おじさんの 旅日記

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メロンを食べたい

2015-01-10 14:05:32 | Weblog
佐伯 啓思 『西田幾多郎』 無私の思想と日本人

・京都銀閣寺の所に有る 遊歩道『哲学の道』それは西田幾多郎氏を・・・
小父さんも何度か歩いた覚えが・でも哲学だぁ~と歩いていただけだった覚えがある。
花見頃が最高の遊歩道と書かれている・それも今では外国人に・・・。

「考えに考え抜き、自分の底を突き破った先にあるものはーーー
世の不条理、生きる悲しみ、人生のさだめなど。歩きながら沈思黙考し『日本人の哲学』
を誕生させた『西田幾多郎』
自分あって自分でなくする『無し』とは・・・

わけのわからない事を・・・
それを『佐伯 啓思』が分かりやすく う~ん うん
その様な本に『メロンを食べたい』と佐伯 啓思が書いていた。

私が『メロンを食べたい』といったときには、
メロンはまだそこはない、口に入っていません。
「私」は、ただ「メロン」というものの幻に踊されて、
あらぬ欲望をたまたま刺激されただけではないのか!

ととすれば「メロンを食べたい」という確かな欲望も、
それを信じている「私」も「メロン」も単なる幻影では!幻影=影=無!!

・メロンをたらふく食べたい・人から羨まれたい・社会的に成功したい。
・金も名誉も地位も手に入れた・それが何だったと・・・

「人生70年、化天のうちをくらべれば、夢幻のごとくなり」
「露と落ち露と消えにし我が身かな、浪速のことは夢のまた夢」かと。

『古池や かわず飛びこむ 水のおと』
水のおとは、無のなかから現れ、すぐに無へと消えてしまいます。
音が聞こえた瞬間は、その背後には『無』をもっている。
だからこそそれは生き生きとした斬新な意味を帯びてくると・・・

日本は無の国・何もない歴史もない・天照大御神が天から・・・それも無
西洋はユダヤ教キリスト教が・それが歴史と・・・

そして近代化とともに、われわれすべてが不気味な社会に投げ込まれた。
世界は生産されるモノであふれ、それでもわれわれはモノを捨ててまたモノを作り続ける。
漱石のいう活力と節約と消耗が相互作用して、もはや「進歩」と名付ることも出来ない
文明の自動運動が生じてしまったこと・・・。

分かったようで分からない本でしたが・心に・・・。