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過ぎゆく時の中で・・・

自分を見つめ、一歩前に進みたくて始めたブログです。

風薫ころ・・・

2010年05月22日 | 家族のこと
風薫ころ・・・

kazekaorukoro・・・

実は私の携帯アドなんです。

風かおる 五月に 妹が亡くなりました。

あれから もう5年の月日が流れ 今日は5回目の命日です。

妹の下の娘は 昨年の2月に嫁いで東京で暮らし

義弟 ( 妹の旦那さん ) と上の娘と・・・

そして妹が亡くなった後から家族になった

豆芝犬のチョコと3人で 穏やかに暮らしています。



妹は 下の娘を出産した頃から体調を悪くして

まるで病気の問屋のように 少し良くなると また違う所が・・・

その繰り返しで ずっと薬を飲み 入退院を繰り返す日々でした。


妹は 自分は実験台にされているのではないかと 医師に疑いを持っていました。

「先生に信頼を持てないなら 他の病院に行ってみたらどう ?」と私が言うと

「他の病院に行けば 最初からの事を全部説明しなくちゃいけないし

 そんな事の説明も 煩わしいから」と・・・それ程長い年月が過ぎていました。


これ以上病状が悪化すると 透析をしなくては・・・と言われ

手首にバイパス手術をする事になった 手術の当日

妹は怖くて病室から逃げ出した事もありました。

妹は 身体ばかりでなく 心も凄く病んでしまっていたのです。


結局 手術の日程は妹には知らせず 医師の判断で 

体調や精神的に落ち着いた日に手術しました。



亡くなる3年前頃から 医師に「覚悟をして置いて下さい」と言われ

高校の教師をしている 義弟は 授業中の時でも 

何度も 病院から呼び出しを受けていました。


私は、妹を見舞っても 本人の前では 一度も泣いた事はありませんでした。

妹が気弱になったら困ると思っていたからです。


それと・・・病気の妹は 結構な我が儘な人間になっていて

義弟に対しても 妹の娘に対しても そして私に対しても・・・

平気で腹の立つ事を言う事もあり・・・でも反論する事もできなくて

帰りの電車の中で 人目を気にしながら 何度も泣いて帰った事もありました。


ある日 義弟から「危ないから」と連絡を受け 飛んで行くと

「おねえちゃん・・・こんな風になっちゃった・・・」

妹は青白い顔をして 手足も冷たくなりかけていました。

泣きそうな妹の顔を見て 手を取り 始めて二人で泣きました。

冷たくて 白い 妹の手や足を擦りながら 何度も泣きました。

このまま死んでしまうのかもしれない・・・

帰りの電車の中でも涙が止まりませんでした。

でも・・・

医学は凄いです・・・それから3年間 今までみたいに頑張る事が出来ました。



最後の一年は 車椅子を余儀なくされ 家での生活は困難だと判断した義弟は

もう残り少ない妹の為に バリアフリーの家に建て替えてくれました。

 
明るくて快適な 素敵な家で 笑顔で一年間を過ごせました。


5年の月日が流れた今・・・

悔しくて悲しくて泣いた日々も 今になって思えば

それも病気の内だったんだと 分かって来たような気がしました。


義弟の家でも 妹の代わりにやってきた ワンコとの生活は

今までの苦労が夢の中の出来事のようにも思えます。


妹は善光寺さんを見降ろす所に眠っています。

でも妹の事だから 家族が心配で 心配で・・・

きっと松本にも行ったり東京にも行ったり

元気な体になって 忙しく飛び回っているのでしょうか ?



