「精神の直接的な定在である意識は知ることと、そうしてこれに対して否定的な対象性という二つの契機をもっている。こういう境地の内において精神が己を展開し、また己の諸契機をくりひろげるときには、これらの諸契機のいずれにもこの対立が帰属することになり、
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 22:58
そこでこれらはすべて「意識の諸形態」として登場するが、かかる道程の学は意識が行なう経験の学であり、ここでは実体は、実体とその運動がどのように意識の対象であるかという観点から考察せられる。
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 22:58
意識は自分の経験のうちにあるものより以外にいかなるものをも知ることはなく、また把握することもない。
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 22:58
(現象学s.34)
「真なるものと偽なるものというのは、もろもろの限定的な思想のうちにその一つとして属するものであって、一から他へと運動することもなく、各自独特の本質として妥当し、一は彼方に、他は此方にあって互いにたと共同することもなく孤立し固定していると考えられている。
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:43
こういう考え方に対しては、真理とは出来上がったものとして与えられるので、すぐに懐に入れることの出来る鋳造された貨幣ではないことが主張せられなくてはならない。かく真理は鋳貨でないばかりではなく、「ひとつ」の偽なるものが与えられず、存在しないのは、
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:44
「ひとつ」の悪いものが存在しないのと同じである。・・・・・・――さて偽なるものとは、知の内容として真なるものであるところの実体に対する他者であり、それにとって否定的なものとも考えられるであろうけれども、しかし実体自身が本質的に否定的なものである。
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:45
すなわち一方では内容を区別し規定することとして否定的なものであり、他方では単純な区別を立てることとして否定的なものであるが、この際単純な区別を立てるというのは一般に自己と知とを区別することを意味する。むろん或るものが偽なる仕方で知られることはありうることであり、
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:46
これは知がその実体との不等においてあることを意味している。しかしながら、まさにこの不等こそは区別の働き一般であるが、この区別の働きこそは必要に欠くべからざる契機であって、この区別があってこそ、これから知と実体という両者の相当が生成するのであり、
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:48
そうしてかく生成した相等こそ真理なのである。・・・・・不等は否定的なものとして、自己として真理それ自身のうちにもなお直ちに現にあるのである。・・・・これと同じように、偽なるものもまた偽なるものとしてはもはや真理の契機ではないのである。知識における、
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:49
また哲学の研究における思考様式であるところの独断論とは、真なるものが固定的な結果であるところの一つの命題、或いはまた無媒介に知られる一つの命題に存すると思いこむ「私念」以外のものではない。シーザーは何時生まれたか、一スタディームは何トアズの長さに等しいか等々のごとき問いに対しては
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:50
きっぱりとした答えが与えられるべきであるが、これはちょうど、直角三角形の斜辺の平方は、自余両辺の平方の和に等しいということの決定的に真であるのと同じである。しかし、この種のいわゆる真理の本性は哲学的真理の本性とは相違している。」
— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:51
(ibid.s38)
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— review (@myenzyklo) 2018年3月24日 - 23:51
哲学的真理における真と偽との関係について
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