社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

8 確率基礎論

2016-12-31 18:21:22 | 社会統計学の伝統とその継承
8-1 その背景と論点
 数理統計学(推計学)は,その原理を大数法則にもとめる。大数法則とは,ある集団において特定の単一標識があらわれる度数の比率がその集団が大きくなるにつれ,ある限られた範囲内の値に,極限値に接近するという数理である。数量的データの集積のあるところに認められるこうした数理的規則性,これが大数法則である。これらのデータの集積について,事象のもつ質はさしあたり問われない。自然現象のデータであっても,社会現象のそれでも,それらの質が捨象され,データとして一括され,そこに定められる数理がこの法則である。

 こうした数理統計学(推計学)の在り方には,ふるくはフランスに起源をもつ確率論に淵源があり,またイギリスの政治算術の影響も認めることができる。

 戦後の日本で一時盛んに持ち上げられた数理統計学(推計学)は,その理論的基礎に確率論があった。推計学がどのように構想されたのかを知るには,この分野でのいくつかの基本テキストをめくると明らかである。
例えば北川敏男『統計学の認識』(1947年)の目次は,以下のとおりである 。「【第1篇】統計学に於ける法則定立,[第1章]統計学の黎明,[第2章]古典確率論の構成,[第3章]統計万能時代の起伏」「【第2編】統計学に於ける記述と理論,[第4章]古典統計力学の理念,[第5章]記述統計学の文法,[第6章]経済統計学の計量」「【第3編】実験統計学の基盤,[第7章]実験の計画,[第8章]大量生産の管理,[第9章]社会統計の認識」「【第4編】近代統計学の構造,[第10章]確率論の公理,[第11章]近代統計数学の展開,[第12章]実験統計学の方法」「【第5篇】統計学の過去現在未来,[第13章]統計学の過去,[第14章]統計的認識の段階,[第15章]統計学の将来」。

また,増山元三郎校訂『推計学への道』(1950年)は,次のような構成をとっている 。「[第0章]推計学のはじめに」「[第1章]推計学の生まれるまで」「[第2章]確率論の歩み」「[第3章]統計学から推計学へ」「[第4章]想定の理論」「[第5章]推定の理論」「[第6章]検定の理論」「[第7章]計画の理論」「[第8章]標本の抽出」「参考文献と付録」。

みられるように,推計学を推奨するこれら2つのテキストでは,確率論が重要な位置を占めている。したがって,推計学の基本性格を理解するには,あるいはその科学としての存立基盤を検証するには,確率論とはどのようなものであり,数学の一分野であったこの理論における種々の手法がどの程度自然科学や社会科学に適用可能なのかを批判的に解明しなければならない。社会科学者による推計学批判の課題がその理論的基礎である確率論の意義と限界の点検に向かったことは,自然である。しかし,一口に確率論と言っても,この理論の捉え方は論者によって一様でない。大きくは確率現象を客観的基準で測る頻度説的考え方とそれを主観的基準で判断する考え方とに分かれる。確率論の歴史的展開を跡づけることは,それだけで大著を要する 。また,数理統計学プロパーの分野で研究にたずさわる人々の間に,確率基礎論確の系譜にふれた業績はほとんど無い。社会統計学分野での成果の要約的紹介を課題としている本節で,わたしは以下に,伊藤陽一「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」 ,𠮷田忠「統計学と機械的唯物論[Ⅰ]-古典派確率論と機械的確率論-」 ,是永純弘「確率論の基礎概念について-R. v. Miesesの確率論-」 ,杉森滉一「ヴェンの確率基礎論」 ,伊藤陽一「ケインズの確率論について-基礎理論の紹介を中心に-」 を順に取り上げて,紹介する。

