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過ぎゆく時の中で・・・

自分を見つめ、一歩前に進みたくて始めたブログです。

忘れない日・・・

2011年02月14日 | 家族のこと

今日はバレンタインデーですね。

私も主人にお義理のチョコをあげました

 

2月14日・・・バレンタインデー

それと 今日は義母の命日です。

バレンタインデーと同じ日だから

絶対に忘れない日ですよね。

 

義母は亡くなって もう20年になります。

亡くなる数年前から 認知症になりました。

 

遠い山奥の田舎に住む 義理の両親と会うのは 

年に数回・・・五月のゴールデンウイークと お盆、お正月くらいでした。

 

私が結婚した当初に 主人が私に言いました。

「俺がお袋に電話するより お前がしてあげた方がきっと嬉しいから・・・」と

そんな主人のアドバイスもあり 電話をするのは いつも私の役目でした。

お陰さまで 私は義母から とても可愛がってもらいました。

 

たまに帰る お盆やお正月には

「お母さん、何か好きな物でも買って」と 

多少のおこづかいを置いて来ました。

でも両親は お金は全部貯金してしまい 

いつも何も買わずに慎ましく暮らしていました。

私達の為に 何かあったら 使おうと思っていたようです。

 

そんなある日・・・

何も買わない義母の為に

私は義母の好きな 薄紫色のセーターを買って行った事がありました。

義母は嬉しそうにセーターを手に取って 

何度も何度もお礼を言いました。

そして義母は もったいないから 仕舞って置くねと・・・

タンスに仕舞い ふと 振り返り 私をまじまじみました。

「あんた、誰だっけ ? 」・・・・・・・・・・・・・・・・

義母は 口にした直後 ハッと我に帰って

「ごめんな、私はなんて言う事を言ってしまったんだ」と・・・

一瞬 私を分からなくなってしまった事がショックだったみたいに

泣きながら何度も何度も 私に謝りました。

 

それは認知症の初期でした。

 

義母が私の事を 誰だっけ ? と言った瞬間

私は すごく驚き 

え ???? 何で ??? って・・・

その時の私の顔は 誰が見ても びっくりした顔だったと思います。

そんな私の顔は 義母にはショックだったのかもしれないと

今でも 心がズキズキ痛みます。

 

結婚して 二年目頃に 義母から頂いた物があります。

義母がお嫁に来た時に持って来た 八重垣姫の土人形。

敷いてある物は 義母が若い頃に織った 手作りの帯です。

 

八重垣姫の土人形と一緒に

義姉達が 子供の頃に親戚から頂いた 

お雛様に添える 浦島太郎や天女や 名前も分からない 人形達も頂きました。

義姉達が 子供の頃に 散々遊んで 痛んでしまっていますが

私はお雛様が無いと言ったら これをあげるよと・・・

ちっちゃい お雛様とお内裏様は 私が買ったオモチャです(笑)

 

私にとって 毎年 義母を思い出す この時期のイベントです。

 

私から義母にあげた 物もあります。

人形作家 米山京子さんの お人形を 

教えてくれる教室に通い 私が作ったお人形です。

何故 義母にあげた お人形が 私の所にあるかと言えば・・・

義母が亡くなって 家を片付け 誰も居なくなる家に

ポツンと座っている このお人形が 可哀そうになり

黙って私がそっと持って来てしまいました。

 

あげた物を 黙って持って来た事に 

ちょっとだけ 引け目を感じましたが

義母と一緒にいるようで・・・

 

認知症になり 病院に入った時に 何度かお見舞いに行きました。

最後の方は 私達が誰なのか分からなくなっていましたが

私達が行くと とても嬉しそうにしていました。

看護師さんは 義母の事を おばあちゃんとは言いません。

看護師さん達は 「咲美さん」と呼びました。

「咲美さんは すごく働きもので 毎日庭の草むしりをしてくれるんですよ」

「毎日 お米を研いで ご飯を焚いてくれるんですよ」と・・・

義母が庭に出て草を採るのでは ありません。

義母は 長い廊下の隅を 草むしりする 格好をしていたのです。

お米も研ぐ格好をしていたのです。

 

