やさしさを

生きていく道をみながら

父と面会の日

2011-02-23 13:53:46 | 日記
其の年が昭和何年であったか解りません. 余り寒くも無く暑くも無かったと思います。
松本駅で下車をしてバスで連隊の在る所まで行きました。其処は練兵場で広い土地を2m
程の高さの金網の囲いが延々と続いて在りました。
祖母が手続きを済ませ二人は其の広場の 一郭に在るベンチに座って父の来るのを待って居ました。 暫くすると向うの兵舎の方から黄土色の軍服を着た父が小走りに思える様子で近寄ってくるのが見えました。 軍服の父を見るのは、初めてで、そして其の一度だけになりましたが、父はベンチの祖母の隣へ座って家や店の事など話をしていたようですが私には其の内容は解りません。只父は私には一度も声を掛けなかったと思っています。
父が私達の処に居たのは僅かな時間で間もなく「○○上等兵」と呼ばれて父が「はい!」と大きな声で返事をして兵舎の方へ駆けて行きました。
 其の日から、何ヶ月か、 どの位の月日が経ったのか、子供の私には解りませんが父は割合に早く除隊になって家に帰して貰った様です。  
 後になって父が話していた事ですが、父は将校付きの兵隊になって上官の身の回りのお世話をする仕事に就いていた或る日 、上官が家庭の様子を父に聞いて 父が 「商売をして母と体の弱い家内と五人の子供が居ります。」と答えたそうです「そうか。」と言われたとのことです。   父は性格は、真面目。どんな事でも心の無い対応はしない。正義の味方
で今考えても立派だったと思います。上官にも心を込めて仕えた事と察しがつきます。
其れが解って貰えて第一線の戦場へ行かずに帰して下さったのだと思います。
人の命が弾丸の変わりにされた時代でした、其の将校さんを(花も実もある方と)こんな方ばかりだったら戦争は起らなかったのでは無いかと考えてしまいました。
父は中肉中背でしたが若い時から力仕事をしたらしく体つきはごつい感じに見えました。晩年になったある日私に「俺はお母ちゃんを幸せにしてやりたいと思って一生懸命に働いて来たんだよ。」と言いました。私が見ても、若い時は、何時眠るかと思う位本当に好く仕事をしていました。其れを聞いた時に父で無く一人の男性として(此の人素敵な人だな)と思いました。
   私も短いかも知れない是からの一日々をそんな風に生きて行きたいなと、ふと思ってしまいました。

松本50連隊へ

2011-02-22 14:18:44 | 日記
父は松本歩兵50連隊へ入隊しました。祖母や母にとっては何時戦いで命を落とすかも知れない覚悟はしなければならない大変な時だった筈ですが、父が何時どんな風に家を発って行ったか、判りませんし覚えも有りません。きっと皆静かに其れなりに覚悟を決めたのでしょう。
目が潤んでくるような気持ちで察しています。
その内に歩兵が引いて移動する小型の大砲と撮った写真が送られて来て砲兵隊に入ったとの事です。   その時からどの位の月日が過ぎたでしょうか松本の父からの電話で上等兵に為ったと、知らせて来たのです。軍隊の階級は、新兵さんが1等兵其の上が2等兵そして上等兵と言うことは子供の私でも知っていました、1階級上がる事がどんなに大変な事かも解っていましたので、只嬉しくてお友達幾人かに話した様な覚えです。言わなければ良かった様な気がして居ます。 それから一度だけ松本の連隊へ面会に行きました。 祖母が何故か私を連れて行ってくれたのです。

兵隊さんの父

2011-02-22 10:57:41 | 日記
父がお釈迦様の元へ行ってから三十三回忌も過ぎた今日まで、私は何と父の生まれた年を知りませんでした。元気な時は今年は幾つに為ったと言う事は判っていましたが今度調べて明治三十四年、西暦1901年に生まれたことを知りました、月日は聞いていませんでしたし今は知っている人が誰も居無くなりましたので、残念ですが、知る由もありません。
 私が生まれて...弟も、妹も出来て...
昭和十二年(1937年)に、日中戦争が始りました。以前は男性は二十歳になると誰でも軍事教育を受ける義務があり、徴兵検査といわれるものを受けなければ為りませんでした。御存知でしたか?身体検査等で甲乙丙とランクがあり、父は合格して訓練を終えて居て兵役なるものが出来ていたと思います。(多分合って居ると思いますが)家で待機をしている場合は在郷軍人と言ったと思います。中国との戦いが始って間もなく、(召集礼状)亦は(赤紙)赤い紙に印刷されてあります。が父の処へ参りました。
その時は私は隠居所に居て店の使いが祖母に伝えにきて、祖母がそわそわと舞う様に急いで店に行った様子が目に浮かびます。
愈々軍隊に入って戦場に向う兵隊に為るわけです。

気の緩みでしょうか

2011-02-20 14:18:15 | 日記
今日テレビで渋温泉湯田中が出て、何か思い出の中の姿が見つかるかと画面に集中して見ていましたが、時代が経って町も建物も新しく綺麗になって居ますが、只、時折奥の方に見える昔の儘の旅館の佇まいに懐かしさを感じて見ていました。
湯田中で一泊して帰途に着いたのですが、長野駅がお寺の様な屋根のとても風格のある立派な駅で(こうゆうの好きだな)って思った事を覚えています。
其の後の記憶が飛んで家に向う電車の中で急に気分が悪くなって、堪え切れずに吐いてしまいました、それが前の席の乗客の方にかかって仕舞い衣服を汚して大変な迷惑をお懸けして終いました。 
 私は小さい頃から乗り物にとても弱く少しの距離でも気分が悪く為ったのですが、此の旅は父と一緒と言う事で気が張って居たのでしょう、其の緊張が家の近くに来て、緩んでしまったのだと思います。 本当に申し訳ない事をしてしまったと、暫くは後悔の念に囚われていました。  この旅行で、見たり、聞いたり、感じたり子供では在っても様々な糧を貰う事が出来たのでは無いかと今有りがたく思っています。 

湯田中で

2011-02-18 14:15:28 | 日記
少し歩いて今日の旅館に着きました。考えて見ると妹と何を見てどんな話をしたのか全く覚えていない事が本当に不思議で為りません。妹は私と六歳違いなのでお互いに話す事は無くて彼女はむしろ母と係わって居たのかも知れませんん。
温泉には入ったのだと思いますが上山田も此の湯田中でもどちらも覚えがありません。
只一つだけ、はっきり覚えているのが、何でもない様な父と母の会話なのです。
夕食の時、きっと御馳走の皿数が多く並んだと思います、其の中の一つの小鉢にお肉類の佃煮と思えるものが入っていました、父が口にして「是、何かな。?」母が「牛でもないし。」父(ふーん馬肉かもな。」「そうかもね。」とこんな話なのです。私も、お肉の味で美味しかった事を覚えています。父は商売上で小鉢のお肉に興味が有ったのだと思いますが、何故此の会話だけ覚えて居るのかは、理解の他です。本当に... 因みに今私が考えるに、あの時期
もう物が不足がちで、もしかして鯨のお肉だったのでは無いか等と、もう何十年も経って居るのに,ふと、くだらない事を考えてしまいます。おばかさんですかね。懐かしい話です。