夕暮れのフクロウ

―――すべての理論は灰色で、生命は緑なす樹。ヘーゲル概念論の研究のために―――(赤尾秀一の研究ブログ)

個別・特殊・普遍の論理④  心と身体

2007年04月18日 | 概念論

個別・特殊・普遍の論理④  心と身体

概念論の研究

これまでヘーゲル哲学の発展の論理は、正(テーゼ)――反(アンチテーゼ)――合(ジンテーゼ)の側面からのみ捉えられるのが一般的で、個別――特殊――普遍の視点から捉えられることはほとんどなかった。そのことも、ヘーゲルの論理が現実を分析するための有効な道具にならなかった要因の一つではなかったかと思われる。前にキリスト教の三位一体の思想の中に、この個別――特殊――普遍の論理を洞察したが、さらに、人間の心の発展の論理として、その意義を検討してみたい。

人間の心は、ヘーゲルの哲学体系のなかでは、主観的精神の中の人間学の対象として捉えられている。いうまでもなくヘーゲルにおいては、精神は自然の真理として生成されるものであるが、この精神は、さしあたっては、人間の心として現われる。

この心の特質はその非物質性にあり、それは身体という物質的な生命と対比して「自然の単純な観念的な生命」(第三篇 精神哲学 §389)として捉えられており、この観点は、宗教における「永遠の生命」を考察するうえでも興味をもてるが今ここではこれ以上立ち入らない。

精神もまた、さしあたっては心として実体的なものであり、精神のあらゆる特殊化と個別化の絶対的な基礎として、すなわち普遍として捉えられている。この実体(Substanz)としての心は、まだ精神の基礎として存在し、それは、さらに「意識」から「精神そのもの」へと進展する。人間の心は、まだ眠りの段階にある精神として捉えられている。それは、さしあたっては、自然のままの心であり、そうした段階にある心は、自然の現象と深く共感し合い、またそれに規定されている。

人間の心は、夜と昼などの時刻によっても左右される。夜は瞑想的になるのに、昼は開放的であり活動的である。また、春の陽気な気分と厳冬の陰鬱な閉鎖的な心のあり方など、自然の四季などの外部的な環境によって影響されやすい。その事例は多くの詩歌の中に見て取れる。

そうした原始的な心は、地球や自然の運行と共に生きている。その典型は、十分に発達した心を持たない、イヌやサルなどの動物に見られる。彼らはいまだ自然的な本能に規定されて生きているのであって、心はその身体から分離せず、十分な自立性と独立性を獲得していない。彼らの本能は、いわば、まだ自然のなかに埋没してある精神であってこの低い段階にある動物は、天体や自然の運行によって規定されている。

彼らは季節の交代によって交尾に駆り立てられ、また、冬眠し、また越冬のために大陸を横断する。しかし、動物と異なって、人間の心と自然との関係は、もっと自覚的、意識的なものである。確かに女性の月経のように、人間の身体も自然や天体の運行に影響を受け、それに伴って心もそれらに影響されることもあるが、しかし、人間の心は、動物と比較して、自然環境からはるかに自立性、独立性を得るまでに発達している。

確かに原始人や古代人は、日食や月食、流星などの天体現象などの影響を受けて政治的な判断をしたり、また動物の骨片を焼いて、そのひび割れという偶然的な自然現象から、運命的な事柄を占ったりする。自然にまだ内在的な精神、普遍的な精神は、さしあたっては、こうした人類の心として存在するが、それはやがて、この地球上のさまざまな自然環境に応じて、分化され、特殊化された人種や民族の精神として、具体的にさまざまな区別へと進展してゆく。

 

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個別・特殊・普遍の論理②

2007年03月20日 | 概念論

概念論の研究

個別・特殊・普遍の論理②

また、ヘーゲルは国家もまた次の三つの推理からなる体系であるとして説明している。国家という概念もまた概念としての三つの契機から、すなわち個別性、特殊性、普遍性からなる。

まず、普遍者としての政府、法律、官僚など、および、個別者としては国家の構成分子である個人、家族。そして、個人の教養や能力などの特殊性に応じて形成される市民社会、の三者である。

国家という有機的な組織の概念が、個人(家族)―→市民社会―→国家へといたる論理的な進展として、また、個別――特殊――普遍の三つの推理からなる論理構造をもったものとして捉えられる。このような論理で国家を把握している点が、ヘーゲルの国家論を他の凡俗の国家学者の国家観と比較しても比類なく卓越したものにしている点であるだろう。要するに、ヘーゲル以外に、国家を生命体として、有機的な組織体として把握する論理を持たないのである。

