久しぶりに行く本社は以前とはがらりと雰囲気が違っていてどこかギスギスした感じだった。仕事の内容や社長からの指示も会社が大きくなっているので高度になっていて、がむしゃら営業で地方暮らしが長かった私には住みにくいところになっていた。
それと商工ファンドの業績アップのビジネスモデルは審査部が営業推進をするという普通の金融機関では考えられない方式を取っていたので、そのやり方にも疑問を感じていた。
私は、今回の納得のいかない人事や謂れの無い事での叱責、業務に対しての自身の無力感、日々の過剰労働等が相まって、かなり悩んだが会社を辞める決心をした。審査部筆頭のO部長に話した所、強烈に遺留されて社長面接になって、留まることにしたが一度その言葉を言ってしまったらオーナー社長の会社であれば当然私は出世街道から外れる訳で、そこから私の傍流の旅が始まるのであった。
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リストラ

2015年11月06日 | 日記
私は初めて社員を辞めさせることを仙台支店で経験した。それまでの商工ファンドは右肩上がりの業績であったため、社員はいつも足りなかったし、採用以外はしたことが無かった。ましてやリストラをするなんて夢にも思わなかったのである。本社からまず事務員を切るように指示が出た。
当時の仙台支店の事務員は、営業、管理のサポート合計で8名いた。これ自体は多過ぎなのだが、これを3名までに絞り込んだ。最初は誰を残して誰を辞めさせるなんて決められないと思ったので全員辞めさせようとしたのだが、それはおかしいということになり3名に残ってもらった。
私は今なら状況に応じて必要であれば、自分の意思で社員の首を切ったりすることも出来るが、その当時はまだ思考がサラリーマンだったので、自分の手でリストラすることが辛くて辛くてたまらなかった。自分も辞めたい気持ちになった。今は社長の判断は会社を守るために正しい判断だったと思っているが、その当時はまだ甘ちゃんだったせいか、社長の考えに納得することは出来なかった。
しかしこの大ナタを自分で振った経験は、自分が経営者になってから非常に良い意味で活きている。業績の悪い時の腹の座り方が違ってきたというか、覚悟が付いたというかそんな感じである。
しかし30歳そこそこで自分で人を切るというのは、今となってはいい経験だが、酷な仕事だった。
しかし会社を経営するようになってこの経験は、不採算事業の撤退の時期やタイミングを計るのに非常に参考になっているし、リストラで人を切るのも事業を切るのも同じなので、見極める目は付いた感じがしている。そのくらい貴重な経験だった。
今ではよく分かる。営業は仕事を取ってくれば利益を生むが、間接部門はコストしか掛からない。だから極力減らすべきというのは理に適っている。直間比率は9:1にするように言われた。
でもこの教えは私が独立したときにそのまま活きている。私はこの直間比率が頭にあったので会社を起こして5年くらいは事務員を採用しなかった。
私は昼間営業に行き、夜中事務をこなした。それでも回っていたので忙しかったがやれていた。事務員のコストを吸収できる自信が付いてから事務員を採用した。
私はこのリストラの教訓が活きているため、組織は常に筋肉質でなくてはならないと常に考えている。
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