Aちゃんの舌代日記

写真付きで日記や趣味を書く

日光発祥の地を巡る その6

2012年12月04日 | 歴史・遺構を訪ねる

開山堂と 並んで 観音堂(産の宮)が 在り 香車堂とも 言われる。

将棋の 香車のごとく 安産を願い 香車の 駒を 借り受け

無事に 出産の 際は 新しい 駒と 共に 奉納する。

 

滝尾神社の 傍に 駐車場があります。約20台 無料。

女峰山 登山口でもある。大猷院 方面への 山道の散策路もある.


日光発祥の地を巡る その5

2012年12月03日 | 歴史・遺構を訪ねる

滝尾神社から 南東方向に 稲荷川沿いに 下る。

勝道上人は 西暦817年 (弘仁8年) 死去。

荼毘(だび) 火葬の地は 東照宮の 奥社の在るところだったが

東照宮の建立の際に 現在地に 移転した。

裏手には 切り立った 岩が在って 仏岩と いわれたが

地震で くずれた。

 


日光発祥の地を巡る その4

2012年12月02日 | 歴史・遺構を訪ねる

次に  稲荷川の 上流 滝尾神社(たきのおじんじゃ)。

「日光山滝尾建立草創日記」

西暦 820年(弘仁11年) 弘法大師 空海が 日光に。

四本龍寺に滞在した後 中禅寺から 男体山に 登山。

湖岸に 寺を 建てたり  寂光寺を 建てた後

白糸の滝の 近くにて 修行して 滝尾神社を 建てた。

静寂の 此の地には 見どころが 沢山。

 

 


日光発祥の地を巡る その3

2012年12月01日 | 歴史・遺構を訪ねる

大谷川を 無事渡った 勝道上人は 草庵を結び 山の神を祀る。

現在の 本宮。(二荒山神社)

上人は 仏法を 修めたが 日本古来の 信仰も 大事にした。当時は神仏習合。

千手観音を祀った 四本龍寺も祀る。現在は  朱塗りの 三重塔も在る。

観音堂は 白木造りである。

此の一帯は 静かで 観光客もすくない 穴場。

古い 石垣が 風情満点 写真素材も豊富だが

古い 石畳と 石段なので ハイヒールや サンダルでなく 運動靴以上が必要。

此処までの 歩いた経路を 参考までに 地図に表示

神橋からの 行き方は 緑の線で 示したが

赤の矢印の 場所に 駐車場が在る。 一日 500円。

車の場合は 神橋付近には 近づかないのが 混雑回避の 原則。

霧降大橋から 日光小学校の 前を 通過して

稲荷川を 渡り 山内(さんない)地区に 入る。

観光シーズンや 週末 祭日を 外して 静かに 楽しみたい。


日光発祥の地を巡る その2

2012年11月30日 | 歴史・遺構を訪ねる

しばらく 横道に それたり お休みを頂きましたが

日光開山の祖 勝道上人(しょうどうしょうにん)