そして、この三者の間で、それぞれが互いに中間の媒介項となって連結することによって、すなわち、国家――個人――市民社会と、市民社会――国家――個人と論理的には、三つの項からなる推理の三重性によって国家は自己を生産し、この生産によって自己を保存する。このようにして有機的な組織の論理構造を説明しえているところがヘーゲルの弁証法論理の優越している点であると思う。

単なる質と量の数学的な論理や悟性的な形式論理学では、生命の論理は捉えきれないのである。そして、この個別――特殊――普遍の推理とその三重性の論理は弁証法論理の核心として、ヘーゲルの論理学の体系もまた、この推理の三重性によって、それぞれ自己を止揚しながら、絶対的理念に向かって自己を展開してゆくことになる。

 

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個別・特殊・普遍の論理①

2007年03月17日 | 概念論

概念論の研究

個別・特殊・普遍の論理①

ヘーゲルの概念論については、日本においてはもちろん、あるいは世界においてもほとんど研究されていないといってよいのではないだろうか。おそらくこの日本においても、ヘーゲルの概念論について研究しようと志すような「篤志家」はおそらく十指にも満たないのではあるまいか。

またマルクスなどが誤解したように、多くの唯物論者たちがヘーゲル哲学に難破して悲喜劇を演じるのは、とくに、ヘーゲルの概念論の理解において挫折しているためであると思われる。

私たちも決してヘーゲルの概念論を正しく捉えることができると自惚れるわけではなく、また、それにどのような意義があるのか、現在のところは分からない。エベレストの山塊の頂上からどのような景色を俯瞰できるのか、それは登攀して頂上を極めるまで分からないように、彼の概念論に果たしてどのような意味があるのか、あるいはないのか、それは登って見なければ分からない。さしあたっては、何かがあると信じて登るしかないのだ。

それはとにかく、個別と特殊と普遍は概念のもつ契機(モメント=要素)として捉えられている。この概念の契機としての、普遍、特殊、個別の正確な理解は、事物の発展の論理を捉える上で大切であると思う。

概念の持つ三要素としての個別、特殊、普遍についての説明については、論理学の「第三部の概念論」に詳細に論じられている。そこでは次のように説明されている。

有という場面における概念の進行は他者への移行であり、本質の進行は反省であるのにたいして、概念の進行は自己の発展(展開)として捉えられている。なぜなら、概念の進行は自己と同一性を保ちつつ自己を実現するものであり、その意味で自由なものであるから。

論理構造の全体から鳥瞰すれば、まず、概念は主観的概念から、すなわち、概念としての概念から始まり進展して、それは客観的な概念に移行(展開)する。そしてこの主観的概念が、客観的な概念に揚棄されて、絶対的な概念へと、すなわち絶対的な真理に至る。概念の進展の大きな骨格はこのようなものであるけれども、ヘーゲルはまず、概念としての概念、主観的な概念について、概念そのものとしては普遍性、特殊性、個別性の契機を含んでいるという。

この個別性はいうまでもなく現実のレベルの論理であるけれども、ただ問題は、ヘーゲルにおいては、この個別者が概念から出たものとされている点である。この点が、無から有、有から無への移行と同様に、唯物論者をはじめ、普通の意識やいわゆる一般常識には解しがたいのである。そして、このような論理はヘーゲルが観念論者のゆえの言説だとして簡単に片付けてしまって、この個別者を生み出す概念そのものが真剣に検討されることはほとんどなかった。

 

 
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歴史における個人の力と国民の概念

2007年02月21日 | 概念論

歴史における個人と国民の概念

最近というか、ここ二、三年、金融業界にとりわけ不祥事が多いことに国民は気づいていると思う。損害保険業界では、昨年は損保ジャパンと三井住友海上で保険金の不払いが明らかになって、両社は業務停止命令を受けたし、保険金の未払い事案について業務改善命令が出された東京海上日動火災保険株式会社の石原邦夫社長がテレビで頭を下げていたこともまだ記憶に新しい。

生命保険業界においても、明治安田生命の保険金未払いなどが明らかになったのをうけて、金融庁は、国内の全生命保険会社38社に対し、保険金の「支払い漏れ」の件数、金額の報告を求める命令を出した。

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/mnews/20070216mh06.htm

そして去る15日には、三菱UFJフィナンシャル・グループ傘下の三菱東京UFJ銀行の畔柳信雄頭取に対し、金融庁が国内の法人向け全店舗で新規の法人顧客への融資の7日間停止を命じるなどの行政処分を行なったばかりである。業務上横領事件などを起こした財団法人「飛鳥会」との不適切な取引を、旧三和銀行時代から長年続けて改善されることもなく、内部管理体制などに問題があると判断したのである。

