もう何年が過ぎただろうか。『薔薇の名前』という小説が、世界的なベストセラーになり、また、ショーン・コネリーの主演で映画化もされたことが記憶に残っている。
この小説の主人公である修道僧アドソの師はイギリス人のフランチェスコ会修道士で、バスカヴィルのウィリアムといい、同じイギリスのフランチェスコ会修道士で唯名論者として知られていたオッカムのウィリアムと友人であったという舞台設定になっている。そして。異端審問官であり学僧でもある彼はまた、イギリスの経験論の祖ロジャー・ベーコンにみずから弟子として私淑していることになっている。
この小説は小説家ならぬイタリアの記号論言語学者にして文献学者でもあるウンベルト・エコの手になる作品である。それは一見書籍誌らしい小説で重層的な構造になっているらしいことである。ヨーロッパの修道院や教会の建築のように、石造りの城郭のように堅牢な歴史の風雪にたえうる小説のような印象を受ける。
それにしても興味をそそられるのは、もちろんこの作品が文献学者が書いた小説であるといったことよりも、この小説の中で、主人公アドソの師の友人として、実在の唯名論者オッカムのウィリアムが取り上げられていることである。
唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。
私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。
この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。
たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。
バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。
それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。
この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。
この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。
話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。
この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。
だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。
しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)
これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。
それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。
これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。
ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。
唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。
小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。
それにしても、小説『薔薇の名前』はまだ本格的には読んでいない。何とか今年中には読み終えることができるだろうと思う。書評もできるだけ書いてみたい。映画もDVD化されているので鑑賞できると思う。年末年始の楽しみになりそうだ。
私は分析的伝統にある哲学を学んでいますので、別の視点からの意見を参考にしてもらえたらと思います。
クワインは、中世の普遍論争の争いは、装いを新たにして現代の数学基礎論にも現れていると言います(「何があるのかについて」)。すなわち実在論は論理主義と、唯名論は形式主義と、概念論は直観主義と、普遍・個物に対する見方を同じくすると述べています。
フレーゲは、薔薇や人間は対象(個物)ではなくて、述語的な性格を持つ概念であると主張します。概念とは、フレーゲに従えば、(x) is a man. のように空所を伴う表\現であり、この空所には個物が補完されねばなりません。人間という概念は、太郎や花子を含む集合(クラス)に他なりません。このことをフレーゲは、対象太郎が概念人間の下に帰属する(fallen unter) と表\現します。
集合やクラスが存在するということは、その概念の下に帰属する対象が存在するということです。概念ユニコーンのもとに帰属する対象が存在しない場合、ユニコーンは存在しません。(ユニコーンは個物ではなく、生物種でしょうから。)
フレーゲは理想的な言語では、すべての単称名はその指示対象を持つとしています。
日常言語には様々な欠陥があり、問題に見えることでも、理想化された言語では解消されている。分析哲学と呼ばれる所以なのだと理解しています。
はじめまして、どうぞよろしく。
あなたは「分析的伝統にある哲学」を学ばれているそうですが、不勉強でその方面や現代の数学基礎論やの知識は私にはありません。ですから、あなたのコメントにも的確にお答えできるでしょうか。
あなたのおっしゃるように、分析哲学だけではなくまた「中世の普遍論争の争いは、装いを新たにして現代の数学基礎論」にも現代哲学にも現れていることは、いえると思います。
実在論はいわゆる観念論に、そしてさらには弁証法へと受け継がれ、そして、唯名論は唯物論へと、さらに実証主義に受け継がれているのではないでしょうか。そして、それらの間に歴史的な論争のあったことはご承知のとおりです。
ただ、あなたのコメントで少し不審に思ったのは、
「フレーゲは、薔薇や人間は対象(個物)ではなくて、述語的な性格を持つ概念であると主張します。」と述べられていますが、概念とは個物でもあるのではないでしょうか。
つまり、概念とは、個物(具体物)でもあると同時に、「述語的な性格を持つ概念」=普遍でもあると思います。ですから、フレーゲの概念観があなたのおっしゃるとおりのようなものであるとすれば、ここに見る限り(私はフレーゲの名前ははじめて知りました)は、彼の概念観には欠陥があるように思えました。
また、「人間」という普遍概念を単に「花子や太郎」の個別人間の集合とだけみる見方では、普遍と個別の質的な関係を十分に説明できているようにも思えません。普遍と個別を分離して考える悟性的な思考のように思えます。これでは普遍と個別の相互転化を説明できないのではないでしょうか。
あなたのコメントで感じた疑問と感想を述べました。ところで、らくださん自身は、選ばれるとすれば、唯名論と実在論のいずれの立場にお立ちになりますか。