西暦735年(天平時代)に 生まれた 栃木県芳賀郡の人。

若い時に 出家して 修行。

やがて 男体山を フダラク山に 見立てて 登山修行をしようと

766年(天平神護年間) 大谷川に達した。

しかし 渡れず 難儀していたところ

現れたのが 深沙大王。

助けてやろう と 蛇を 二匹放って 橋を架けた。

山菅の 蛇橋。つまり ご存じ 神橋。

勝道上人 没後に 弟子が 書いた伝記 「フダラク山建立修行日記」には

以上の様に 書かれている。

その 深沙大王を祀った お堂は 太郎杉の 傍らに建つ。

日光駅から いろは坂への 国道の 手の届きそうな 

すぐ 上の段に 南に 面して建っている。

おどろ おどろしい 伝説のわりには かわいらしい お堂。

いつも 通行している 傍らに 鎮座しているのを 知らなかった。


日光発祥の地を巡る その1

2012年11月23日 | 歴史・遺構を訪ねる

民俗学の先生 柏村祐司さんの ご案内で

講座の受講者と 日光山内の 現地見学会。

神橋の 傍らに 国道を はさんで立つ 二体の銅像。両者は 日光の 恩人達。

天海僧正は 

小田原の北条がたに 身方して  豊臣秀吉に対立 取りつぶされ掛かった日光を 

 東照宮の鎮座に 導き 日光の繁栄に 功績があった。

板垣退助は 戊辰戦争の際に 日光が戦場になるのを救った。


宇都宮の偉人 蒲生君平 その2

2012年11月21日 | 歴史・遺構を訪ねる

蒲生君平は 宇都宮市の 大通りに 面した 小幡一丁目の 福田家に

1768年 生まれ 延命院住職に 読み書きを学ぶ。

多才な 功績を 残した 人物。

考古学者として 「山稜志」を著わし 「前方後円」墳の 名称を 初めて使用した。

その他 東北方面巡歴 西日本各地の 山稜(天皇 皇族の墓)を 探訪。

全国 各地の 著名人との交流。 著述多数 教育にもあたる。

1814年 江戸で 病没。46歳。 

歴史学者 政治学者 軍事学者 国文学者 儒学者 教育者の顔も持つ。

幕末 窮地に 陥った 宇都宮藩は 蒲生君平の 没後50年後に

意志をつぎ 山稜補修を 申し出て 補修完成させたことで 窮地脱出。

蒲生神社は 遺徳を しのぶ 旧藩主 戸田を 始めとする 

人々達により 祀られた。

トンネル脇にある 鳥居は 大正時代の 名横綱 栃木山が 奉納。

初代横綱 明石志賀之助(宇都宮出身)の 碑も 此処に移された。


宇都宮の偉人 蒲生君平 その1

2012年11月20日 | 歴史・遺構を訪ねる

宇都宮市の偉人だが 戦後の教育では 触れられなかった。

国粋主義者の レッテルが付き タブーだったのだ。 

立派な像が 市内の中心部の 東小学校に 昭和の戦前に造られた。

平成16年に 新たに取り付けられた 銅版によると

五人の きょうだい達が 此の小学校を 無事卒業したので

その親が その感謝に 学校に ふさわしい人物の像を 寄贈したそうだ。

此の一帯は 戦火で 校舎もろとも 焼失したが 健在で 正門の傍に 今も在る。

此の小学校に 戦後間もなく 通学したので 台座の 下段に 乗って 遊んだものだ。

今日は 野球少年達が バッグを 置いている。

今は 小学校へ 自由に 出入りは出来ないが

選挙の 投票所になる日は 可能だろうと 撮影した。


英厳寺跡の地図

2012年11月11日 | 歴史・遺構を訪ねる

先日 宇都宮城 最後の城主 戸田家の 菩提所 英厳寺の 

跡について アップしたが

此の 行きかたに ついて 書いた ブログは 多いが

地図上に 記入したものは 無かった。

入口については 石柱の 門があり

英厳寺児童公園の 表示は 有るものの 

民家への 入口のようで 不安だった と記してある。

そこで 地図を アップすることにした。

黄色い 縦の 道路は 国道119号

宇都宮の人は 東京街道と 区別して 言う。

首都圏の人は 日光街道とも言う。


宇都宮戊辰戦争 戸田忠恕の墓 

2012年11月06日 | 歴史・遺構を訪ねる

現地で学ぶ「宇都宮学」第3回 戊辰戦争ゆかりの地

宇都宮大学 公開講座の人気講座(無料 全6回)

石造りの亀の背に石碑の 乗った 珍しい墓。

宇都宮市花房本町 英厳寺児童公園となっている。

東京街道(国道119号)の 滝沢病院の 東の裏手に接している。

この近辺は 車で 知らずに 走りまわっていたが

細い 導入路が あるだけで 周囲を 私有地の囲まれている。 

この一帯 一万坪もあった 城主 戸田氏の 菩提所だったそうだ。

 

