やさしさを

生きていく道をみながら

闘病記心乱れて

2010-02-27 14:30:27 | 日記
主人は朝7時に来て顔や手足を熱いお湯で絞ったタオルで拭き周りを整えて店を開ける時間までに帰ります。其の後実家の75歳の母が付き添いに来てくれます。見舞の方も見えて下さるので寂しいと言う事はありませんが只からだの自由が殆んど無くほんの幾日か前までの様な日常生活は勿論出来ませんあの時一番辛く悲しいと思って涙を堪えられなかったことは、周りに迷惑がかかる事、もう誰か人の為に何かする事、お役に立つことは出来ない事でした。そんな想いが心いっぱいに巡って泣いてばかりいました其のうちにもう私はこの世には要らないのだと命を絶つことばかり考えて居ました。それにしても個室は紐をかける処が何も無いとかしきりに考えて居ました(ドアノブのことは忘れてました)今だから可笑しいんですよね。ずっと以前の事ですが姑のお父さんを引き取って暮らした時の事をおもいだしました。ある日腰を痛めてしまいました80歳を過ぎていましたので1週間大事をとって寝ていましたするとどうしても立てなくなってしまったのです。大しっぱいでした。周りでホローして立たせて上げればよったのです。それから様々な事をしてみましたが駄目でした。本人はどんなにか悲しかった事でしょうそして鋏で舌を切ろうとしたのです…切れませんでした。其の時本人と姑と私は辛くて辛くて3人共号泣を止めることが出来ませんでした。
その時の様子がモノクロ映画の様に心に映し出されて夢のような時の中に居た気がします。そしていよいよリハビリが始まりました。初めの日は午後2時からだったと思います
車椅子で母に押されて少しどきどきしながらなかに入りました。


闘病記リハビリに望みを

2010-02-26 13:46:59 | 日記
点滴とお薬は決まりで、兎に角左半身に麻痺が残り痺れと痛みと麻痺でどうにも為らなくていは
そうなるとバランスなのでしょうか右も思うように動きません、それでどんな風に1日々を
過ごしていたのか余り覚えていません只手術の話も次の検査もなく2週間程経ちました。
病院からぼつぼつリハビリの在る処へ移ることを考えるようにとのお話が在りました。
 これは後に丸子の病院で解った事ですが私の脳出血は出血の量は多くは無いのですが
運動神経の真上だったので何も出来なかったと言うことらしいのです、そうお聞きして一応の納得をしています。
 是から移る病院をリハビリが良いと言って下さる方があって今も通院しているT病院に
お願い致しました。
4月に入り桜の花のほころび始めた暖かい日にT病院に入院致しました、部屋は4階の
個室ですぐ近くにリハビリ室が在りました、此処に来て脳外の慌しい喧騒から離れて静かな時の中に身を置いて今の自分の現実を見つめる時間が出来ると今此処には何かしたくても何も出来ない自分が在りました。

闘病記セーターを切って

2010-02-20 14:15:27 | 日記
「セーター切るよ」と言う看護婦さんの声、ジャキジャキとゆう鋏の音を何故かはっきりと
耳にしながら完全に暗闇の中に沈んでういきました。
 すぐ近くの様なまた遠くの様に母と主人の声が聞こえてきます、閉じた目に光が射し周りが明るくなりました、半濁の中で命を戻して頂いたのだと思いました、倒れてから3日目と
聞きました窓に目お遣るとつい幾日か前まで行き来をしていた見なれた家々や道がとても
新鮮に映って何故かホッとしたと覚えて居ます。それから2日3日は体の節々が痛くて母や主人に絶え間なく撫ぜて貰ったのを未だ少しぼんやりした頭で気兼ねをしながら有り難い事と思っていました。 ICUに幾日居たかは覚えていません当時其の病院にはリハビリは
未だ在りませんでした、兎に角新しい患者さんが入院して来られるので私など2日3日
して一寸落ち着いてきた時には男の方ばかりの部屋の通路へベッドを移されて一寸ショック
で心がうろうろしてしまいました、生理的な問題もあるしどうしよう...話も気楽にできないし等変な心配をしてまいましたがお蔭様で割合に早く病室を移して下さったのでホッとしました、でも何時まで経っても忘れられない事の一つです。


闘病記虫の知らせ

2010-02-17 23:25:02 | 日記
病院に着くまでの救急車の中では未だ意識はっきりしていて排尿がしたくて「おかわ
(便器)は有りますか?」と聞いた事を覚えています、すると救急隊の方が「おばさん
具合が悪いのだからそのまましても良いよ。」って言って下さったのです…私は
其れは出来ないと思って我慢をしましたが今思えば脳卒中で救急車の中でよく我慢をして
心の中で(救急車に便器や紙おむつ位は備えて置くべきなのに)なんて生意気な事を
思っていました.変な病人ですよね.そんな事も有ったりしているうちに街の脳外科専門の
病院へ着き慌しく病院の車に移されました、そこでその時まで我慢をしていた吐き気が
どうにも為らなくなって強い嘔吐で看護婦さんの白衣を酷く汚してしまいました。
そして、その時まではっきりして居た意識が薄れていく中で「此の人は小さくても出血だよ」
と言う言葉を、ああそうなんだ と妙に納得をしながら何も解らなく為っていきました。
 やっぱり虫の知らせって有るんだなーと孫の何とも言えない激しい泣き声を今でもふと
思い出す時があります。

闘病記 春

2010-02-13 14:29:14 | 日記
でもホッと出来た時は短く次の出来事がやって来ました、娘が二人目の出産の為に
3歳の女の子を連れて東京から帰って参りました1月の半ば頃かと思います。
何故か今度は陣痛微弱で産院へも行ったり来たりで神経をつかう日が続きましたが
2月2日に無事に男の子が生まれてとても嬉しい思いを致しました、其れからの幾日かは
何とも幸せな忙しい日を送り2週間程経った日に伴奏の仕事が入ったのです一応仕はお断りして在りましたが、どうしてもと言うので出掛ける事になりました。今思えば家を出る折に孫娘が何時も行ってらっしゃいと送り出してくれましたのにその時は私の足にしがみついて「おばあちゃんいってはだめ」と激しく泣き叫ぶのです始めて聞く激しさで、思いを残しながら迎えの車に乗りました、村のお稽古場はとても寒くてしんしんと体が冷えていく様な気が致しました、お稽古が始まって暫く経った時突然左手に異様な痺れが感じられ其れが序々
に左半身に広がって体が麻痺で動けなくなりコテンと左に倒れてしまいました。
救急車で街の脳外科へ到着するまでに1時間位は掛かったと思います。