夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

藤田伊織氏、コメントお知らせへの御礼の返事

2020年09月12日 | Weblog
 


藤田伊織 様、コメントへのお知らせ、ありがとうございました。以前にもコメントいただいていたようですが、

ヘーゲル『哲学入門』第一章 法 第十六節[契約の履行] - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/lHCXp6

気づくのに遅れ、また雑用などで御礼の遅れましたことお許しください。コメント欄にお礼とお返事を申しあげようと思ったのですが、それも冗長なものとなってしまい、あらためて記事として投稿させていただきました。

引用
>> <<

『法の究極に在るもの』のウェブページ公開 ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:45:56

尾高晴雄の『法の究極に在るもの』を読んで、著作権が切れていることを知って、電子データのテキストを作ってウェブ公開しました。
これは、高橋和巳の「悲の器」の英訳公開を進めていて、同小説の主人公が失脚後「法の究極」について書こうと、いってたので、調べたとこと、『法の究極に在るもの』に出会った次第です。小説では、文学部の哲学科の教授が死亡した話が出て来ますが、尾高先生とは、状況は一致しません。複数の学者の状況を重ね合わせているようです。
尾高先生はヘーゲルやフィヒテのことを厳しく批判していますが、そこが面白いところです。

『法の究極に在るもの』のリンク ( [藤田伊織](http://wisteriafield.jp/law-ultimate/index.html) )
2020-09-03 13:48:13
です。
それから、高橋和巳の「悲の器」はここです。
[http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html](http://wisteriafield.jp/vesselofsorrow/vosindex.html)

>> <<

藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の労作『法の窮極に在るもの』がデジタル化され、WEBページに公開されるというまことに貴重な貢献をなされていることを知りました。尾高の著書『法の窮極に在るもの』も、残念ながら最近ではほとんど読まれる機会も失われつつあるのではないかと思います。その著作のなかに小さな誤解などが見当たるとしても、全体としては名著といえると思います。藤田様のお仕事により、より多くの人に読まれる機会の増えることは喜ばしいことです。

最近では法曹界でも「立憲主義」などが流行のようですが、しかし近年の法学者、憲法学者たちはヘーゲル哲学やいわゆるドイツ観念論哲学の素養とは全く無縁のところで「憲法学」に従事されておられるようです。この点がヘーゲル哲学やドイツ観念論哲学の研鑽の上に築かれた尾高朝雄らの法学と現代日本の三文的法学者、憲法学者たちとの違いかなと考えたりします。戦前教育を受けた尾高朝雄などとは異なって、今日の日本のアカデミズムの世界では、ヘーゲル「法の哲学」批判を試みたことがなくとも、法哲学者、憲法学者として通用するようですから。もちろん、これは浅学かつ知見の狭い私の個人的な意見に過ぎません。

私もまた、この尾高の『法の窮極に在るもの』によって、ヘーゲルの「概念」観がアリストテレスの「形相」(eidos)に見事に一致していることに気づかされました。ただ、アリストテレスの「形相」(eidos)を、ヘーゲルが自身の「概念観」として、自覚的に受け継いだものかどうかは、私の浅学ゆえに今のところ確認はできておりません。

私もまたアリストテレスさえろくに知らずして「哲学研究者」を自称しながら過ごしてきましたから、決して偉そうなことは言えません。「哲学研究入門者」とでも自称するのが正確なところかもしれません。

ただ、いずれにしても尾高朝雄のこの本については、私のツイートでも批判しておきましたが、たとえばヘーゲルの「現実」概念に対する尾高の批判が的外れなものであるように、残念ながら今も昔も大学教授たちのこうした不十分な理解によるヘーゲル批判、あるいは曲解が、このことはヘーゲルの「弟子」であることを自称した共産主義者マルクスなどについても言えると思いますが、ヘーゲル哲学に対する一般人の誤解や偏見を生むことになるのだと思います。

ただ、この尾高の作品『法の窮極に在るもの』についても、この著作の意義と限界、もしくはその錯誤を的確に指摘し批判するには、尾高朝雄以上の能力、素養がその批判者に要求されることからも分かるように、誰にでもできることではないとは思います。