こうした大手金融企業の不祥事にからんで、企業のトップが深深と頭を下げる様子をテレビの画面の中で見ない月がないくらいである。それほど、金融業界はいわゆる企業の法令遵守(コンプライアンス)の問題で、金融庁から業務改善命令をしばしば指導を受けている。

最近になってそれほど急に金融業界に不祥事が増えたのだろうか。決してそうではないと思う。不祥事ははるか昔からあった。バルブ経済の時期には、大手銀行の頭取が闇世界との取引に絡んで自殺する事件などもあったし、金融業界は深刻な債権不良問題に長年苦しんでいる間に、闇世界との関わりをいっそう強めたはずである。ただ、それが表面化しないだけである。

官庁と土木建築会社のいわゆる談合問題も、大蔵省が財務省と金融庁に編成変えになり、金融行政と監督行政の機能が分離され、また独禁法が改正、強化されたりして、最近になってこうした業界にようやく監督行政が機能し始めたにすぎない。

もちろん、こうした不祥事の摘発も、それを実行する人間が現場に存在することなくして不可能であることはいうまでもない。こうした不祥事の摘発が明らかになったのも、曲がりなりにも、小泉改革で竹中平蔵前金融相が、金融庁長官に五味広文という有能な長官をトップに据えたからである。諸官庁がどのような行政を行なうかは、根本は国家の最高指導者である首相の地位にどのような人物がつくかということが決定的であるとしても、実際の行政の実務では、長官クラスの力量に左右されることが多い。現在の安部首相の支持率低下も、周囲に有能な大臣、官僚を配置できないでいるためでもあるだろう。

また、昨年12月には三菱東京UFJ銀行が、アメリカの金融監督当局からマネーロンダリング監視に不備があるとして業務改善命令を受けたのに引き続いて、三井住友銀行が米国の金融監督当局から業務改善命令を受けている。

日本の不正義がアメリカから明らかにされる場合は多い。かっての田中角栄や小佐野賢治らが関係したロッキード汚職事件もアメリカでの議会の証言から発覚したものである。売買春にからむ人身売買の問題でも、アメリカ国務省は日本の取り組みに懸念を示している。残念ながら、正義の感覚について、聖書国民との差を示しているということなのだろう。

五味広文という長官を迎えて、ようやく最近の金融行政が消費者の方に顔を向けて行なわれはじめたということである。これが本来の国民のため行政なのである。日本国民はそれを体験する機会がなかっただけである。いわゆるグレーゾーン金利の問題で、消費者金融に暴利を許してきたのも、最近になってようやく行政は重い腰を挙げた。それまで長年の間その影で、どれほど多くの国民が泣いてきただろう。行政や組織でどのような人間が指導的地位につくかで、国民の幸福が大きく左右されるのだ。

知事や行政官庁のたった一人のトップが、国民全体の方に顔を向けて正義を追求するだけで、国民は大きな恩恵を受けるだろう。そうして人類の歴史と社会に貢献し、大きな足跡を残す者は英雄とも言われる。しかし、社会は英雄のみでは成り立たない。

先日にも、自殺をはかろうとした女性を救助しようとして(この女性がなぜ死のうとしたのかも問題だが)殉職した板橋署常盤台交番の宮本邦彦巡査部長のように、また秋霜烈日の伝統を守る検察庁などに黙々と働く無名の人がいる。社会は確かに英雄によって進歩するのかも知れないが、それを支えるのは、名もなき庶民という真の「英雄」である。彼らによって、これほど腐敗し堕落した不正義のはなはだしい日本社会もかろうじて持ちこたえられているといえる。

やがて国家全体の行政が国民大衆のために行なわれるようになれば、どれほど国民は幸福を享受できるだろう。そうした国家の国民の愛国心は黙っていても強まる。それを実行できるのは本当の民主政府であるが、残念ながらそれをいまだ日本国民は持ちえず、歴史的に体験する機会ももてないでいる。しかし、それは遠い日のことではないかもしれない。

(07/02/19一部改稿)

2007年02月17日 

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政治の貧困 ⎯と国家の理念(イデー)

2006年12月18日 | 概念論

政治の貧困 ⎯と国家の理念(イデー)

 

安部首相が指導力を発揮しないことによって、支持率を下げています。日本の政治が劣悪なものであるのは、今に始まったことではないでしょう。岸信介や大野伴睦らの政治屋たちが、右翼の児玉誉士夫たちの采配と取り仕切りのもとで金権政治を展開する様子が、日経新聞の12月から「私の履歴書」欄に掲載され報告されています。