8-2 確率論の系譜
(1)確率論の二潮流-伊藤論文から-
伊藤「確率に関する諸見解について-確率主義批判のために-」は,確率論の系譜を簡明に整理している。現代の確率論が古典的確率論(パスカル[1623-62], フェルマ[1601-65], ベルヌーイ[1654-1705])から出発したことはよく知られたところであるが, この系譜は一方で頻度説(J.ヴェン[1834-1923], R.v.ミーゼス[1883-1953])へ, 他方で確率数理(А.Н.コルモゴロフ[1903-87])へと継承された。これらの流れと併行して, 帰納論との関連でイギリス経験哲学を受け継ぐ流れがあり, J.M.ケインズ(1883-1946)の合理的信頼度説に繋がる。この延長線上で今日の主要見解は, 頻度説(ミーゼス), 測度論(公理主義)説(コルモゴロフ), 合理的信頼度説(ケインズ, R.カルナップ[1891-1970]), 主観説(L.J.サベージ[1917-71])とに分かれる。頻度説は, 確率を現象系列の事象の相対頻度の極限値と規定する。この現象系列は, コレクティフ(確率が成立する集団現象)と呼ばれる。頻度説はこのコレクティフに確率をみながら, 頻度が与えられたときにはじめてそれを確率とみなし, その様な頻度をもたらす事象自体に確率をみない。

 測度論(公理主義)説は, 集合論的確率論, 近代確率論とも呼ばれ, ロシア=ソ連の確率論研究(ペテルブルク学派[Ц.Л.チェビシェフ[1821-94], А.А.マルコフ[1856-1922]], モスクワ学派[А.Я.ヒンチン[1894-1959], А.Н.コルモゴロフ])の形成とともにある。この系譜にたつ確率論の要諦は, 大数法則の証明と, これを含めた簡潔な公理系の樹立である。後のR.A.フィッシャー(1890-1962),J.ネイマン(1894-1981),E.S.ピアソン(1895-1980)の統計理論は,コルモゴロフの公理主義的確率論に依拠して構成された。フィッシャーとネイマンの統計学は,統計的仮説検定の理解で対立する関係にあったが,頻度論的確率論を基盤にしていた点で両者は共通していた。

 合理的信頼度説では, 確率論(蓋然性論)は論理学の一部である。その代表者であるケインズによれば, 獲得された知識(一定の前提たる知識から帰結される結論)の多くは確実なものではない, そこでその確実の程度に応じて結論命題に確率が付与される。ケインズ以降, O.クープマン(1900-81)はケインズの公理設定とその展開が不明確として, 新たな公理を設け, 数学的厳密化をはかった。また, R.カルナップは, 前提と結論の結びつきを各人の直接的知識とするケインズの考え方が論理学的に不徹底として認めず, 前提の先験的設定, そこからの結論の導出をはかった。
 サベージによって代表される主観説は, 自らの確率を個人的確率と称する。主観説は, 確率を命題についての信頼度ととらえる点で合理的信頼度説に通ずるが, 後者の合理的信頼度説では確率が前提と結論の間の論理的規則によって導かれ, この規則は誰にとっても同一の拘束力をもつと考えられるのに対し, 前者の主観説ではそこに個人的主観がもちこまれ, 確率が誰にとっても同じではない。確率が何によって与えられるかの分析が問題であるのに, 主観説ではこれを個人的主観に依ると唱えられる。

(2)確率論の思想的背景-吉田論文から-  
確率論の展開とその思想的背景を詳述したものが,𠮷田「統計学と機械的唯物論[Ⅰ]-古典派確率論と機械的確率論-」である。この論文に依拠し,確率論の成立と展開の経緯をおさえると,概略,以下のようである。

 確率論の基礎は,シュバリエ・ド・メレによる賭け事の問題とそれに関連する諸問題について交わされたB.パスカルとP.フェルマの往復書簡によって固められた 。以来,確率論の発展は,C.ホイヘンス(1629-1695),J.ベルヌーイ,A.ド・モアヴル(1667-1754)によって担われ,P.S.ラプラス(1749-1827)がこれを体系化した。古典的確率論の確立である。19世紀初頭のことである。

