当社は創業4年目に契約のデフォルトをしそうになった。これはどういう事かというと、通常の不動産の契約は、契約時に手付金を支払い、1か月~3か月くらいの間に残金を用意し、不動産の引き渡しを受けるのが一般的である。当社は創業4年目でまだ前期の年商が2億円くらいの時に南青山で仕入れ値で1億6000万の不動産を購入する契約をした。これが経験不足から、建蔽率が若干オーバーしていたために、東京スター銀行で予定していた融資がドタキャンになり、急きょ経理のH氏はノンバンクに切り替えた。しかしノンバンクの融資金額は1億2000万だった。手数料や登記費用を入れたら約5000万円不足する状態になってしまった。当然また会社のお金をかき集め、私は私自身は全くお金が無いから親に借金をお願いし、また監査役のS氏に1000万近いお金を用立ててもらったが、それでも約2000万近くお金が足りなかった。その間親に相談するまでは、私は経理のH氏には資金繰りについて一切口出しはしなかった。うまくいっていないのは何となくわかっていたが、変わって自分がやってもH氏以上のパフォーマンスを出せるわけでは無い。だから私はH氏がやって駄目だったら、潔くデフォルト(倒産)しようと心に決めた。まさしく心中する覚悟を決めたのだ。そうしている中で決済日の前日にH氏から報告があった。「足りない2000万は自分の株を売って作ってきたから大丈夫だ」と私は2000万なんて持ったことも無い金額を作れる凄さと、任された仕事に命(生活)をかけて全うする責任感に感謝と尊敬を痛切に感じ、その行為を有難く受けることにした。私は思い出すたびに有難さに涙が出そうになる。私は恵まれているのと同時に、人に生かされている。そして多くの人に支えられている。H氏にもS氏にも苦しい時に助けてもらった。この恩は一生かけて今度は私が返していくと心に誓って日々仕事をしている。私はやっぱり一人では何もできないと実感した出来事である。そして人に支えられて生きていることも実感した出来事でもある。
前回にも触れたが不動産会社は血液となる現金が無ければ成り立たない。創業当初の不動産会社にお金を貸してくれる銀行はまず無い。最低三年間は右肩上がりで黒字を出し続けなければ銀行は見向きもしてくれない。当社はH氏のおかげで2年間黒字を出した所で徐々に融資を受けられるようになったが、通常はノンバンクさえもそう簡単には融資はしてくれないのが現実である。私は創業二年目に、商品物件として松戸に中古住宅を購入したが、債権者の都合で個人にしか購入を認められなかった。そこで監査役のS氏(高校の同級生)に買主になってもらうことにした。しかし会社では融資は受けられるものの、個人では任意売却でお金を貸してくれるところは無いし、時間的にも間に合わなかった。私は会社の現金をかき集めたが足らず、監査役のS氏に借金を申し込んだ。金額は1000万だ。S氏は株などの資産が有り、資産的には1000万以上の資産を保有していたが、現金で1000万となると株を売ったりしなければならなかった。しかしS氏は即答で了解をしてくれて実印を郵送で送ってくれ、株を売却し、足らない部分は個人でビジネスローンを組んで、1000万を用立ててくれた。これで何とか金の無い貧乏会社の資金繰りに目途が立ち、物件を購入することが出来た。そして1か月後には融資が出て全額お返しをした。そして物件も売れてかなりの利益を出すことが出来た。これもどうなるか分からない会社に1000万を貸してくれたS氏の度胸と器の大きさに今も感謝している。今会社があるのはS氏のおかげだ。私はS氏にそれから約10年間役員報酬を払い続けている。「もうそんなのいいよ」と言われるかもしれないが、あの時差しのべられた「手」のおかげで私も私の家族も生活が出来ていると言っても過言では無い訳だから私はあの時の感謝を一生忘れることなくこれからも役員報酬を払っていくつもりである。