そのなかで、読売新聞の元社長の渡邉恒雄氏が、自民党番記者として自民党の有力政治家たちに「密着」取材していた現役記者時代を回顧し記録しています。戦後焼け跡から経済復興しつつあった、いわゆる「高度成長期」の日本の政治の様子を描写していますから、そうした頃を知らない今の若者たちは、ぜひ読まれるとよいと思います。

そのころの日本の政治に生まれた金権政治体質はその後に田中角栄に引き継がれ、その派閥政治が残した膨大な借金政治の附けは現在と将来の日本国民が背負って解決してゆかなければならないものになっています。ある意味ではそうした日本政治の体質は、日本国民自体の体質であり、その反映でもあるわけですから、日本国民の体質が変わらないかぎり、日本の政治の体質も変わらないのも道理です。

政治の改革なくして日本の経済、文化、教育の再建がありえないことを、小泉政権の誕生によって国民も理解し始めたといえますが、そして一時期の、渡邉恒雄氏の描写しているような派閥政治の腐敗からはいくらかは改善の兆しは出始めたとはいえ、道のりは容易ではないようです。はたして国民は改革による痛みに耐え、克服できるのでしょうか。与党のみならず、民主党も人材を得られず混迷しているようです。

政治の混迷は、何も人材を得ないことだけから来るのではないと思います。何よりもその政治の理念(イデー)がはっきりとしていないからではないでしょうか。安部首相の「美しい国」のような情緒的であいまいなものでは、国家の理念として論理がないと思います。
日本政治の根本イデーを、日本国民がまずはっきりと自覚し、それを目的として追求してゆく必要があります。

政治の根本イデーとは、どのようなものでしょうか。それは日本国を自由と民主主義に立脚する自由民主主義国家とし、その政治的原理を基本的には、民主党と自由党による二大政党政治が担ってゆくことです。

そのためには、現在の自民党が合併する以前の、自由党と民主党へと再度に分割分離して、民主主義を原理とする民主党と自由主義を原理とする自由党に、それぞれ政治家を再結集し、政党政治を再構成しなおすことです。一方で、国民一人一人に対して、自由主義と民主主義についての教育を充実させてゆく必要があります。民主党と自由党の違いは、民主主義と自由主義のいずれに重点をおくかのニュアンスの違いであって、政策などは、八割方同じであってよいと思います。そして、さらにより完成した「自由にして民主的な独立した立憲君主国家、日本」の実現を根本的に追求することにおいては自由党も民主党も同じです

政治において、このような根本理念(イデー)を明らかにして追求してゆけばよいと思います。そして、政治家は、このような理念の追求と実現によって評価されるべきであると思います。政治家が先にありきではなく、理念が先にありきです。

それと併行して、「宗教改革」も実行されるべきでしょう。政治の改革は国民の体質を変えてゆく「宗教改革」の実行とその基礎の上にこそ、真に実の挙がるものになると思います。それはまた、100年、200年500年と幾世代もの積み上げの必要な息の長い仕事であると思います。歴史の歩みはゆっくりとしたものです。

参考までに

自由と民主政治の概念

宗教と国家と自由

 

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『薔薇の名前』と普遍論争

2006年11月04日 | 概念論
 

 

もう何年が過ぎただろうか。『薔薇の名前』という小説が、世界的なベストセラーになり、また、ショーン・コネリーの主演で映画化もされたことが記憶に残っている。

この小説の主人公である修道僧アドソの師はイギリス人のフランチェスコ会修道士で、バスカヴィルのウィリアムといい、同じイギリスのフランチェスコ会修道士で唯名論者として知られていたオッカムのウィリアムと友人であったという舞台設定になっている。そして。異端審問官であり学僧でもある彼はまた、イギリスの経験論の祖ロジャー・ベーコンにみずから弟子として私淑していることになっている。

この小説は小説家ならぬイタリアの記号論言語学者にして文献学者でもあるウンベルト・エコの手になる作品である。それは一見書籍誌らしい小説で重層的な構造になっているらしいことである。ヨーロッパの修道院や教会の建築のように、石造りの城郭のように堅牢な歴史の風雪にたえうる小説のような印象を受ける。

それにしても興味をそそられるのは、もちろんこの作品が文献学者が書いた小説であるといったことよりも、この小説の中で、主人公アドソの師の友人として、実在の唯名論者オッカムのウィリアムが取り上げられていることである。

唯名論というのは実在論の対概念であって、ヨーロッパの哲学・神学史においては、この二つの哲学的な立場から行われた論争は―――いわゆる「普遍論争」として―――歴史上もよく知られている。もちろん、こうした論争は、ソクラテス・プラトン以来の西洋のイデア論の伝統の残された世界でしか起こりえない。