事実・・・元気な時の義母は すごく働き者で

庭はいつも手入れがされていて 

荒れた庭は見た事がありませんでした。

私達が行った時、 ふと見ると 

義母はいつも 何かしら 動き回っていました。

休む暇もなく 真面目に 真面目に・・・

ただ真面目に過ごして来た 義母の認知症は

私達にとって 悲しい出来事でした。

 

20年経った今・・・認知症を含めて

悲しい事も 楽しい事も 全部が懐かしい思い出です。

 

私は義母が大好きでした。

バレンタインデーと共に思い出す義母の笑顔。

きっとずっと忘れない 大切な思い出の日です。

 

今も笑顔で 職人気質の 義父のお世話をしているのかな ?

義母にも 会ってみたいな。

そしてまた あの笑顔を見てみたいな。

 

いつか会える時が来たら 

自慢のお料理を 

もう一度食べさせて下さいね。

いつか必ず会えますように・・・


愛子・・・

2011年02月08日 | 家族のこと

26歳で結婚し 私と妹を産み 

30歳でこの世を去った 母の名は愛子。

悲しいかな 母の声も 顔さえも 思い出せません。

 

今日2月8日は母の命日・・・

お昼休みに 一人でお墓参りに行って来ました。

白と黄色の 可愛い花を供え 手を合わせます。

「私を産んでくれて ありがとう、お母さん」

そんな事、今まで言った事がなかったけれど

何故か母が愛おしくて 急にそんな言葉が口から出ました。

 

母は どんな友達がいたんだろうか。

若い頃は私と同じで ちょっとした事が 可笑しくて

お腹を抱えて 笑い転げていたんだうか。

どんな声をしていたんだろうか。

歌は好きだったのかな。

 

私は母の事を何も覚えていなくて

それは私にとって とても切ない事でもありました。

 

でも・・・ふと思ったんです。

写真の中の母は 私と本当に似ていて

だからきっと 声も似ていたのかなって。

だからきっと 同じように 音楽も好きで

同じように 歌って 笑って・・・・

お友達にも恵まれて 

きっと きっと・・・色々が私と同じだったのかなって。

 

そしたら ちょっと嬉しくて 

母が身近に思えるようになりました。

 

今まで母は遠い存在で 空の上の その上の

遠い遠い所に行ってしまったと思っていたんです。

 

ベルが居なくなった時 何となく傍にいるような・・・

そんな気がしたから

きっと母も 私の近くで見てるいのかなって・・・

 

鏡を見れば きっとそれは 私であり 母であるような・・・

バカみたいだけど そんな気がしたんです。

 

今、私はとても幸せに生きています。

それは きっと 母は ちゃんと知っているのかなって

そんな気がしてならないのです。

 

そんな気持ちにさせてくれたのは

友達や ブログで知り合った 

心ある優しい仲間のお陰かな。

 

ありがとうって ・・・心からありがとうって 

言いたくて 言いたくて・・・

母の命日に 

母と 皆さんへ 感謝の心を書きました。

ありがとう~。

 

 

 

 


バラの花のクリスマスケーキ

2010年12月23日 | 家族のこと
12月・・・今年も終わりの月。

いつも聴いているFMラジオから 

毎日のように クリスマスソングが流れています。

街には クリスマスケーキのご予約を・・・

などとポスターも貼られています。

明日はクリスマスイブ・・・

ケーキの注文は忘れていませんか ?

