鮫島龍行「明治維新と統計学-統計という概念の形成過程-」『経済学全集28「統計日本経済」』(別冊), 筑摩書房, 1971年
「統計」「統計学」は, 翻訳語である。明治時代の初期, 西欧の多くの学問, 科学が日本に輸入され, statisticsもその例外でなかった。本稿は, その概念あるいは用語が日本でどのように翻訳され, 現在の統計学という概念で定着したのか, その経緯, プロセスについてまとめたものである。
筆者の結論を先取りすると, 学問としての statistics に「統計学」という名称を, 最初に意識的に充てたのは箕作鱗祥である。箕作は, 明治7年(1874年)にモロー・ド・ジョンネの原著を『統計学』と訳して出版した(原著は1856年, パリで出版)。その後, 明治10年代になって, 学問用語としての「統計学」は市民権を得るようになり, 20年代になると実務の面でも理論の面でも, ほぼ完全にこの概念が定着した。
統計学という概念の定着に至るまでには, 幾多の紆余曲折があった。本稿はその経緯を詳しく論じている。結論と同様に, この経緯が興味を惹く。以下, 筆者の展開の要点である。
統計学の日本への橋渡しをしたのは, 西周, 津田真道である。ふたりは文久3年(1863年)オランダに留学し, 西欧の社会科学系統の学問をもちかえった。ふたりはライデン大学教授シモン・フィセリングのもとで, これらの学問を学んだ。西はフィセリングの当該講義科目を「政表学」と訳し, この同じ講義ノートを津田は「表記堤綱」と訳した(明治7年[1874年])。明治6年(1873年)に杉亭二は, 二人のもちかえったフィセリングの講義ノートをもとに, 上司に意見書を上呈したが, その際には「形勢学論」という用語が使われた。なお津田は「表記堤綱」で, 「表記」「政表」「統紀」を使い分けているとのことである。「政表」は統計表の意味で, 「統紀」は当時の『英華辞典』掲載のstatistics の訳語であったらしい。しかし, 当時, 杉はstatistics の訳語に「政表」をあて, 「表記」を統計表と訳していた。要はこの頃, 「表記」「政表」「統紀」, あるいはいまで言う「統計」「統計学」「統計表」といった用語は互いにオーバーラップし, 概念的区別が定着していなかった。ただし, 津田が「政表」の訳語を採用しなかったのは, 自然統計を意識したからで, 社会現象, 国家現象を意味する「政」の字のもつ含意に違和感があったためである。
ところで, 既述の箕作がモロー・ド・ジョンネの著作に「統計学」の名称を充てたのは, ジョンネの考え方がフィセリングのそれと異なるとの意識があったからである。訳語を付けるときには, 当然, もともとの用語が意味する内容との対応が考慮されるはずである。フィセリングの statistics は, 古いドイツ国状学の伝統を継承するものであった。しかし, ジョンネになると, statistics はその対象領域が自然と社会の双方を含むものとなり, それらの数量的表現を第一義とした。箕作には,そうした違いを, 統計学の用語にこめた。
しかし, この頃, フィセリングやジョンネの旧統計学に次いで日本に入ってきたハウスホーファの教程(方法科学としての統計学と実質科学としての統計学の折衷的形態)に傾倒した杉亭二はstatisticsに「統計学」の訳をつけることに反対した。杉にあってはこの当時には, 「政表」も「形勢学」もドイツ国状学的語感をもつとして, 訳語として採用することを拒まれたが, かといって「統計」という用語も学問としてのstatisticsにはあまりに狭小平俗であるとして取り上げられなかった。杉はやむをえずstatisticsをそのままスタティスティックスとした(あるいは自ら独自の漢字を作ってこれに充てたが, この論稿にその指摘はない)。