前線通過中で 猛雨の時間帯の 見学会。

子供の頃から 名前だけは 知っていた 重要文化財の 

一向寺の 汗かき阿弥陀も 特別に 開帳して頂き拝観。

三か所の寺 六道の辻周辺まで 回った。

完全武装で 参加したが 写真は 撮れなかった。

貴重な 資料を 頂いているので 晴れた日に リベンジしよう。

ご案内下さった ボランテアの方がた 有難う。


伊達正宗の墓 瑞鳳殿

2012年09月14日 | 歴史・遺構を訪ねる

瑞鳳殿(ずいほうでん)は 市内から南西の方向

広瀬川の対岸にある 仙台城址に連なる 経ケ峯にある。

 正宗は 1635年 江戸で 70歳で死亡した。

その 一か月前に 此の地で ホトトギスの鳴き声を 聞こうと 訪れていた。

当時 病気がすすんでいて 死期を悟って 此の経が峰を 墓地に定めた。

桃山様式の 絢爛たる 建物群で 戦前は 国宝であったが

1945年 空襲で 焼失した。

今の建物は 鉄筋コンクリート造りながら 黒漆 極彩色彫刻で 正確に復元した。

再建前に 発掘調査が 行われ 傍らの 資料館で 貴重な 展示を 見られる。

正宗と 続く 忠宗 綱宗 三代の DNAから 身長 容貌の復元まで

 調査結果が 展示されている。

日光東照宮も 大猷殿(だいゆういん)も 家康 家光について 此の様な 調査が 

されてはいないから 資料館は 貴重だった。

 

三代の 遺骨は 再び埋葬されて その上に 此の桃山様式の建物が 三か所それぞれに 再建された。


野木町煉瓦窯 3

2012年08月17日 | 歴史・遺構を訪ねる

焼成工程を 平面図で 確認

中心にある 煙突は

二階から 見たところ

煉瓦製造会社は 保存修理工事の 途中で 倒産して

工事中断のまま 野木町に 寄付された。

 

二階の 投炭口の 鋳物の 蓋を 開けて 

コークスを 投げ入れる 作業は

特に 夏は どんなにか 大変だったろうか?

 

見学は 昨年の 7月の 公開日に 週末日をはずして

混まない日に行った。

産業遺産としては 昭和54年と 早い年代に重要文化財になった。

長年 望んでいたが やっと実現した 見学だった。

 

 


野木町煉瓦窯 2

2012年08月15日 | 歴史・遺構を訪ねる

内部の写真 まず 一階部分は 煉瓦が 焼かれる 燃焼室。

此処に 入るには 見学者も ヘルメットを 着用。

外側から 直接 各燃焼室に 煉瓦材料を 搬入する入口がある。

崩落予防の 支えがあった。

 

二階へは 燃料の コークスを 外から 直接搬入する 階段から入る。

一階 燃焼室の 煉瓦天井の 上である。

手前に 円い 鋳物の 投入孔の 蓋(ふた)

トロッコで 燃料のコークスを 運んだ。

修復後は 此の様な 写真は 写せない。

中心部分の 煙突の構造の写真は 次回。

 


野木町煉瓦窯(れんがかま)ホフマン式輪窯 1

2012年08月13日 | 歴史・遺構を訪ねる

国指定重要文化財 旧下野煉瓦製造会社の煉瓦窯

平面16角形 外周100メートル 煙突の高さ34メートル

1890年(明治23年)完成。当時は 2基つくられて 他にもう1基在って

煙 もうもうと 製造されて 東京の 近代的建物群の建設に 寄与していた。

渡良瀬遊水地の 粘土を原料として使用して 当初は製品は 船で 運ばれていた。

他の窯は 関東大震災等で 崩壊した。此の一基は

戦後すぐの 今市大地震でも 今回の東日本大地震でも 残った。

 

ドイツ人ホフマンが 考案した。

一階の内部は 外周沿いに  16の焼成窯が 連なり

2室ずつ 素材搬入 余熱乾燥 焼成 冷却 取り出しの 連続行程を繰り返す。

合理的に 量産できる 構造で 八角形の 煙突が在り 造形的に 美しい。

その後は 改良が 進んだ 楕円形の窯が 他所に作られた。

しかし 現在 稼働しているものは無い。

円型のものは これが 現存している 唯一のもの。

現在 保存修理中で 非公開中だが

 野木町の ひまわりフェスティバルにあわせて

ボランテアガイドの 同道が条件 で 見学する機会があった。

 

内部の 写真等は 次回。

 


遺跡の広場 根古屋台遺跡

2012年05月28日 | 歴史・遺構を訪ねる

市営 聖山公園墓地を 造成する際に

縄文時代前期(5~6千年前)の大規模な集落跡を 発見。

遺跡を 保存 大規模な 復元 建物群が在る。

建物群は 意外と 大規模だった。

墓地 遺跡のある台地の すぐ下には 水田が 広がっている。

 

 西側の斜面に 自生する ニッコウキスゲが 

見ごろだった。

宇都宮市上欠町151 (インター通り~ 楡木街道から入る)