妹が元気な頃に 庭に咲いていた花を私にくれました。 

今では我が家の庭で 咲いています。

名前も忘れた どこにでもある花ですが

毎年 花芽が出て来ると 懐かしさが込み上げて来ます。

私は妹に何をしてあげられたんだろう・・・

もっと違う言い方をすれば 妹は 穏やかに生きられたのかな・・・

色々な想いで 今でも悔いが残っています。

でも・・・

妹が病魔から解き放された事の方が嬉しいかな。


今では 体も癒え 心も癒え 父や母と 楽しい毎日を送っていて欲しいと・・・ 



おばあちゃん・・・

2010年04月16日 | 家族のこと
偶然に飛び込んだブログ・・・ウメばあちゃんの記事を読んで

私も自分の祖母の事を久々に思い出しました。


いつだったか・・・誰かの法事の時に 住職さんから聞いたお話で

「四十九日、百か日が済むと 死者は あちらの世界に行きますが
 
 生きている遺族が 思い出してあげる事で 常に傍にいるんですよ。
 
 そして・・・思い出す事もなくなった時に 遠い遠い所に旅立つのです」

そんな話を ふと思い出し ウメばあちゃんの記事を書いてくれた

長崎沙織さんに とっても感謝です。

まだ私の傍に おばあちゃんが居てくれたのかなと・・・



私のおばあちゃんは いつもニコニコと笑っている人でした。

若い頃から心臓が弱く 「私は 早く死んでしまうから」といって

60歳の時に 喪服を着て 一人で写真館に行き 遺影写真を撮って来ました。

それから 20年・・・80歳で旅立ちました。

葬儀の時に もちろん おばあちゃんが撮って来た 遺影写真を飾りました。

生きている頃のように いつもの おばあちゃんが笑っていました。


その写真は 従妹の所にありますが・・・

私の所には 父に抱かれた妹と 母に甘えて もたれかかる私と

そして 笑顔のおばあちゃんの 古い 古~い写真が 飾ってあります。

大きな 富士山をバックに 白黒の古い写真に 懐かしい家族が写っています。



多分・・・ウメばあちゃんも 私のおばあちゃんも 

今の私達には想像もつかない程

苦労の絶えない 人生だったのでしょうけど・・・

今でも思い出して 懐かしむ私達が居る事で 

きっときっと・・・

今は天国で 私達を見守り 

そして 幸せな気持でいてくれるのだろうと信じたいのです。






父と母

2010年02月28日 | 家族のこと
私は富士山が大好きです。

多分、日本人なら誰でもそうでしょうけど・・・

それとは違う想いを小さな頃から感じていたような気がします。



私が生まれた所は 目の前に 巨大な富士山の見える町でした。

父は小さなパン屋さんを営んでいて・・・大家さんが母の実家だったと思います。


私が一歳のお誕生日に 父が作った大きなケーキを目の前にした写真が残っています。

貧しい中にも カメラを買い 思い出を作っていたんだと思います。 


父よりも11歳も年下の母と 始めての我が子を愛おしく想い

多分・・・父の人生の中で一番幸せで 

一番輝いていた時期だったのではないかと想像します。


母は私が4歳と5カ月くらいの時に30歳で他界しました。 


母が亡くなって、二つ下の妹と 私を連れて父の田舎に帰って来ました。

どんな想いで帰省したのかと思うと 胸が締め付けられます。

富士山が段々遠くなって行く景色の中で不安が一杯だったのかなと・・・


父の小さな手帳と 母が義母(父の母)に宛てた1通の手紙・・・


母の手紙には義母に宛てた優しい言葉が詰まっていました。

女性らしい優しい文字で 義母を気遣い、義妹を気遣い 

おそらく少ない生活費から「お金を送りましたから当分はこれで・・・」と。

そして、歩き始めた幼い妹の事 おばあちゃんを慕う私の言葉などが綴られていました。




「淋しさに ふと君の名を

 呼べば おかしや 涙こぼるる」


父の手帳の1ページに書かれた言葉です。

母が亡くなった時、父は41歳・・・

まだまだ若い父が 幼い娘二人と残された辛い想いは

大人になって やっと分かったような気がします。

気がするだけですけど・・・


苦労して 苦労して・・・

父は 私の結婚式の三週間前に他界しました。



私は母の顔も覚えてはいません。

その頃から あまり頭がよくなくて 記憶力が劣っていたのかな ?


母の顔は写真の中の顔しか分かりません。

どんな声で笑い、どんな風に怒るんだろうか ?

 
でも・・・写真の母と私はよく似ています。

手紙の文字も・・・少し私と似ているような気がします。

母から教えてもらってもいない文字までが 

私と似ている事に嬉しさを感じます。



父の古ぼけた小さな手帳と

母の擦り切れそうな手紙は

私の大切な宝物・・・


今は二人で楽しい毎日を送っていますか ?

私が頑張って生き抜いて 

そちらの世界に逝った時に

ちゃ~んと お礼をいいますね。


それから・・・

私が逝くまで ベルの事を守って下さいね。