いずれにしましても、藤田様のお仕事によって、尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』がさらに広く多くの方々によって読まれることになるのは、日本の法哲学や学術一般の水準の向上に大きく貢献することになるのではないかと思います。

絶版になったり、またその価値も広く知られずして図書館の片隅に埋もれてしまっているような「名著」を、これからも藤田様のような篤志家によってデジタル化、電子書籍化されるなどしてWEB上でも広く日本国民に知られ、また読まれるようになれば、今日その使命を真に十分に果たせないでいる劣化した日本の大学、大学院の無能力を少しでも補ってゆく上で、その意義は決して小さくはないと思います。

この尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』についての本格的な書評は私もまだ未だ実行し得ておりませんが、さしあたっての批判は私のブログやツイッターでは以下のような論考でおこなっています。

尾高のヘーゲル批判への評注 - 夕暮れのフクロウ https://is.gd/4yIpi9

[夕暮れのフクロウ:Review(尾高)]

取り急ぎ、私のブログへのコメント、お知らせへのお礼まで。


 
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5月20日(日)のTW:#国際連合と#世界審判

2018年05月21日 | ツイッター
 
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4月22日(日)のTW:#尾高朝雄、#国際連合、#国際法

2018年04月23日 | ツイッター
 
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1月30日(火)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(18)

2018年01月31日 | ツイッター
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1月9日(火)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(17)

2018年01月10日 | ツイッター
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尾高のヘーゲル批判への評注

2018年01月09日 | 書評

 

尾高のヘーゲル批判への評注

尾高朝雄の『法の窮極に在るもの』をツイッターでノートをとりながら読んでいますが、ここまで読んできて、彼のヘーゲル批判にかなりの違和感というか問題を感じたので、まだ途中ですが、尾高のヘーゲル批判に対するコメントを書いておくことにしたものです。

尾高はヘーゲルの歴史観、歴史哲学を次のように批判しています。

「かように、戦争をも理念化しようとするヘエゲルの現実絶対肯定の歴史哲学は、世界精神を神となし、あるがままの世界史を神の摂理の顕現としてこれに惑溺する態度である。」
そして、そこから更に、
「そうなると、国際政治の現実は、事前における正邪・曲直の批判を全く無意味なこととして、これを無視し、ひたすらに実力の蓄積と利剣の研磨とに邁進すればよいということになるであろう。そうして、敵の虚を衝いて戦争を挑み、いかなる謀略、いかなる無道を行っても、結果において勝利を占めさえすれば、そのすべてが理念の自己実現として是認されるということになるであろう。かくては、人類の世界は飽くなき実力抗争の修羅場と化する外はないであろう。だから、ヘエゲルの絶対化された理念主義は、実は絶対化された現実主義と一致するのである。
(s.265)」

しかし、ヘーゲルは本当に「国際政治の現実は、事前における正邪・曲直の批判を全く無意味なこととして、これを無視し、ひたすらに実力の蓄積と利剣の研磨とに邁進すればよい」と言っていることになるのだろうか。しかしながら、ヘーゲルの為に多少の弁解をして置くならば、
ヘーゲルは『法の哲学』の§345において次のように述べている。

「正義と美徳、不公正、暴力と悪徳、才能とその行為、小さな、そしてまた偉大な情熱、罪と無実、個人と民族の生の栄光、独立、国家や個人の幸運と不幸は、意識された現実の領域において、その明確な意味と価値を持ち、そして、その領域の中で、その評決が下され、また、なお不完全ながらも正当性を見出す。

(しかし)世界史はこれらの観点を超えたものである。

その段階が現在にあって、世界史の中に保持されている世界精神の理念のその必然的な要素は、絶対的な権利を手に入れ、そこに生きる民族と彼らの行為は、達成感と幸福と栄光とを手に入れるのである」

つまり、ヘーゲルは「正邪・曲直の批判を全く無意味なもの」ではなく「意識された現実の領域において、その明確な意味と価値を持ち」としているのである。ただ、世界史はそうした観点や次元を超えているというのである。

