社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

大屋祐雪「私と統計学」『下関大学論集』第41巻第3号, 1998年1月

2016-10-06 10:35:12 | 2.統計学の対象・方法・課題
大屋祐雪「私と統計学」『下関大学論集』第41巻第3号, 1998年1月

社会統計学者である筆者の最終講義のための草稿。退職にさいして書かれたので, 自らの研究人生での出会い, 自らの学説の紹介が中心的内容である。
筆者は1947年, 九州大学法文学部経済学科入学, 1951年3月卒業。統計学の授業は, 恩師だった高橋正雄で, テキストは有沢広己『統計学要論(一)』(1946年, 明善社), 森田優三『統計概論』(1949年, 日本評論社)だったという。他に北川敏男のランダムサンプリング論, 田中定の典型分析実態調査論が筆者の心をとらえ, それらが統計学という学問の出発点だったと回顧している。

その後, 筆者は1951年4月に大学院特別研究生となり, 高橋正雄の指導のもとで統計学専攻の研究生活に入った。日本統計学会, 経済統計研究会に入会。とくに後者では, 多くの社会統計学の研究者のなかで切磋琢磨したようである。大学院の5年を終わるときに, 「社会体制と統計」という幻の研究論文を書きあげたが, 指導教授にもっとしっかりした論文を書くように言われ, 「昭和29年職種別等賃金実態調査について」を発表した(『経済学研究』[九州大学]第21巻第3号, 1956年)。筆者は社会科学としての統計学で独自の理論をもっていた。それは, この分野の2つの潮流, 普遍科学方法論説とも, 社会科学方法論説とも異なるものであった。

 その主張は, 次のようである。社会科学は社会現象に関する科学なので, 社会的な存在に関心がなくてはならないのは当然である。社会的に重要な役割を演じている制度や行為によって示される問題状況を直視しなければならない。端的に言えば, 統計学(とくに社会統計学)は統計的実践, 統計的社会関係を対象としなければならない。このような観点から見ると, 既存の普遍科学方法論説にも, 社会科学方法論説にも, 問題がある。筆者は現行の統計実践と統計的社会関係を分析し, 理論的総括を課題とすることで, 「統計学=統計的方法の学」という定説の呪縛を断ち切った, と書いている。

 筆者はさらに統計学を「客観=批判の視座」と「主体=実践の視座」の2つの立場からアプローチする。前者は「経済的な社会構造の発展を自然史的過程として理解する立場」, 後者は「個人を社会的諸関係に責任あるものとしようとする立場」である(それらはマルクスの『資本論』から得た方法論であるという)。筆者自身の定義を借りれば, 「主体=実践の視座」とは, 対象への働きかけ, あるいはその方法や手段を, 自分が持たなければならない理論ないしは技術と意識して, その改善, 発達, あるいはそれらに役立つ新しい理論や技術の開発を志向する主体的なものの見方, 考え方である。これに対して「客観=批判の視座」とは, 社会で行われている統計実践を, ある主体が, ある目的のために, ある種の統計方法を用いて, 統計的社会関係のなかで行う一種の社会的行為とみて, そのような統計実践と統計的社会関係をほかの社会現象と同じ位相の社会的過程として考察することである。(以上, p.16)

 統計学におけるこの2つの視座の転換の重要性を, 筆者は戦後の統計制度の変遷のなかに生じてきた矛盾が『統計行政の新中・長期構想』(1995年)によって, 解決されていったことに見ている。科学的な批判は矛盾を客観の視座(それは批判の視座である)から把握し, 次に主体の視座に座りなおして, 現行制度のもとで改変可能な許容範囲の統計行政の見直し, 実行可能な政策課題の提示をする, 社会科学としての統計学の意義はこのプロセスにおいて真の役割を果たした。

筆者は最後に大学での「3つの出会い」, すなわち「師, 友, 本との出会い」の大切さを強調して, 最終講義の結びとしている。それは次代を担う学生諸君へのメッセージであるとともに, 自らの研究人生で得た生き方の要諦としての哲学であった。

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