実務の分野で「統計」の用語が使われたのは, 明治4年(1871年)7月, 廃藩置県にともなう政府の改革で, 大蔵省に統計司が設けられた(建議は伊藤博文が統計寮という用語で行った)。その内容はアメリカの行政機構をまねたものであった。重要なことは, そこで「統計」という用語は「統計する」という動詞形とともに使われたことである。「統計する」の意味するところは「計算する」という行政活動とほぼ同義で, 「合計」という語義をこえ, 事物の総額を類別合算し, かつその数量を表出するという意味までもっていた。もっとも, そこには統計学的概念をめぐる上記の意味内容は含まれていない。
筆者はこのような整理を与えた後に, 明治初期の「統計」の語義を考察するさいに, さらに(1)統計資料の収集方式つまり調査論の視点と, (2)統計学の学問的性格をめぐる考え方の視点が必要であるとして, 両面から補論的にその検討と考察を行っている。
前者では, 当時の官庁統計のめざしていたものが表式調査をもとにした数量的表示主義をとっていて, 点数調査論的立場をとりえなかったことが指摘されている。実地の統計調査に重きをおく調査論の実現には, 杉亭二が明治12年(1879年)に行った「甲斐国現在人別調」まで, また実査面で公式に統計報告という用語があたえられたのはさらに時間を経た明治27年(1894年)まで待たなければならなかった。
後者では, 森鴎外が明治20年以降, 統計学の訳語論争にくわわり(杉亭二らのスタティスティックスという原語採用論を真っ向から批判), 従来型の社会統計学的見解, あるいはそれを社会諸現象の法則を追及する実質科学的見解に批判をくわえ, 統計学を論理学と同様に, どのような学問にも活用できる方法の科学と位置づけた。筆者はこの経緯を以下のようにまとめている, 「統計訳語にかんする論争は, ヨーロッパでたたかわされた統計学の学問的性格をめぐる論争の日本型縮刷版であって, 明治初期の人びとの統計思想の発展途上における, いわば必然的経過であったといわねばならない。行政とは直接なんの関係もない一医学士森が, この論争を通して, 統計学の性格規定からいっさいの国状学派的思想を切りすてたことは, これまた必然的であったといえる」と(p.22)。
「統計」「統計学」は, 翻訳語である。明治時代の初期, 西欧の多くの学問, 科学が日本に輸入され, statisticsもその例外でなかった。本稿は, その概念あるいは用語が日本でどのように翻訳され, 現在の統計学という概念で定着したのか, その経緯, プロセスについてまとめたものである。
筆者の結論を先取りすると, 学問としての statistics に「統計学」という名称を, 最初に意識的に充てたのは箕作鱗祥である。箕作は, 明治7年(1874年)にモロー・ド・ジョンネの原著を『統計学』と訳して出版した(原著は1856年, パリで出版)。その後, 明治10年代になって, 学問用語としての「統計学」は市民権を得るようになり, 20年代になると実務の面でも理論の面でも, ほぼ完全にこの概念が定着した。
統計学という概念の定着に至るまでには, 幾多の紆余曲折があった。本稿はその経緯を詳しく論じている。結論と同様に, この経緯が興味を惹く。以下, 筆者の展開の要点である。
統計学の日本への橋渡しをしたのは, 西周, 津田真道である。ふたりは文久3年(1863年)オランダに留学し, 西欧の社会科学系統の学問をもちかえった。ふたりはライデン大学教授シモン・フィセリングのもとで, これらの学問を学んだ。西はフィセリングの当該講義科目を「政表学」と訳し, この同じ講義ノートを津田は「表記堤綱」と訳した(明治7年[1874年])。明治6年(1873年)に杉亭二は, 二人のもちかえったフィセリングの講義ノートをもとに, 上司に意見書を上呈したが, その際には「形勢学論」という用語が使われた。なお津田は「表記堤綱」で, 「表記」「政表」「統紀」を使い分けているとのことである。「政表」は統計表の意味で, 「統紀」は当時の『英華辞典』掲載のstatistics の訳語であったらしい。しかし, 当時, 杉はstatistics の訳語に「政表」をあて, 「表記」を統計表と訳していた。要はこの頃, 「表記」「政表」「統紀」, あるいはいまで言う「統計」「統計学」「統計表」といった用語は互いにオーバーラップし, 概念的区別が定着していなかった。ただし, 津田が「政表」の訳語を採用しなかったのは, 自然統計を意識したからで, 社会現象, 国家現象を意味する「政」の字のもつ含意に違和感があったためである。