・・・って今更遅いですね。


この時期になると 遠い昔の子供の頃を思い出すんです。


 
多分小学校の低学年だったと思います。

その頃の 一般家庭は 鍵ッ子ではなく 

学校から帰ると 家には 母親やお年寄りが居ました。


我が家は 昼間 大人が居ない家庭だったので 

近所の子供達が集まる遊び場でした。

押し入れに隠れたり 布団を全部出して

押入れから 布団の上に 飛び降りたり・・・

誰も怒る大人が居ないので 子供達は大はしゃぎ・・・

それはそれは 酷い有様でした。



母を亡くし 父の生まれ故郷に戻ってから

父の仕事先は パン屋さんでした。

クリスマスの1週間前頃から 父は遅くまで働きました。



帰宅して家の中の散らかりようを見て 

父から物凄く叱られて・・・・

というより 

仕事での疲れと 家で癒される事のない現実に

父は落胆したのかもしれません。

「お前達がいなかったら お父ちゃんは とっくにお母ちゃんの所に行ってた」と・・・

「こんな事をしていると もう おとうちゃんは 何処かに行っちゃうぞ」と・・・

誤りました・・・必死で誤りました。


そんな頃に 私達に夕食を食べさせて 

父は また職場へ向かいました。

「遅くなるから寝ているんだぞ」と言い残し・・・



夜中に目が覚めた時 父が居ませんでした。

お父ちゃんが居ない・・・

どうしたんだろう・・・

私は寝ている妹を一人残し

寒い冬の夜 パジャマのままで 父の職場へ向かいました。

子供が走って15分くらいの職場へ・・・

「おとうちゃ~ん・・・おとうちゃ~ん」

泣きながら必死で走りました。


職場に着いたら 父はまだ仕事をしていました。

泣きながら父に抱きつくと

「バカだな~お前達を置いて お父ちゃんは何処にも行かないよ」


それから数日は 学校の帰り道 父の職場に寄って

父がクリスマスケーキを作る様子を見ていました。



昔はバタークリームのケーキで 

バラの花がいっぱい飾ってありました。

サンタさんが居たり 小さなお家があったり 

仁丹みたいな銀色の粒を散りばめて

とっても夢があって大好きでした。



そしてケーキを作る父の仕事姿も好きでした。

父の手が魔法のように 一つ また一つと

バラの花が増えて行くのです。

イブの日には 父も早く帰り

手には大きな箱を持って・・・

私が大好きな バラの花のクリスマスケーキ・・・



私も大人になったら 父と一緒に

ケーキも作れるパン屋さんをやりたいな~なんて・・・

子供心に夢を抱いていたものでした。



親孝行 したい時には 親は無し・・・

この言葉を目にする度に

私への戒めの言葉のように聞こえます。


親不孝で なんにもしてあげられなかった娘です。

もっと親孝行しておけばよかった。

優しい言葉をかけてあげればよかった。

パンを作って食べさせてあげたら

きっと喜んでくれただろうか・・・


ごめんなさいの一言が

今 言えたらいいのにな~。







次男の夫

2010年10月08日 | 家族のこと

秋が深まって来ましたね~

先日買い物に出た時に 思わず銀杏並木を撮りたくなりました。

諏訪インター通りと並行している道ですが

新しい大型スーパーが出来たので道が繋がりました。



この銀杏並木が黄色に染まるのも もうすぐです。


今日、友達が手作りの お漬物を持って来てくれました。

キュウリとミョウガの味噌漬けも

シマウリの粕漬けも 手間暇掛けているので

とっても とっても 美味しかったです。

漬け物の上手な彼女が羨ましいです。

ありがとう、C さん !!  美味しかったよ~。


美味しいお漬物があると ご飯も進みますね。

新米の季節・・・この辺でも美味しいお米が採れるんですよ。

米沢米・・・・米沢牛で有名な山形県ではないですよ~。

茅野市にある米沢という地名の所ですが

その昔 高島藩のお殿様に献上したと言われる美味しいお米です。