私は、サラリーマン時代から営業成績は常にトップクラスであったが為に、起業してからも、人並み以上の努力をすればほぼ出来ないことは無い(何でも出来る)と思っていた。営業は当然の事として、経理だって会社が小さいうちはどうってことは無い、コツさえ掴めば簡単に出来るようになると思っていた。確かに考え方は間違いでは無いと思うが、絶対的な正解でも無いと思う。それは何故かと言えば、人には向き不向き、得意不得意があるからだ。会社を始めて2年目から財務担当にH氏が来て、経理面は全て丸投げ出来るようになった。それまでは領収証をノートに張って記録だけ残しているにすぎなかった。私は2年目以降は営業に集中出来るようになり業績も右肩上がりで推移するようになった。3年目になると銀行が突然訪問してくるようになった。多少勢いのある零細企業にお金を貸そうと会社の指示で廻っている一環として当社にも銀行員が来た。そしてH氏が面接を行ったら保証協会付きと物件毎のプロジェクトの融資が受けられるようになった。これはやはり金融機関に通じているH氏の手腕そのものであり私がやっていたらまず融資は駄目だったと思う。H氏は会計ソフト(弥生)で会社の試算表を月次で作成しているので、銀行が欲しい資料がすぐ出てくるのも非常に銀行の好感度を上げた。(普通の零細企業では銀行の欲しい資料はすぐには出てこないと銀行マンは言っています。)それはH氏が融資を受けるのにどのような資料が必要か予め把握しているからである。社長一人でやっているところはどんぶり勘定でこうはいかないと思う。私も御多分に漏れずどんぶり勘定である。思い起こせば、創業当時、国民金融公庫(現在の日本政策金融公庫)に開業資金の融資を申し込んだら、否決された経験がある。それを今度はH氏に企画書を書いてもらったらいとも簡単に300万の融資が出たことがあった。やはり人には適材適所というのがあることを強く認識するとともに、「自分の出来ることは意外と少ない。」「自分は全然大したことは無いな」と痛感した次第である。私は最初からであるが経理は全般、お金のことはこの12年間全てH氏に丸投げである。不動産業にとってお金は血液である。その血液が流れなくなったら会社は倒産する。当社は何度となく倒産の危機を免れたのもH氏によるミラクルな資金調達があったからである。もし私が財務面もやっていたら創業4年目くらいで潰れていたか、もっと前に黒字倒産していただろうと思う。
私は本当に自分の事を大したことは無いと心の底から思っている。そして「自分だけでは人生も会社も生きてはいけないんだ」という事をこの12年間で身を持って学んだ。
私は本当に自分の事を大したことは無いと心の底から思っている。そして「自分だけでは人生も会社も生きてはいけないんだ」という事をこの12年間で身を持って学んだ。
私はふと思うことがある。最初たった一人で始めたときは、ワンルームマンションを普通に借りたのではなく、間借りから初めて、しかも金が無いから、失業保険と妻のパート代で生計を立てていた。私のその時の覚悟は、開業するに当たり、蓄えは全て事業につぎ込み、借り入れもしたことから、失敗したら、妻のご両親がまだ仕事をしていたため、生活力があるので妻とは離婚して実家に帰ってもらおうと思っていた。これは妻には言わなかったが、借金もあったので迷惑はかけられないから、そのぐらいの覚悟でこの事業を始めた。運よく会社は1期目から利益を出すことが出来、今月で12期目を終了するが一度も赤字になったことは無い。というわけで自分の中での覚悟の一つの離婚はしなくてもよくなった。最初始めた頃は一人だったので、手抜きをしようと思えばいくらでも出来る状態であった、前日飲みすぎたら、会社で寝ていても誰にも文句を言われるわけでは無い、私ひとりぐらい(家族も含む)は十分やっていけるくらいの業績を上げていたので気を付けてはいたがそんな油断が出てしまう日もたまにはあった。しかし2年目に会計を担当してくれているH氏が入ってくれてから私の考えは全然変わった。そのH氏は私の会社に来なくても自分で起業しても稼げるし、サラリーマンとして就職活動しても財務部長として年収1000万以上で就職出来る引く手数多の人が男の心意気で私の仕事を手伝ってくれることになったのである。その時、私が払える給料は月給12万だった。それでも良いとH氏は言ってくれて、その当時の奥様も収入があったので「あなたの好きなようにやりなさい。私が養ってあげるから」と言ってくれたので、私の仕事を手伝えると言ってくれた、そして運命共同体としてやっていくという事で出資もしてくれて取締役にも就任してくれた。私は今思い出しても感謝の気持ちで泣きそうになるが、私はその時強く思ったのが、こんな馬の骨とも分からない会社に大事なご主人を送り出してくれた奥様に感謝した。だから私は、会社を大きくして利益を出してH氏の給料を上げて、その奥様がいつか「あの時のあなたの判断は正しかったね」といつか言ってもらえるような会社にしようと心の底から誓った事を10年以上経つ今でも鮮明に覚えている。私は自分の為だけであれば、ついつい妥協してしまうかもしれないが、私の肩には、社員とその家族がいて、その奥様達に、「あの時は大分悩んだけど、バトルステーションに入って良かったね」と奥様に言ってもらいたいがために私は仕事をしている。その為だったら寝食を忘れて仕事をする自信がある。奥様方が言ったかどうかは多分一生確認は出来ないが、従業員に喜んでもらえる給料を払い続けることが出来れば私自身で実感できるだろうと思っている。社員や社員の家族の為だと思えれば、自然と辛いことも辛く感じないし、自分だけであれば明日に回していた仕事も今日中にやるし、今まで妥協していたことも妥協しなくなると私は思っている。だから意外に自分の為には頑張れないと言いたい。
