>> <<引き続き、尾高からのノート。
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 22:38
第四章 法の原動者としての政治
一 法の窮極にある政治
政治は、道徳・宗教・経済・文化、等の多面・多角のの理念を包容し、しかも、これを事実上の力と結びつける。そして、理念と事実とを綜合する力によって、法を作り、法を動かし、
動かぬ法はこれを破って、更に新たな法を作り出す。ふたたび擬人化した表現を用いることが許されるならば、政治は「法の原動者」である。法の原動者たる政治は、法に対して優位に立つ。少なくともこれまで考察してきたところからは、
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 22:39
そういう結論が導き出されるのは当然であるといわなければなるまい。(s.133)
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 22:39
穂積陳重の法の定義⎯⎯法は力である。法は社会力である。法は社会力が公権力状態に於いて行為の規範と為るものである。(s.134)
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 22:57
二 法および法学にたいする政治の優位
ナチスの独裁政治は、近代憲法の範型ともいうべきワイマアル憲法をば、一朝にして空文と化した。
激動する政治にとっては、安定を欲する法は、常に排除せらるべき邪魔者である。故に、転換期の政治がまず法に対する優位を占めようとすることは、当然の傾向と言わなければならない。(s.135)
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 22:57
一切の政治の権力は、法を尊重し、法の示す軌道にしたがってのみ発動する。法に違背する政治はあるべからざるものであるし、また、現実にもありえない。そこでは、正にノモスがすべての政治と権力との王であるように思われるのである。(s.135)
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 23:01
法によって政治をは覇束することを目標として発達して来た近代法治国家の法秩序も、洗ってみれば、決して政治から独立した法、政治の上に位する法ではなくて、やはり政治によって制約された法に外ならないことが知られるのである。(s.135)
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 23:04
すなわち、法治主義の理想は、すべての政治上の権力をば法の枠の中にはめ込み、法規範から外れた権力の濫用を不可能ならしめることによって、個人の自由の範囲を擁護し、個人の権利の基礎を確立するにある。その意味で、在来の法治国家の法は、自由主義・個人主義の政治理念に奉仕したのである。
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 23:16
もちろん、かような国家秩序が完備されると、法は確かに一応は政治の上に立つことになる。そうして、いかなる政治上の権力者といえども法規範に服従すべきこと、一般の庶民と異ならない立場に置かれることになる。クラッペのいう通り、
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 23:16
「人の支配」に代うるに「規範の支配」を以てするという近代国家の理念が、その実現を見るのである。(s.136)
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 23:16
しかし、その法、その規範は、人の意志を離れてあるものではない。この場合にも、法を作るのは人であり、人の意志である。すなわち法治国家の法は、国民の意志にもとづき、国民を代表する議会の決定を経て、定立される。したがって、クラッペのいわゆる「規範の支配化」も
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 23:26
国民による国民の自己支配であり、議会の多数による国民の統治であり、やはり「人の支配」の一つの形態に外ならない。そうして、さような支配機構は、国民主権の政治理念に立脚し、議会中心的民主主義の政治的目的を前提としているのである。
— review (@myenzyklo) 2017年11月25日 - 23:26
(s.136)