𠮷田によれば,確率論のこの流れには,大陸派合理主義がその思想的背景として存在した。この思想は数学化された自然を前提とし,感覚をこえた知性の「数学(幾何学)的推論」によって,その認識可能性を唱える。その精神は偶然現象のなかに数学的方法に規定された構造を想定することで,その認識可能性を確信するというものであった。ラプラスは,フランス唯物論哲学者の世界観を基礎に,確率論を体系化した。

 パスカル=フェルマからド・モアヴルに至る確率論の発展の経緯を以上のように整理し,𠮷田は次に数学的(または先験的)確率と統計的(または経験的)確率との関係を考察する。前者は大陸で誕生し,サイコロやカードなどによるギャンブルを対象とし(事前に確率を計算できる),後者はイングランドで発祥し,出生性比のような人口の規則性を対象とした(社会現象)。ベルヌーイはその確率論において大数法則の原理を社会現象に適用し,ド・モアヴルは人口現象を含めたこの世のあらゆる偶然現象の背後に潜む規則性をもとめようと試みた。確率論を武器に自然・社会現象の全ての偶然現象を合理的に把握したいという欲求は,現実とは無関係な数学的構造を擬制し,それにもとづいて確率論を適用する方向に向かう。その到達点は,ラプラスが完成させた古典的確率論の世界であった。

ラプラスは『確率の解析論』(1812年)で,それまでの確率や統計の理論を集大成し,自身の創案になる積率母関数を用い,確率に関する種々の問題に初めて解答を与え,体系化した。とりわけ,正規分布の体系化に取り組み,スターリングの公式を使ってそれを二項分布から導出した。重要なのは,彼が与えた確率の定義である。ラプラスにあっては,偶然現象(偶然現象一般と確率現象の区別がない)の結果として起きる2つのものの片方が起こることが他方のそれよりも確からしいと確信させる理由が何もなければ,二つの場合は「同様に確からしい」として,これを確率の定義にもちこんだ(ライプニッツの充分理由律に依拠)。ライプニッツはその充分理由律に,あるものを認識したというときの「理由」とあるものの存在そのものを規定する「原因」とを含めたが,この考え方を継承したラプラスは,両者を混同して「理由」の欠如から「原因」の欠如を導こうとしていたことになる。すなわち等可能でないと確信する理由が見出せなければ,それは等可能であるとしてよい,とした。ラプラスの「不充分理由の原理」がこれである。

 ところでイギリス経験論のもとにあった帰納法は,演繹論理のもつ論理的必然性をもたないといわれる。しかし,ラプラスはベイズ(1702-61)の定理を用いて,帰納推理の不確からしさに「確率」の値を与えようと試みた。𠮷田がこの試みに言及したもうひとつの理由は,確率を純粋に主観的なものとみなす主観確率の立場から,その復活を意図する傾向が今日の数理統計学にみられるからである。𠮷田はベイズの定理の丁寧で簡明な数学的解説を行っているが,結論部分で次のように述べている。「その基本概念である確率を経験世界に引き戻して考えると,ベイズの定理は,確率現象という一定の抽象化が加えられた事実においてそれと同次元の抽象的事実に関する特殊な推理を与えているにすぎない。そこでは『特殊な結果』から『特殊な原因』が確率的推論という特殊な形で判断される。ところがこの定義が数学的には,経験的内容を捨象した確率や確率変数にもとづいて証明されるため,あらゆる偶然現象において『特殊な結果』から『一般的原因』を推論するのに使えるような外観をもつ。しかし,それは外観のみで,一般化された形で経験世界とのかかわりあいを与えると必ずそこに論理的破綻があらわれる」と 。ベイズの定理は単なる数学上のそれであり,帰納法に代替するものではない 。