そら
おっしゃる通り、薔薇や人間といった概念自身も、対象として捉えることができます。その場合、概念「人間」は第1階の概念の下に帰属するのではなく、第2階の概念に帰属します。
「(x) is a unicorn.」を、「U(x)」、「(x) is rational.」を、「R(x)」と表\すことにします。
すると「There is a unicorn.」 を、フレーゲは
①「∃x(U(x))」と表\します。その言うところは、「ユニコーンという概念の下に帰属する個体が存在する」となります。(∃は exist のEを逆さまにした記号で、何らかの対象x の存在を主張しています。)ここでは、ユニコーンという普遍者が存在するとは言わず、ユニコーンという概念に帰属する対象が存在すると言われています。では、ユニコーンという概念の存在論的な身分は何なのか。フレーゲの回答は、語はそれ自体で意味を持つのではなく、文脈の中ではじめて意味を持つというものでした。つまり「人間」や「薔薇」はそれ自体が最小の意味論的単位ではなく、①式のように文脈を補完されねばならないと考えました。
「ユニコーン」や「人間」が主語の位置を占める場合でも、②式のように分析されます。
②「All unicorn is rational.」は、
「∀x(U(x)⇒R(x))」となり、「どんな個物であれ、それがユニコーンという概念に帰属するならば、それは理性的という概念に帰属する。」と読みます。フレーゲはこうした概念の関係を従属と呼んでいます。ここでも概念自身が存在するとは言われていません。
また「(X)は空想の概念である」を、「T(X)」と表\すと、「概念『ユニコーン』は空想の概念である」は、③「∃X(T(X)∧X=U)」となります。(これは「T(U)」と同じことですが、隠れた構\造がはっきりするように書きました。)括弧に入っているエックスは、対象化された概念です。すなわち、T(X)は第1階の概念を変項にとる第2階の概念です。ここでは、すでに指摘されたように、薔薇や人間も対象として扱われます。先の概念の従属関係②式では、出現する概念はどちらも、個物を変項にとっていたことと対比すれば、納得しやすいかと思われます。
最後になりましたが、私自身の立場についてはまだはっきりしていません。
らくださん、コメントありがとうございます。引き続き感じたこと疑問に思ったことなど簡単に記します。
まず、あなたの説によると、概念も対象として捉えることができるが、その場合「概念「人間」は第1階の概念の下に帰属するのではなく、第2階の概念に帰属します」と述べられています。ということは、「概念」には第1階と第2階があるということなのでしょうか。
あなたのこれだけの説明では、少しわかりにくいのですが、第1階概念とは存在のレベルでの概念、第2階の概念とは理性的レベルでの概念として理解してよいのでしょうか。
そうであるとして、ここでフレーゲ氏は、「ユニコーン」という用語で新しい概念を用いられておられます。まず、この新しい概念が唐突に思いました。この「ユニコーン」という用語には、何か「単一の種子」という意味合いがあるように思いすが、「ユニコーン」とういう概念の生成される必然性を、フレーゲ氏はどのように説明されているのでしょうか。また、それはもっとも抽象的で原初的な概念の「無」や「有」とどう違うのでしょうか。
また、「ユニコーン」は、「それ自体で意味を持つのではなく、文脈の中ではじめて意味を持つ」というその説明は、ソシュールの概念観を思い出させるものですが、フレーゲ氏の数式による概念の説明も、それは概念と概念の関係性を明らかにするだけで、概念自体の客観的な実在性を主張するものではなく、結局は概念の主観的な観念性を明らかにしているだけだと思います。
その意味で、フレーゲ氏の概念観は、本質的には現代の唯名論だと思います。ですから、らくださんが、フレーゲの概念観の立場に立たれるかぎり、唯名論の継承者たらざるをえないのではないでしょうか。
数と量を取り扱う数学のレベルで、概念の客観性を証明するには限界があるのではないでしょうか。
数学的基礎論の概念観についての論及は私のほうはこれくらいにしておきたいと思います。また、興味のあるテーマでらくださんと議論できることを期待しています。なおブログでの議論についての私の考えはここに記録しておきました。
「ブログでの討論の仕方」(http://blog.goo.ne.jp/askys/d/20060803)
もしらくださんがブログやサイトをお持ちでしたらお知らせください。
そら
第1階と第2階の概念を、それぞれ実在のレベルと理性のレベルと考えても、決して間違っているわけではないと思います。第1階の概念には、性質によって個物をまとめる語が、第2階の概念にはこれらの語自体をより抽象度の高い言葉でまとめた語が対応します。個物をまとめる性質は、通常、感覚的に把握可能\ですが(またそれゆえ、こうした性質にはいかなる存在者が対応するのかなどと問われたりするわけです)、性質語自体をまとめる語には感覚的に対応するものはおそらくないでしょう。それゆえ、第2階の概念を認めるということは、抽象的存在(性質によってまとめられた個体群=普遍者)を認めることにもなります。
またフレーゲの方法では、英語のbe動詞は、少なくとも対象の同一性を表\す「ある」や、概念間の従属を表\す「ある」、個体の概念への帰属を表\す「ある」へ区別されます。そして、「存在する」という意味の「ある(英語では「there is」 「exist」)」は、①「∃x」で表\現されます。
「有」を、例えば②「存在する全てのもの」へ、また③「存在するということ」へと読み換えたとしましょう。②は「∀x」と表\せます。
ところで、実は「∃x」も「∀x」も完全な論理式ではありません。本来であれば、「存在する全てのものは善(G)である-∀x(G(x))-」のように変項を束縛せねばなりません。
③は扱いにくい例ですが、「~であること」と名詞化された表\現は、一般に「~」の内包(その言葉の意味)を対象にとる第2階の概念と解釈できそうです。「人間」は個体共通の性質を、「人間であること(M')」は概念「理性」や概念「動物」などに共通の性質を表\します(∃X(M'(X))。「存在するということ」は、およそ存在する全てに共通する性質の性質というわけです。
ユニコーンの例はフレーゲから得たわけではありません。却って分かりにくくさせたようでしたら、責任は私自身にあります。
ソ\シュールについてはよく分からないのですが、我々がある事柄・対象を認識できるのは、(言語という)差異体系の中にそれらを区別する語を持っているからだという概念観であれば、フレーゲとは違ってきます。
自分の意見ばかりを述べてきましたが、私自身はブログやHPを持っていません。ときどき訪問させてもらいますので、今後とも魅力的な記事を期待しています。