ここで、尾高がヘーゲルの歴史観を評して「ヘエゲルの絶対化された理念主義は、実は絶対化された現実主義と一致するのである。」と批判しているのは、ヘーゲルが『法の哲学』の序文のなかで述べている「理性的なものは現実的なものであり、現実的なものは理性的である。」という命題に対して、尾高が先に投げかけた批判と本質的に同じである。

私が先のツイッターで尾高のこの批判を「尾高の独り相撲」と言ったのは、ヘーゲルが何をもって「現実」と呼んでいるか、を尾高は正しく理解しないで批判しているからである。ヘーゲルは「現実」については次のように説明している。

「・・・形式の点から言って、一般に存在は一部は現象であるから、現実であるのは一部に過ぎない、ということも知っているだけの教養が必要である。日常の生活ではあらゆる気まぐれ、誤謬、悪と言ったようなもの、および、どんなにみすぼらしい一時的な存在でも、手当たり次第に「現実」と呼ばれている。しかし、われわれは普通の感じから言ってもすでに、偶然的な存在は真の意味における現実という名には値しないことを感じている・・・・・
私が現実という言葉を使っているとすれば、人々がそれについてとやかく言う前に、私がどんな意味にそれを用いているかを考えてみるべきであろう。なぜなら、私は論理学を詳細に述べた本のうちで現実(Wirklichkeit)という概念をも取り扱っており、それをやはり現存在(Exisistenz)を持ってるところの偶然的なものから区別しているだけでなく、さらに定有(Dasein)、現存在およびその他の諸規定からはっきり区別しているからである・・・」『小論理学§6』(岩波文庫版)

ヘーゲルも人間であるし、彼の思想のすべてが正しいとは思わないし、批判される点はどこにも無いなどと、別に彼を崇拝し信仰しなければならない理由もないけれども、ただヘーゲルのような哲学者、思想家に対しては、批判しているつもりになっている批判者が独り相撲をとっているに過ぎない場合が多いということは、心しておく必要のあることだと思う。

ヘーゲル哲学を批判する者は無数にいる。しかし、注意すべきは、彼らの批判が正当なものであるか、彼らのヘーゲル理解やその批判を「盲目的に鵜呑み」していることになっていないか、注意深くある必要はあると思う。

かと言ってヘーゲルそのものを彼らの解説書に頼らずに理解するのも難しいとなれば、あまたの註解は、だから「群盲象を撫でる」の類いで、すべからく「彼らの理解する所のヘーゲル」と言うことになる。もちろん私の場合も例外ではないのは言うまでもない。

 

 法の哲学§ 345

Gerechtigkeit und Tugend, Unrecht, Gewalt und Laster, Talente und ihre Taten, die kleinen und die großen Leidenschaften, Schuld und Unschuld, Herrlichkeit des individuellen und des Volkslebens, Selbständigkeit, Glück und Unglück der Staaten und der Einzelnen haben in der Sphäre der bewußten Wirklichkeit ihre bestimmte Bedeutung und Wert und finden darin ihr Urteil und ihre, jedoch  unvollkommene Gerechtigkeit. Die Weltgeschichte fällt außer diesen Gesichtspunkten; in ihr erhält dasjenige notwendige Moment der Idee des Weltgeistes, welches gegenwärtig seine Stufe ist, sein absolutes Recht, und das darin lebende Volk und dessen Taten erhalten ihre Vollführung und Glück und Ruhm.

 

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1月8日(月)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(16)

2018年01月09日 | ツイッター
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12月20日(水)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(15)

2017年12月21日 | ツイッター

>> <<引き続き、尾高からのノート。

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12月11日(月)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(14)

2017年12月12日 | ツイッター
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12月7日(木)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(13)

2017年12月08日 | ツイッター
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12月6日(水)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(12)

2017年12月07日 | ツイッター
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12月5日(火)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(11)

2017年12月06日 | ツイッター
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12月2日(土)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(10)

2017年12月03日 | ツイッター
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12月1日(金)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(9)

2017年12月02日 | ツイッター
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11月29日(水)のTW:#尾高朝雄『法の窮極に在るもの』ノート(8)

2017年11月30日 | ツイッター
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