私たちが使っている言葉には概念が分かちがたく結びついている。中には、ゲーテの言うように、概念の無いところに言語が来る人もいるとしても。

この概念は、「普遍」と「特殊」と「個別」のモメントを持つが、はたして、この「普遍」は客観的に実在するのかということが大問題になったのである。

たとえばバラという花が「ある」のは、もちろん誰も否定できない。私たちが菊やダリアなどの他の植物から識別しながら、庭先や植物園で咲き誇っている黄色や赤や白いバラを見ては、誰もその存在を否定することはできない。

バラの美しい色彩とその花びらの深い渦を眼で見て、そして、かぐわしい香りを鼻に嗅いで、枝に触れて棘に顔をしかめるなど私たちの肉体の感覚にバラの実在を実感しておきながら、バラの花の存在を否定することなどとうていできないのは言うまでもない。それは私たちの触れるバラの花が、個別的で具体的な一本一本の花であるからである。

それでは「バラという花そのもの」は存在するのか。「バラという花そのもの」すなわち「普遍としてのバラ」は存在するのか。それが哲学者たちの間で大議論になったのである。

この問題は、「バラ」や「船」「水」のような普通名詞であれば、まだわかりやすいかもしれない。それがさらに「生命」や「静寂」、「正義」や「真理」などの、私たちの眼にも見えず,手にも触れることのできない抽象名詞になればどうか。「鈴木さん」や「JACK」などの一人一人の人間や「ポチ」や「ミケ」などの犬猫の個別の存在は否定できないが、それでは「生命そのもの」「生命」という普遍的な概念は客観的に存在するのか。あるいはさらに、「真理」や「善」は果たして客観的に実在するものなのか。

この問題に対して、小説『薔薇の名前』の主人公アドソの師でフランチェスコ会修道士バスカヴィルのウィリアムは、唯名論者オッカムのウィリアムらと同じく、「バラそのもの」は言葉として存在するのみで、つまり単なる名詞として頭の中に観念として存在するのみであるとして、その客観的な存在を認めなかったのである。

話をわかりやすくするために、「バラそのもの」や「善」などの「抽象名詞の普遍性」を「概念」と呼び、そして、「バラ」の概念や、「善」といった概念は、客観的に実在するのか、という問いとして整理しよう。

この問題に対して、マルクスやオッカムのウィリアムなどの唯物論者、経験論者、唯名論者たちは、概念の客観的な実在を認めない。それらは「単に名詞(名前)」にすぎず、観念として頭の中に存在するだけであるとして、彼らはその客観的な実在性を否定する。唯物論者マルクスたちの概念観では、たとえば「バラ」という「概念」ついては、個々の具体的な一本一本のバラについての感覚的な経験から、その植物としての共通点を抽象して、あるいは相違点を捨象して、人間は「バラ」という「言葉」を作ると同時に「概念」を作るというのである。

だから、経験論から出発する唯物論者や唯名論者は、マルクスやオッカムのウィリアムたちのように、概念の客観的な実在を認めないのである。

しかし、ヨーロッパ哲学の伝統というか主流からいえば、イデア論者のプラトンから絶対的観念論者ヘーゲルにいたるまで、「概念」すなわち「普遍」は客観的に実在するという立場に立ってきたのである。(もちろん、私もこの立場です。)

これは、「普遍」なり、「概念」なりをどのように解するかにかかっていると思う。マルクスやオッカムのウィリアムのような概念理解では、唯名論の立場に立つしかないだろう。唯名論者に対して、プラトンやヘーゲルら実在論者の「普遍」観「概念」観とはおよそ次のようなものであると思う。

それはたとえば、バラの種子の中には、もちろん、バラの花や茎や棘は存在してないが、種子の中には「バラという植物そのもの」は「観念的」に実在している。そして、種子が熱や光や水、土壌などを得て、成長すると、その中に観念的に、すなわち普遍として存在していた「バラそのもの」、バラの「概念」は具体的な実在性を獲得して、概念を実現してゆくのである。そういう意味で、「バラそのもの」、バラの「普遍」、バラの「概念」は種子の中に客観的に実在している。

これは、動物の場合も同じで、「人間そのもの」、人間という「普遍」、人間という「概念」は、卵子や精子の中に、観念的に客観的に実在していると見る。

ビッグバンの理論でいえば、全宇宙はあらかじめ、たとえば銀河系や太陽や地球や土星といった具体的な天体として存在しているのではなく、それは宇宙そのものの概念として、無のなかに(あるいは原子のような極微小な存在の中に)観念的に、「概念として」客観的に実在していると考える。それが、ビッグバンによって、何十億年という時間と空間的な系列の中で、宇宙の概念がその具体的な姿を展開してゆくと見るのである。プラトンやヘーゲルの「普遍」観、「概念」観はそのようなものであったと思われる。