ところで, 既述の箕作がモロー・ド・ジョンネの著作に「統計学」の名称を充てたのは, ジョンネの考え方がフィセリングのそれと異なるとの意識があったからである。訳語を付けるときには, 当然, もともとの用語が意味する内容との対応が考慮されるはずである。フィセリングの statistics は, 古いドイツ国状学の伝統を継承するものであった。しかし, ジョンネになると, statistics はその対象領域が自然と社会の双方を含むものとなり, それらの数量的表現を第一義とした。箕作には,そうした違いを, 統計学の用語にこめた。
しかし, この頃, フィセリングやジョンネの旧統計学に次いで日本に入ってきたハウスホーファの教程(方法科学としての統計学と実質科学としての統計学の折衷的形態)に傾倒した杉亭二はstatisticsに「統計学」の訳をつけることに反対した。杉にあってはこの当時には, 「政表」も「形勢学」もドイツ国状学的語感をもつとして, 訳語として採用することを拒まれたが, かといって「統計」という用語も学問としてのstatisticsにはあまりに狭小平俗であるとして取り上げられなかった。杉はやむをえずstatisticsをそのままスタティスティックスとした(あるいは自ら独自の漢字を作ってこれに充てたが, この論稿にその指摘はない)。
実務の分野で「統計」の用語が使われたのは, 明治4年(1871年)7月, 廃藩置県にともなう政府の改革で, 大蔵省に統計司が設けられた(建議は伊藤博文が統計寮という用語で行った)。その内容はアメリカの行政機構をまねたものであった。重要なことは, そこで「統計」という用語は「統計する」という動詞形とともに使われたことである。「統計する」の意味するところは「計算する」という行政活動とほぼ同義で, 「合計」という語義をこえ, 事物の総額を類別合算し, かつその数量を表出するという意味までもっていた。もっとも, そこには統計学的概念をめぐる上記の意味内容は含まれていない。
筆者はこのような整理を与えた後に, 明治初期の「統計」の語義を考察するさいに, さらに(1)統計資料の収集方式つまり調査論の視点と, (2)統計学の学問的性格をめぐる考え方の視点が必要であるとして, 両面から補論的にその検討と考察を行っている。
前者では, 当時の官庁統計のめざしていたものが表式調査をもとにした数量的表示主義をとっていて, 点数調査論的立場をとりえなかったことが指摘されている。実地の統計調査に重きをおく調査論の実現には, 杉亭二が明治12年(1879年)に行った「甲斐国現在人別調」まで, また実査面で公式に統計報告という用語があたえられたのはさらに時間を経た明治27年(1894年)まで待たなければならなかった。
後者では, 森鴎外が明治20年以降, 統計学の訳語論争にくわわり(杉亭二らのスタティスティックスという原語採用論を真っ向から批判), 従来型の社会統計学的見解, あるいはそれを社会諸現象の法則を追及する実質科学的見解に批判をくわえ, 統計学を論理学と同様に, どのような学問にも活用できる方法の科学と位置づけた。筆者はこの経緯を以下のようにまとめている, 「統計訳語にかんする論争は, ヨーロッパでたたかわされた統計学の学問的性格をめぐる論争の日本型縮刷版であって, 明治初期の人びとの統計思想の発展途上における, いわば必然的経過であったといわねばならない。行政とは直接なんの関係もない一医学士森が, この論争を通して, 統計学の性格規定からいっさいの国状学派的思想を切りすてたことは, これまた必然的であったといえる」と(p.22)。
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