まだ私が20歳ちょっとの頃、自販機にジュースを買いに行った知人が、血だらけで帰って来た。
財布を出したら2人組の男に絡まれ、財布を渡さなかったら暴行されたそう。
通りを歩くサラリーマンに「助けて下さい」と声をかけたが、誰もが素通りだったって。
けーすけも、若かりしころ、襲われて血だらけになった経験があったそうだが、誰も助けてくれなかったらしい。
相手がいかにも強そうだったり、凶器を持っていたら、そこに飛び込んでいくのは無理だとは思う。
し、やめた方が良いだろうね。
けど、「警察に連絡する」ならできるし、自分にできる何かを探すものなんじゃないの?
5/4に新大阪駅で女子高生が飛び降り自殺をした。
この時、1時間弱、警察は説得にあたったが哀しい結果になってしまった…
が、この飛び降りる瞬間を、多くの人がスマホを向けて待機し、撮影していたというのだ。
なんのために?
http://buzz-plus.com/article/2019/05/05/osaka-station-tobiori-news/
そしてSNSに投稿する人まで。
5/23の夜、名古屋の栄で男性が刺殺される事件が起きたが(当時はゲイ同士の争いと言われてた)たくさんの人がその様子をスマホで撮影していて(女性2人が「誰か、助けてー」と声をあげていたこと意外は誰も助けようとしなかったと聞いた)その動画をSNSにアップ。
https://honjitu.net/nagoya-jiken
もし自分が被害に遭って誰もが無関心の素通りだったら、「加害者にされたこと」よりも、多くの傍観者の存在に傷つく。
人間不信になってしまうと思う。
人が暴行されたり、自殺したり、殺人事件は珍しいことではなく、
「自分のことでも自分の家族のことでもない」なら関心がないということなのか。
私は田舎にYターンで移住してきて、ここに移住してきた人や、田舎に住んでいる人の多くは「自分さえ良ければ」という感覚を持っていない気がする。
誰かが困っていれば何か力になりたいと思うし、SOSを出せば飛んできてくれる。
(私が旭に来る前に住んでた高上のママ友も人情派はたくさんいたけどね♡)
多くの人が「傍観者」になってしまった背景は何なのか、ここのところずっと考えています。
残虐なシーンに慣れてしまったことの一つに、人を殺すことによって点数を稼ぐゲームや、残虐なシーンが出てくる(子どもが喜ぶ)映画が増えたこともあるように思う。
慣れてしまうと殺人をなんとも思わなくなってしまうのか。
去年の秋、家電のエディオンに行った時、プロゲーマーがアイドルみたいにキャーキャー言われてる動画がエンドレスで流れてて、どうやらエディオンがそれのスポンサーになったようだった。
https://www.bcnretail.com/market/detail/20181009_88857.html
人殺しをすると血しぶきがプシューッと上がって得点を稼ぐゲームを壇上で競い合い、誰が一番点数を稼ぐか。
どんどん高得点を稼ぐと英雄になる。
この時の私は「残虐な殺戮ゲームをみんながやるようになって得するのは誰だろう?」と血の気が引いてしまった。
この言葉⇩はニュージーランドで銃乱射事件後にプロゲーマーが投稿した言葉みたいです。
もしこの投稿がホンモノなら社会は怖いことになってると思う。
あと、家族の「生死」が日常からなくなったことも原因かもしれないね。
丁度、会長挨拶で、このテーマについて話そうとしていた時、ちんちゃん亭に宿泊に来てくれた、哲学者の内山節さんにご意見を聴かせてもらったところ「助けられた経験がないのでは」とおっしゃられた。
確かに、自分が本当に困った時に助けてもらった経験がなけれど、人が困っている時に助けようと思わないかもしれない。
自分が困ってもSOSを出すことができなければ、「自分で何とかしろ」って思うかもしれない。
「自己責任だ」と突き放されたきたら、相手に対して、自己責任論を振りかざすかもしれない。
昨日の東高PTA会長挨拶では、傍観者を感じる一連の事件を伝えて「SOSを出し合える、助け合える環境にしていきたい」ってことを伝えたよ。
「他人はカンケーない!」の傍観者意識ほど怖いことはない気がしています。