唯名論者や唯物論者たちは、彼ら独自の普遍観、概念観でプラトンやヘーゲルのそれを理解しようとするから、誤解するのではないだろうか。

小説『薔薇の名前』の原題は『Il nome della rosa 』というそうだ。この日本語の標題には現れてはいないが、「名前」にも「薔薇」にも定冠詞が付せられている。定冠詞は普遍性を表現するものである。だから、この小説は「薔薇そのもの」「名前そのもの」という普遍が、すなわち言葉(ロゴス)そのものが一冊の小説の中に閉じ込められ、それが時間の広がりの中で、その美しい花を無限に咲かせてゆく物語と見ることもできる。主人公メルクのアドソが生涯にただ一度出会った少女のもつ名前が、唯一つにして「普遍的」なRosaであるらしいことが暗示されている。

それにしても、小説『薔薇の名前』はまだ本格的には読んでいない。何とか今年中には読み終えることができるだろうと思う。書評もできるだけ書いてみたい。映画もDVD化されているので鑑賞できると思う。年末年始の楽しみになりそうだ。

写真の白バラはお借りしました。著作権で問題あれば、削除いたします。 

2006年11月04日 

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ヘーゲル哲学史2

2006年02月26日 | 概念論

フィヒテ哲学批判

ヘーゲルはフィヒィテ哲学をカント哲学の継承者であると考えている。「フィヒテの哲学はカントの哲学の完成であり、特にその首尾一貫した展開である。」岩波全集哲学史下三(p129)


フィヒテは「知られることの少ない本格的な思弁哲学」と「通俗哲学」を残したが、彼は後者によって多く知られている。ibid(p131)

一.本来のフィヒテ哲学

ヘーゲルはフィヒテの功績を次のように述べている。
カント哲学の欠陥を、「全体系に思弁的な統一を欠く没思想的な不整合」に見たヘーゲルにとって、フィヒテこそ、その不整合を止揚した人に他ならなかった。ibid(p132)
フィヒテの心を捉えてやまなかったのは、この不整合を揚棄する絶対的な形式だった。

フィヒテの哲学は「自我を絶対的な原理とするから──それは同時に自己自身の直接的な確実性である──宇宙の全内容がその所産として叙述されなければならない。」ibid(p132)

フィヒテもヘーゲルにとっても、自我とはこのような存在であった。すなわち言う。
「直接現実になっている概念と、その概念になっているこの現実──しかもこの統一を超えた第三の観念はなく、また、それは差別や統一をその中に含むものである──それが正しく自我なのである。自我は自己を思考の単純性から区別し、また同時に、この他者を区別する手段も直接的に自我に等しく区別されない。したがって自我は純粋な思考でもある。」ibid(p133)


フィヒテが原理とするこの自我は、概念的に把握された現実である。なぜなら、他者を自意識の中に取り込むことこそ、「概念的に把握する」ことに他ならないからである。そして、概念の概念とは、概念的に把握されるものの中に自意識が自己の確実性を見出すことである。これが絶対的な概念であり、絶対知である。しかし、フィヒテは、ただこの概念の原理を提起したのみであって、概念そのものを展開して、学を、絶対知を確立するまでには至らなかった。ibid(p134)


これを実現したのがヘーゲルであり、彼の精神現象学だった。

 

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ヘーゲル哲学史

2006年02月22日 | 概念論

久しぶりにヘーゲル哲学史を読む。インターネットの時代では、このヘーゲルの哲学史のテキストも、国内外のネットで検索して自室に居ながらにして読める。ただ、日本語訳「ヘーゲル哲学史講義」はまだネット上には上梓されていないように思われる。日本語ではまだ無条件に公開されているサイトはない。国民の税金を使ってなされた仕事なら、無条件に国民に公開すればよいのにと思う。商業上の利用は駄目だそうである。商業に対する偏見があり、文化的にも閉鎖的なのだ。

ネットの普及に応じて、ヘーゲル研究などのサイトも少しずつ充実してきているように思う。けれど、まだ、世界の最先端を行くような充実した研究サイトはないようである。大学での「象牙の塔」の内部での研究形態も変えてゆくかもしれない。

哲学史の第三部は、悟性哲学批判である。ヒュームやバークレイの主観的観念論、スコットランドの経験哲学、フランスの唯物論哲学を検証したのち、フランス大革命の観念的な実現であるドイツ啓蒙思想を経て、ヤコービとカント哲学の批判にはいる。