マンネリという言葉があるがマンネリとは私の中では日常に埋没してしまっていることを言う。営業マンで言うと、成績が上がらない中、自分自身で何の効果的な対策も打てずに一週間、二週間が過ぎてしまっている状態を私は、日常に埋没していると言う。でもこれは特別な事では無く、普通の人は大体知らず知らずの内に日常に埋没しているし、埋没していることすら自分では気づかない。でも振り返ってみるとここ一、二週間、成績が上がらない中、「何かやり方を変えたか、或いはやり方は変えずとも切り口は変えたか」と自問自答してみると大概の人はやっていない。日々の業務が忙しい会社ほどこのような人が多いと私は思っている。忙しすぎて色々なことを考える暇が無いからという事でもあるが、人はそうやって悪い意味で均一化していく。出来る人間はどう打開するかと言えば、一週間の始まりの前に必ず今週一週間は先週のやり方では駄目だったから、今週はこのやり方でいこうとかちゃんと週末や休日を使って準備している。これは休日出勤をしろと言っているのでは無い。準備とは、読書や人からの教えである。自分の知識や考え方等は自分の今までの人生において経験したことだけでのものでしか無い、しかし読書などで自分より凄い実績を残した人の本や業務に関連した本を読むことにより、今までの自分の狭い考え方にプラスして違った考え方を頭に植え付けてくれる。「そういうやり方もあったのか」と気づかせてくれるのだ。休みの間にこういう心の武器(アイテム)を補充しておけば月曜日の仕事はかなりリフレッシュした気持ちで臨めるはずだ。だから私は本を読めと社員に言う。忙しい中で読むのが大変だと思うので業務に関連したHOW TO 本に絞って読むことをお勧めする。それを毎週やることによって仕事への取り組み方や考え方は全然違うし、廻りの忙しさに忙殺されている人と差をつけるチャンスでもあると私は考える。それと私が言いたいのは、「誰も自分を助けてくれる人はいない。自分を助けるのは自分だけだ。」と言いたい。だから強引にでも悪い流れは自分で断ち切って行かなければ、ブラックホールのような日常に埋没していくことになるだろう。
営業の出来る人と営業の出来ない人をどこで判断するかと言えばそれは実績(営業成績)に他ならない。数字(実績)が一番不公平が無くその人の努力が如実に現れ、それに異議を唱える人は殆どいないだろう。それでは営業の醍醐味、喜びはどこで感じるのだろう。私はこう思う。価格競争力や品質の競争力に優れた商品を売る場合は正直誰が売っても売れると思う。しかし、自分が売っている商品の方が他社の商品より品質は同じくらいで価格面で劣っていたりする場合に、自分が売っている商品が他社よりも高いにも関わらず成約に持って行ける営業マンは本当に人間力を感じるしまたそれが出来たときに営業の喜び(醍醐味)を感じるのではないだろうか。私の友人で一部上場企業のベアリング会社に勤めている人間がいるが、彼が正に人間力の塊だと感じた。そういう人間は個性が強いので万人受けするかは微妙だが正しく人間力で自社の商品の方が価格で劣っているにも関わらず、大手鉄道会社の受注を勝ち取ったというエピソードを聞いたとき、これが「ザ・営業の神髄」だと感じた。実際は価格面だけでなく、サポート体制など他社より優れた面はあったのだと思うが、営業冥利に尽きる結果だと思う。やはり営業マンはお客様に人となりをまずは気に入られてそして仕事ぶりを信頼してもらい、そして商品のメリット、デメリットを理解頂いた上での総合判断で結論が出ると思うのだが、市場に他社の優位な商品があるにも関わらず自社の商品を売るのは至難の業で、馴れ合いの仲の良さでは仕事は取れない。普段の仕事ぶりを信用してもらって初めて土俵に立てというものだと思う。そしてその信用を勝ち取って、自社の高い商品を買って頂いたときに、営業の醍醐味を自身で感じることが出来るのだと思う。実績も当然大事だが皆様は営業の醍醐味を味わっていますか。