社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

木村和範「ドイツ標本調査論争」『標本調査法の生成と展開』北海道大学図書刊行会,2001年

2016-12-27 11:23:28 | 1.蜷川統計学
もとの論稿は「ドイツにおける標本調査論争-1903年国際統計協会ベルリン大会以後」(『経済論集』[北海学園大学]第48巻第1号,2000年6月)。

構成は次のとおり。「はじめに」「1.プファウンダーとヴァイヤー(1906年):(1)先行研究、(2)ザルツブルク大公領家畜調査,(3)標本調査実験、(4)推定結果の考察」「2.アルトシュール(1913年):(1)一部調査の必要性と望ましい一部調査法、(2)大数法則」「3.ショット(1917年):(1)理論的考察、(2)組織的な検討」「4.ウィンクラー(1921年):(1)アウエルハンの見解-1919年チェコスロバキア共和国土地収用法の正当性-,(2)アウエルハンへの批判」「5.グレーフエル(1921/22年):(1)論文の要旨、(2)ツァーンのコメント」「6.ルフト(1922年):(1)代表法の有効性にかんする理論的検討-先行研究にたいするルフトの見解-、(2)標本調査実験」「むすび」。

筆者は1903年に開催されたISIベルリン大会での報告を順次、紹介して標本調査論争の内容を検討している。紹介されているのは、マイエット、キエールの見解である。さらにその後に公にされたプファウンダーとヴァイヤー(1906年)、アルトシュール(1913年)、ショット(1917年)、アウエルハン(1920年)、ウィンクラー(1921年)、グレーフェル(1921/22年)、ルフト(1922年)の論稿が俎上にあげられている。

 マイエットの報告は、バーデン大公国家畜センサスの調査結果を借り受け、標本調査の有効性を経験的に確かめる目的で実施した実験内容に関するものである。この調査は任意抽出のはしりであった。この大会でキエールは、今でいう有意選出による標本調査を推奨し、マイエットと対立した。

オーストリア・ハンガリー帝国中央統計委員会の局長であったユルシェックは、ベルリン大会後、マイエットの方法の有効性を検討することをプファウンダーとヴァイヤーに勧めた。約20年間に及ぶドイツ標本調査論争は、これに応えて執筆された彼らの論文(Pfaunder, Richard und Weyr, Franz,”Die stichprobenweisen Viehschätzungen : Eine kritisch-metodologische Untersuchung,” Statistische Monayschrift, Neue Folge,XI. Jahrgang, 1906)を発端とした。プファウンダーとヴァイヤーは、オーストリア・ハンガリー帝国農務省が行った1890年のセンサス・データ(家畜頭数)をもとに、1900年のそれを推算し、その結果が同じ1900年のセンサス・データに符合しているかどうかを検討した。この検討に際して、プファウンダーとヴァイヤーはザルツブルク大公領のデータとボヘミアのそれを用いたが、筆者はこれらのうち前者の中身を詳細に紹介している。その結果、マイエットの標本調査実験に準拠したプファウンダーとヴァイヤーによるザルツブルク大公領の家畜調査では、その有効性に疑問が出された。

 その後、アルトシュールは、1913年に、「標本調査の方法にかんする研究-理論統計学における現代的傾向の性格規定によせて-」と題する論文を公にし、そのなかで「大数法則」によって誤差を秤量する代表法の利用を主張した。ポイントは、次の諸点である。第一に、アルトシュールは全体への推測を目的とする一部調査が全数調査を前提とする必要がないと考えていた。第二に、彼は全数調査を前提としない代表法で全体の数字を推測するときに、誤差の限界が「大数法則」によって与えられると考えていた。そして、「大数法則」を用いれば、所与の観測個数で特定の誤差の計算が可能であるとした。「大数法則」のこの解釈は、その適用が大きな標本を前提とするというケトレー以降の「大数法則」感の転換でる。

ショットは1917年に、論文「都市統計における標本調査にかんする試論」を執筆した。この論文でショットが意図したのは、当時、自然科学に分野以外でみるべき成果をあげていなかった代表法の有効性を理論的・経験的に解明することであった。この論文で彼は、悉皆調査に代わる代表法が有効であるとの立場を理論的な考察と経験的な考察(1916年のマンハイム市人口調査)から補強することを試みている。

筆者はさらにアウエルハン論文「主要商品作物の作付にたいする農場規模の影響」(1920年)、ウィンクラー論文「経営規模と作付分布-一部調査の批判的方法論研究-」(1921年)、グレーフェル論文「統計の必要性と代表法」(1921/22年)、ルフト論文「統計学における代表法」(1922年)を紹介している。これらのうちグレーフェル、ルフトの論文では、代表法に有意選出法と任意抽出法とがあり、いずれも全体の推測を目的とする一部調査の方法として優劣をつけがたく、並列されるべきものであること、しかしかつてマイエットが主張したような代表法、とくに標本法の有効性を認めることができず、ましてや代表法が全面的に大量観察代用法として悉皆大量観察に代わる機能を果たす調査と結論づけられることはなかった。ただし、ルフトにあっては、代表法は少なくとも広範囲に及ぶ地域にかんする概要を与えることでは一定の役割を果たすとの示唆が示されている。

筆者は「むすび」で本稿を要約しているので、それを以下に引用する(pp.101-2)。
(1)キエールがISIで代表法の有効性を主張したとき、彼はマイヤー(代表法が全数調査に代わることはないと非難した)とボルトキヴィッツ(誤差の数学的評価が欠如していると論難した)との両方から、批判を受けた。代表法の有効性を論議するとき、キエール批判のこの2つの論点は、繰り返し、さまざまな論者によって主張されている。20世紀初頭以降のドイツにおける標本調査論争でも、そのことは例外でない。
(2)官庁統計の実務家を中心にして、次第に、代表法を積極的に活用してゆこうとする機運が生まれた。それは、とりわけ第1次世界大戦をはさむ時期における統計予算の削減と経費の高騰が、全数調査の実施を不可能ないし困難に陥れるという、いわば統計調査の「危機」を前にして、全数調査の代用となる統計調査を必要としていたことを反映している。
(3)代表法として括られる一部調査には、2つの種類がある。その一方は、後に有意選出法と呼ばれる「選出法」であり、他方は「標本法」(後の任意抽出法)である。標本調査論争のなかで、両者の特質や差異性が次第に明らかになった。
(4)このうちの「標本法」に推奨する論者はボルトキヴィッツやボーレーの系譜にいる人たちであったが、ドイツでは「標本法」をもって、あるべき代表法とみなす見解が支配的になることはなかった。
(5)2つの代表法のいずれが望ましい大量観察法であるかについては、その有効性の判断基準を「経験的なコントロール」におく限り、決定的な判定が下されることはなかった。代表法は正しい推定をあたえることもあれば、そうでないこともあったからである。しかし、いずれにしても、推定結果が妥当なものかどうかを、利用者みずからが検討できるよう、調査の概要を公表しておくことが重要であると見なされていた。

20世紀初頭に展開されたドイツ標本調査論争では、代表法の意義と限界についての確定的な結論は出なかった。その結論は1925年のISIローマ大会でのイェンセン・レポートまでまたなければならなかった。

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