ヤコービの哲学

ヤコービも信仰を知識や思考と対立して捉えるが、ヘーゲルとっては、「思考とは普遍的な知識であり、直観とは特殊な知識である」であるから、ヤコービにおける直観に基づく信仰も特殊な知識にすぎないというのである。思考が媒介された知識であるのに対して、ヤコービの信仰は直接的な知識である。(岩波ヘーゲル全集哲学史下三p67  )
私たちが今知っているものは、無限に多数に媒介された結果である。   (ibidp69) にもかかわらず、ヤコービもまた、直接知の立場に、直観の立場にとどまっている。カントと同様にヤコービもまた、「思考の確信にとっては外的なものは何らの権威をもたず、一切の権威は思考によってのみ有効である」ことを主張しはしたが、ただ、カントの信仰は彼の不可知論によって単なる理性的な要請にもとづいたものにすぎないし、また、ヤコービのように「私の胸の中に啓示される」というだけでは、いずれにも証明も客観性もない。

ただ特殊なもの、偶然的なものを追い払う思想によってのみ、原理は客観性を得て、その客観性は単なる主観性から独立して、潜在的かつ顕在的な(必然的な)ものになる。絶対的観念論者ヘーゲルはこう批判する。

ヘーゲル批判の特色は、それぞれの哲学の意義と限界を明らかにし、その限界を、矛盾を内在的に弁証法的に克服して、より高い真理へと発展させることにある。  ibid(p70)こうして、ヘーゲルは彼に先行する二人の哲学を批判し克服してゆく。

カントの哲学

ヘーゲルはカント哲学を執拗に批判する。カント哲学はヘーゲル哲学の母胎だから。カントは自由や必然、存在と概念、有限と無限、一と多、部分と全体などを悟性的に規定するのみで、概念的に把握しない。
ヘーゲルのカント哲学批判の核心は、物自体を現象と分離した悟性的なカントの二元論、不可知論批判である。

カントは、事物を「概念的」に把握しない。カント哲学は、「悟性的な認識の方法を組織化した形式的な体系」にすぎない。  ibid(p104)

だから、カントたちが理解した、存在や有限や一などは概念ですらないと言う。カント哲学にあっては、自我は対象とは相互に他者として分離されたままである。しかし自我と外的対象は弁証法的な関係にある。(精神現象学を見よ。)

「カントの著作は思考しようという試み、言い換えると、物質という表象を生み出さざるをえない思考規定を明らかにする試み」である。だから、概念──テーゼ(正)、存在──アンチテーゼ(反)、真理──ジンテーゼ(合)が絶対的な形式として、カントにも予感されているが、それらは概念的に、演繹的に把握されてはおらず、カントにあっては経験的な感性と悟性が特殊のまま外的に結合されるにとどまっている。

ヘーゲルは、カントのあの有名な百ターレルの例を取り上げて、概念と存在を分離したことを批判する。これが、カント批判の眼目であると思う。ヘーゲルにあっては単なる観念の百ターレルが現実の百ターレルに移行する。このヘーゲルの概念観は誤解されて、ほとんど正確に理解されていないのではないだろうか。


ヘーゲルの概念観は、それをわかりやすい比喩でたとえるなら──このこと自体、悟性的な説明であって、概念の進展の必然性の論証はない──概念とは建築士の頭の中にある家の設計図か青写真のようなものである。それはもちろん実際の家ではない。しかし、この青写真・設計図は材料と労働を媒介にして現実の家となって実現し、この建築士の概念や表象は「揚棄」されて客観的な存在となる。


また、人間という「概念」は精子や卵子の内部に観念的に含まれる。ヘーゲルにとって存在はすべて内部にこのような概念を含むものとして理解されている。だから、目的とは「一つの概念が対象の原因とみなされる限りにおいて、その概念を対象化したもの」である。  ibid(p119)

そして事物はすべてそのような概念の自己展開として「概念的に把握」されてこそ、その真理性が客観的に実証されると言うのである。ヘーゲルにあって概念がカントやヤコービらの「単なる概念(観念)」と異なるのは、概念が潜在態から顕在化して自己を必然性をもって展開してゆくダイナミックなものとして捉えられていることである。

ヘーゲル哲学に対する批判や誤解は、その多くはこのヘーゲルの概念観に対する無理解から来ているように思われる。

また、ヘーゲルはカントが、特に自然論において、物質を原子からではなく、力と運動から構成しようとしている点も評価している。この点は、アインシュタインの相対性理論によってもその正しさが証明されているのではないだろうか。カントのダイナミックな自然論を評価しそれをヘーゲル独自に発展させた彼の自然哲学は、悟性的な現代物理学と比較しても、今日においても興味のあるところではないかと思う。

こうした哲学史などを読んでいつも感じることは、カントにせよヘーゲルにせよ、西洋哲学の著しい特色は、この自我や自意識についての分析の深さ鋭さである。この背景にはおそらくキリスト教の存在があると思う。キリスト教民族以外に、このような自我意識を形成できるだろうか。