米沢には湧水もあり 田んぼへ 入る水も美味しいらしいです。


そうそう・・・今日のテーマは 次男の夫の事でしたね。

夫の田舎では 長男はとても大事にされました。

もちろん 父親が一番ですが ・・・


話はお米に戻りますが

私達が子供の頃は お米の中に麦を入れました。

麦は軽いので 焚きあがると 上の方に 浮き上がって来ます。

夫の実家では 父親、長男の順番で ご飯をよそりました。

母親は その麦を どけて 白米だけを 二人によそると

素早く 麦と 白米を混ぜ合わせてしまいました。

そして麦が混ざった ご飯を 他の子供達によそります。

次男である夫は 白米だけのご飯が食べたくて

「麦のスジが 喉に刺さる~~」と言って母親を困らせたそうです。

本当は麦が入っていた方が 栄養価は高いのにねぇ~。

麦の事はともかく 自分も父親と兄と同じ立場でいたいと思ったのでしょう。


新米の時期になると  義母から聞いた そんな話を思い出します。



それに・・・夫は 子供の頃 母親が夕方の忙しい時間になると

構って欲しくて よく泣いていたと 近所のお婆さんに聞いた事があります。


義姉は ニワトリの産んだばかりの 卵を わざと こっそり飲んでいたそうです。

母親が卵を取りに来て 「今日は卵を産まなかったのかな~」の ひとり言を

庭の隅に隠れて聞いていたと 義姉から聞きました。


夫は 上から4番目 下から2番目 

名古屋の義姉は 上から3番目 下から3番目 

子供の頃は お互いに 親の愛情が薄いなどと考えていたようです。

そんな二人ですが ・・・

私から見たら 今では一番の親思いだと感じています。

そして両親も きっと 5人の子供に平等の愛情を注いだ事も ・・・


未だ兄弟 姉妹は 元気にしています。

みんなで集まるのは 法事の時くらいですが

次男の夫は 家族の中では 仕切りタイプなので 

まだまだ 家族を 仕切るつもりの ご様子、 張り切っていま~す。

いつまでも仲の良い 兄弟姉妹でありますように・・・



義父の下駄

2010年06月26日 | 家族のこと
探し物をしていたら 義父が作った懐かしい 下駄が出て来ました。

義母から頂いたまま 履くのがもったいなくて 

仕舞っておいたままの 形見となった下駄。

履いてあげた方が 義父も喜ぶと思い 主人が庭で履く事にしました。

桐で作った下駄は軽くて履き心地が抜群です。



義父は昔 下駄職人でしたが 時代の波に押され 廃業したのは主人が子供の頃でした。

義父は職人気質で 頑固一徹・・・ある部分は主人も似た所があります。



ずっと昔 主人が学生の頃・・・

大雨で川が増水して 堤防を全開し放水した為 川が氾濫しました。

急激な放水の為 川下にあった主人の実家と その周辺の数軒が 流されました。


夜に流されるのも怖いですが・・・

昼間 目の前で自分の家が流されるのも悲惨だったそうです。

義父は「家と一緒に行く」と屋根から降りようとしなかったらしいです。

義兄が引きずり降ろし 数分後に 家は流されて行ったようです。

その後 毎日毎日 魂が抜けたように 

家があった付近に行っては 座り込んで ぼ~っとしていたそうです。


私が結婚した時には 笑顔の義父でしたが 辛い時期を必死で乗り越えたのでしょう。

義母もまた そんな義父を支え 長い間連れ添っていたんだと思います。



二人が生きている頃には 毎年 お盆とお正月の他に ゴールデンウィークなどに出かけました。

主人は親を思う気持ちが強い人で 親が生きている間は 行くのは子供の義務だとか・・・

亡くなってしまっても お墓参りも・・・


主人は自分の育った 南信州の遠山郷を友達にも見せたくて 

過疎化した田舎に何度も何度も足を運んでいます。


段々寂れて行く 遠山郷にも お茶の季節がやって来ました。

赤石銘茶・・・静岡に近い地域なのでお茶が名産です。

山奥で 残った村人達が一生懸命に作るお茶を 今年も頂きましょうかねぇ・・・