やさしさを

生きていく道をみながら

雪と湯煙

2011-02-15 16:32:37 | 日記
寒かった門前町を後にして、多分長野電鉄(今は?)で渋温泉駅に降り立ちました。
小さな駅ですが目の前に広がった雪景色に圧倒されてしまいました。駅前の一寸した広場、其処から右手の温泉街へ行く上りの道があるのですが何処を見ても雪々々で白い中に埋まる様な気がしてしまいました。兎に角雪の量が違うのです。
上っていく道の土手に積もった雪の山で橇遊びをしている子供達が居ました、私は其の橇を見てまた目を見張って仕舞いました。 兄も橇を造りましたが...考えた事も見たことも無かったハンドルが付いているのです、気の箱に竹スキーを付けて前に為る所へTの字の物を付けて縦の棒へスキーが付いています。其れを自在に乗りこなして遊んでいます、流石雪国と子供心に(恐れ入りました。)の心境でした。 もう一つ初めて見る事がすぐそこで待っていてくれました。子供達の橇遊びの側を通って坂道を登って行くと木造三階建ての昔からの風情の立派な旅館が立ち並んでいました。何か違う世界に入った様な気がしました。気が付くと左側の足元から温かい湯気が立っているでは有りませんか、これ何?と思って良く見ると今で言う側溝が在って其処を湯気を立ててお湯が川の様に流れています、そして一軒々に木の枠の湯溜まりが造ってあって其処からも湯気が立っています。父が「温泉の余ったお湯を流しているんだよ。」と母に話していましたので納得はしましたが、私達は水やお湯は気をつけて使うように言われて居ましたので、此の温かい湯気が私を豊かに包んでくれる様な気がしました。
特に太平洋戦争が始ってからは、所謂銃後の私達子供も節約々の教育でしたので...

門前町で

2011-02-14 20:18:42 | 日記
兎に角長野の寒さにびっくりで私達母は和服ですが子供はスカートにレギンスでオーバー
と言う支度だったと思います足と手の先は痛いほど冷たくて腹が立って来るようでした。
父が善光寺へ寄ったのは勿論母にお参りを、も有りましたが祖母がお仏壇を新しくしたいとの
事で門前町で買う予定で有ったようです。買い物の間大きな門や鳩を見たりしてうろうろしていたと思います。父が「何処かで温かい物でも...」と言って漸く建物に入って甘酒を注文してくれました,待つほどに細長い茶のみ茶碗に入った甘酒がきました。
ほっとしてお茶碗に口をつけたのですが、  もうとっくの昔に時効ですから言っても好いですよね、美味しく無いのです!私も結構な年ですが今でも覚えて居るほど美味しくない甘酒はあの時だけで多分父には言えなかったと思うし少しも温かくならなかったと思います。
    戦争中だったからでしょうか。  渋温泉へ~

1泊そして長野へ

2011-02-12 23:19:26 | 日記
父は街並みの中の一軒の旅館へ入りました。
お客様を迎える玄関は今のホテルや旅館の様に明るくは無く畳の床にきちんと
正座をして私達を迎えてくれた女将の色の白い丸顔が不思議に忘れられません。
部屋は良く磨き上げた黒い階段を上って二階の一部屋だったと思います。夕食は戦時中ですが品数が結構出てこんな経験は始めての私は只々感動の思いだけで他は何も覚えて居ません。
本当に覚えていなくて情け無くなりますが、記憶は長野の善光寺様の前まで飛んでしまっているのです。其の年の十二月九日になりますが朝から長野は霙(みぞれ)と言うか氷雨なのか冷たい雪が降っていて初めて体験する寒さでした。

田毎の月

2011-02-08 22:55:43 | 日記
あれから昼食はどうしたのでしょう、兎に角次に思い出したのは、姥捨ての駅へ降り立った時に目に映った景色なのです。もう何十年も昔の事で乗り降りの所謂ホームは素朴な田舎の綺麗に砂が敷かれていたように思います。線路の反対側に木の柵が在り人が落ちない様になっていました。私は今までに見たことの無い景色が広がっていました。その時父が「此処は有名な田毎の月と言って此の田んぼに月が1つ々映ると言われておるのだよ。」と母に説明して居るのが聞こえて来ました。私もああ、そうなんだと妙に納得した様な気がします。
それから私達はその広い々棚田の間を縫うように続いている、人が一人歩ける位の道を四人でテクテクと連なって降りて行きました。其処にはバスの通る広い道があって何となくほっとしたと覚えています。
其の地籍の名は判りませんが、バスに乗って上山田で降りました。
父が「旅館はそこの主の奥さんが女将をやっている中の上位が良いのだよ。」と言いながら、
予め予約して有ったのでしょう