ヘーゲルにとってもカントにとっても自我は個別性にあってなお直接的に本質的であり普遍的であり客観的である。この個別にして有限の自我の内部に無限と永遠が開示される。それはすでにキリスト教において準備されていた事柄だった。カントが有限性と無限性を悟性的に分離したの対して、ヘーゲルにあっては有限性が自己の内部の矛盾を克服して、無限性の高みへと登りつめる。ibid(p107)

世界はただ一つの種子から永遠に咲き出でる花にほかならない。ibid((p134)

いずれにせよ、ヘーゲルの法哲学講義や哲学史講義は、ヘーゲル哲学体系そのもののよき解説書であることは言える。彼の哲学の理解は、全体を理解しなければ細部が分からず、細部が分からなければ全体も分からないという構図があるのかもしれない。漸進的に読解してゆくしかないようである。

それにしても、ヘーゲルの概念論は現代においても意義をもつか。
私は以前に自由民主政治の概念至高の国家形態の小論文を書いたことがある。これらはいづれも、ヘーゲルの概念論を踏まえた、理念の具体化の試みである。少なくとも私にとっては意義がある。

ヘーゲルの概念論は引き続き勉強して、まとめてゆきたいと思う。あまり深く研究されていないヘーゲルの概念論と自然哲学は引き続きテーマにしてゆきたいと思っている。

もし、こうした問題に興味や関心をお持ちの方があれば、議論し切磋琢磨してお互いの認識を深めてゆきましょう。

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概念論③

2006年02月12日 | 概念論


メモ

ヘーゲル哲学においては、事物の存在がその概念に一致していることが真理であるとされることは先に述べた。(概念論②)

この概念は根拠としての存在から、自己を展開したものであり、存在を自分の内部に本質と統一された直接性として持っている。

ヘーゲルの真理概念は、対立物の統一という意味ももっているが、だから概念は存在と本質の両者を止揚するものとして真理である。
それはまた、自己を実現しつつある実体的なものとして力でもあり、必然的なものでもある。


この概念は、三つの要素を、すなわち普遍性、特殊性、個別性を含んでいる。普遍性と個別性は分離されず、その特殊性において結びついている。判断は、「個別は普遍である」と論理形式で現されるから、判断は、概念の特殊性である。

個──特──普

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概念とは何か②

2005年10月16日 | 概念論

私たちは特定の音楽家を指して、「彼は音楽家そのものである」とか「彼は真の音楽家である」と言ったりする。ここで言う「そのもの」とか「真の」という言葉で表現されている事柄が「概念」である。そのとき、このように判断する者の頭の中には、「真の音楽家」についての観念が存在する。そして、現実の芥川也寸志や武満徹といった音楽家と、頭の中に存在する彼の「真の音楽家の観念」を比較することによって、「彼は真の音楽家である」とか「彼は偽の画家である」とか判断している。

現実に存在する事物と、頭の中に持っている「概念」とを比較することによって、また、事物がその概念にどれだけ近いかによって、「真理である」とか「優れている」とか「偽物である」とかいった判断を彼は下している。

「概念」とは、このように「何々という事物についての真の観念」のことである。だから、たとえば病気の人間や犯罪を犯す現実の人間は、「人間」という「概念」に一致しないから、そのような人間は真理とは呼べない。このように事物の実在がその概念に一致していることが真理であるとヘーゲルは言う。

これに対して、一般に解されている「概念」とは、多くの事物の中に共通する要素を抽象して得られた観念を言うに過ぎない。たとえば、Aという人間、Bという人間、Cという人間、Dという人間、さらにE ,F ,Gなど現実に存在する一定の共通の性質を備えた個々の具体的な人間から、経験や観察を通して、「言葉を話す」とか「道具を作る」とか「火を使う」などの共通の特徴を抽象して「人間」という「観念」を作り出す。そして、その観念は特定の「人間」という言語と結合させられる。そして、無限の言語活動を通じて、「人間」という言葉から、「人間」という観念を条件反射的に結びつけるようになり、言語という社会的に共通の信号を形成することによって、知識や情報の伝達を可能にしたのである。

だから、一般に理解されている「概念」とヘーゲルの用語法としての「概念」とは、少し異なっている。一般に理解されている「概念」は、正確には「観念」もしくは「表象」と呼ばれるべきものである。

そして、人間は事物が真理であるかどうかは、現実に存在する事物と、頭の中に観念として存在する(実際に概念は観念でもある)「概念」と比較されることによって判断される。したがって、哲学が真理を研究するとき、まず概念とは何かが明かにされなければならない。

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