夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

11月25日(土)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(7)

2017年11月26日 | ツイッター
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11月24日(金)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(6)

2017年11月25日 | ツイッター

 

 

 

 

 


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11月14日(火)のTW:#尾高、#自然法、#実定法、#ノモス

2017年11月15日 | ツイッター

 

自然憲法(Verfassung)と実定憲法(Konstitution)

『法の哲学』ノート§273(国家体制、憲法2)

 

 

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11月13日(月)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(5)

2017年11月14日 | ツイッター
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11月12日(日)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(4)

2017年11月13日 | ツイッター
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10月31日(火)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(3)

2017年11月01日 | ツイッター
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10月31日(火)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(2)

2017年11月01日 | ツイッター
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10月30日(月)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(1)

2017年10月31日 | ツイッター
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勤労感謝の日

2008年11月23日 | 日記・紀行

 

今日は勤労感謝の日。山で畑仕事に関わりはじめたのも昨年の十一月だったから、まだ一年にもならない。ずいぶん長い時間が経っているいような気がしているが、まだ一年にしかならないのだ。先日からタマネギと麦のために畝づくりをはじめた。

去年はタマネギの苗をもらって育てたが、今年は種を播いて苗を育てることからはじめた。一ミリにも足りない小さな種から苗を育てる農業がこれほど繊細な仕事であるとは思わなかった。それはとくに箱庭農業の日本だけの特色なのかもしれない。アメリカやオーストラリアのような広大な農地を相手に耕作をやる場合は、ここまで繊細にはならないだろうと思う。私の大雑把な気質としては、トラクターを駆って大地を掘り起こす方が向いているように思う。
とにかく出遅れた種まきだったけれど、何とか人並みに苗は育った。

先の記事でも歌人の西行を取りあげた関係で、ネットで検索してみると、さすがに昔からの国民的な歌人らしく多くの人がブログやサイトで西行を取りあげ論じていた。とくに『digital 西行庵』さんなどは西行周辺の資料としてはこれ以上望めないほど充実している。また管理者の新渡戸広明さんという方は、理科系の人らしく、西行についての解釈をおこがましく語ることなく、ただひたすら客観的な資料そのものに西行の人となりを語らせようという謙虚な姿勢に徹しておられる。その他にも、西行に関する優れたホームページも少なくない。お気に入りに記録しておく価値のあるブログやサイトも少なくない。

いくつかの西行関連のネットサーフィンをしていて知ったことは、とくに、栂尾高山寺の開山として知られる明恵上人が、西行について聞き書きを残していることだった。知れば知るほど西行の姿が大きく重くなってくる気がしている。とくに西行の和歌も本当に知るためにも、仏教思想も知っておく必要もありそうだ。

また、東京工業大学教授の桑子敏雄氏に『西行の風景』(NHKブックス)という著書のあることを知った。それで先日、京都の図書館にその本のあることを知って借り出した。そして、今日読み始めた。

本を読んで、新しく視界が開けるという体験はそうざらにあるものではないけれど、桑子氏の『西行の風景』は、西行を見る新しい一つの視点を持たれているようで、示唆に富むように思われる。一言でいって、私には和歌の世界を思想的に哲学的に軽く見ているきらいがあったかもしれない。

書評は書いておこうと思っている。この本のキィワードは「空間」と「言語」である。私などはそんなときすぐに、なぜ「時間」がないのか、と生意気な反論を思い浮かべるが、大切なことは、私自身がどれだけ西行の真実に迫れるか、ということであるにちがいない。
桑子氏の「空間と言語」論は興味が持たれる。まだ三十ページほど読んだばかり。

先日、右京花園の宝金剛院を訪れたときのことを、紅葉紀行としてブログに書き始めた。偶然かどうか、ヘーゲルを読み囓っている私には「すべての個人は時代と民族の子である」という命題がつねに頭にあって、西行や待賢門院璋子などの歴史的な人物を論じる場合にも、場所と時代と伝統文化の視点で捉えようとする。おそらく私にとっての「場所」が先の桑子教授の「空間」と重なるところが多くあるのだろうと思う。この「場所」の概念は西田幾多郎などの哲学のなかでも重要な位置を占めているようだ。

先の記事でも、待賢門院が再建を尽くした宝金剛院が花園双ヶ丘という「場所」にあることを重視して、私の視点からその地理的な位置をできるだけ記録しておこうと思った。また、写真もいつになく多く撮ってしまったけれど、その風景もまた私という主観によって知覚せられ切り取られた客観的な世界の記録である。それが「風景」でもある。ただ残念ながら西行のようにそれを言語によって和歌として表象する力はない。
次は待賢門院璋子をめぐる歴史紀行にしたいと思っている。調べれば調べるほど、歴史についての無知が明らかになる。

 
 
 
 
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