今日はバレンタインデーですね。
私も主人にお義理のチョコをあげました
2月14日・・・バレンタインデー
それと 今日は義母の命日です。
バレンタインデーと同じ日だから
絶対に忘れない日ですよね。
義母は亡くなって もう20年になります。
亡くなる数年前から 認知症になりました。
遠い山奥の田舎に住む 義理の両親と会うのは
年に数回・・・五月のゴールデンウイークと お盆、お正月くらいでした。
私が結婚した当初に 主人が私に言いました。
「俺がお袋に電話するより お前がしてあげた方がきっと嬉しいから・・・」と
そんな主人のアドバイスもあり 電話をするのは いつも私の役目でした。
お陰さまで 私は義母から とても可愛がってもらいました。
たまに帰る お盆やお正月には
「お母さん、何か好きな物でも買って」と
多少のおこづかいを置いて来ました。
でも両親は お金は全部貯金してしまい
いつも何も買わずに慎ましく暮らしていました。
私達の為に 何かあったら 使おうと思っていたようです。
そんなある日・・・
何も買わない義母の為に
私は義母の好きな 薄紫色のセーターを買って行った事がありました。
義母は嬉しそうにセーターを手に取って
何度も何度もお礼を言いました。
そして義母は もったいないから 仕舞って置くねと・・・
タンスに仕舞い ふと 振り返り 私をまじまじみました。
「あんた、誰だっけ ? 」・・・・・・・・・・・・・・・・
義母は 口にした直後 ハッと我に帰って
「ごめんな、私はなんて言う事を言ってしまったんだ」と・・・
一瞬 私を分からなくなってしまった事がショックだったみたいに
泣きながら何度も何度も 私に謝りました。
それは認知症の初期でした。
義母が私の事を 誰だっけ ? と言った瞬間
私は すごく驚き
え ???? 何で ??? って・・・
その時の私の顔は 誰が見ても びっくりした顔だったと思います。
そんな私の顔は 義母にはショックだったのかもしれないと
今でも 心がズキズキ痛みます。
結婚して 二年目頃に 義母から頂いた物があります。
義母がお嫁に来た時に持って来た 八重垣姫の土人形。
敷いてある物は 義母が若い頃に織った 手作りの帯です。
八重垣姫の土人形と一緒に
義姉達が 子供の頃に親戚から頂いた
お雛様に添える 浦島太郎や天女や 名前も分からない 人形達も頂きました。
義姉達が 子供の頃に 散々遊んで 痛んでしまっていますが
私はお雛様が無いと言ったら これをあげるよと・・・
ちっちゃい お雛様とお内裏様は 私が買ったオモチャです(笑)
私にとって 毎年 義母を思い出す この時期のイベントです。
私から義母にあげた 物もあります。
人形作家 米山京子さんの お人形を
教えてくれる教室に通い 私が作ったお人形です。
何故 義母にあげた お人形が 私の所にあるかと言えば・・・
義母が亡くなって 家を片付け 誰も居なくなる家に
ポツンと座っている このお人形が 可哀そうになり
黙って私がそっと持って来てしまいました。
あげた物を 黙って持って来た事に
ちょっとだけ 引け目を感じましたが
義母と一緒にいるようで・・・
認知症になり 病院に入った時に 何度かお見舞いに行きました。
最後の方は 私達が誰なのか分からなくなっていましたが
私達が行くと とても嬉しそうにしていました。
看護師さんは 義母の事を おばあちゃんとは言いません。
看護師さん達は 「咲美さん」と呼びました。
「咲美さんは すごく働きもので 毎日庭の草むしりをしてくれるんですよ」
「毎日 お米を研いで ご飯を焚いてくれるんですよ」と・・・
義母が庭に出て草を採るのでは ありません。
義母は 長い廊下の隅を 草むしりする 格好をしていたのです。
お米も研ぐ格好をしていたのです。
事実・・・元気な時の義母は すごく働き者で
庭はいつも手入れがされていて
荒れた庭は見た事がありませんでした。
私達が行った時、 ふと見ると
義母はいつも 何かしら 動き回っていました。
休む暇もなく 真面目に 真面目に・・・
ただ真面目に過ごして来た 義母の認知症は
私達にとって 悲しい出来事でした。
20年経った今・・・認知症を含めて
悲しい事も 楽しい事も 全部が懐かしい思い出です。
私は義母が大好きでした。
バレンタインデーと共に思い出す義母の笑顔。
きっとずっと忘れない 大切な思い出の日です。
今も笑顔で 職人気質の 義父のお世話をしているのかな ?
義母にも 会ってみたいな。
そしてまた あの笑顔を見てみたいな。
いつか会える時が来たら
自慢のお料理を
もう一度食べさせて下さいね。
いつか必ず会えますように・・・