8-3 頻度説的確率論-R.v.ミーゼスの場合-
 わたしは,頻度説による客観的確率論に関心がある。是永純弘「確率論の基礎概念について-R. v. Miesesの確率論-」は,その頻度説にたつR. v.ミーゼスの確率基礎論の批判的検討である。以下に,この論文の内容を紹介する。是永はミーゼスの確率論をコレクティフ概念の検討に重きをおいて検証し,この概念の発見が数学の一分野としての確率論の基礎,その適用範囲,客観的実在との関連解明の糸口を与えたと評価した(そのマッハ主義的限界を指摘しながら) 。
是永が参照したミーゼスのテキストは,Wahrscheinlichkeit, Statistik und Wahrheit, Dritte, Neubearb, Aufl., Wien,1951である。

 ミーゼスは確率概念を,集団現象または反復事象の一標識が無限回の試行中に現れる相対頻度の極限値,と規定する。この頻度説的確率論を支持する者は少ない。理由はそれが前提とする数学的意味づけの難しさ,あるいはその基礎にあるマッハ主義的認識論の観念性に由来する。是永はしかし,ミーゼスの確率論,とくにその基礎論を意味のないものと一蹴することはできない,と言う。確率とは客観的現実のどのような側面を反映する概念なのかという問題は,確率論の基礎づけにはもちろん,自然あるいは社会の諸現象にそれを適用する際には,当然考えておかなければならない課題で,ミーゼスはそのことを念頭に議論を展開しているからである。

是永論文は「確率概念の基礎」と「ミーゼス確率論の意義と限界」の2つの節で構成されている。前者ではミーゼスの確率概念の定義,それと古典的定義との相違,ミーゼスの議論への批判に対する彼自身の反論を紹介している。後者ではミーゼスによる確率計算の適用可能領域の検討である。    

ミーゼスの確率の定義は上記のようであるが,その対象として考えられたのは次の三種に限定される。第一は賭事や運任せの遊戯,第二は保険業務,人口現象などの社会統計,第三は統計物理現象である。それらにみられる共通性は,多数個体の一団である集団現象であること,何回も反復される同種または一個の個体の反復現象であることである。この集団現象あるいは反復現象は,ミーゼスによれば,確率が成立する不可欠の現実的前提である。

 確率が成立する「第一の前提」であるこれらの集団現象または反復現象を総称して,ミーゼスはコレクティフと名付けた。また,ミーゼス自身の言葉によれば,コレクティフとは各個体の観察メルクマールの相対頻度が一定の極限値に近づくだろうとの推定が正しいと思われるような集団現象または反復現象,要するに個別的観察の長い系列としての客観的性質(物理的性質)である。ここで重要なのは,この系列が規則性をもたないことである。すなわち,系列のなかのどの一部分を任意に取り出しても,この取り出し方が相対頻度の極限値を変えない性質つまり「無規則性」をもつことが確率の成立する「第二の前提」である。

 上記の2要件を満たすミーゼスの確率は,「確率とは事例の総数で好都合な事例の数を割った比である」(ラプラスによって定式化された古典確率)とか,「確率とは集合の数学的頻度である」(通説)とは一線を画する。

是永はここからラプラス流の確率の古典的解釈とコルモゴロフ流の現代的解釈の検証に移る。前者に関しては,古典的定義が前提とする「均等可能」の仮定が現実には存在しないこと,「主観的確率概念」を認識論的背景にもつことの2点で問題があるという。主観説の奇妙な考え方は,「諸事例が等確率だと考えられる(・・・・・)のは,諸事例が等確率であるということに等しい。理由は確率が主観的なものに他ならぬからだ」という言明に象徴される。古典的解釈はまた大数法則の存在にすがるが,これも失敗の原因である。なぜなら,ポアソンの定理と通称される2つの命題の混同の上に成り立ついわゆる大数の第一法則と,ベイズの定理と呼ばれる大数の第二法則は,コレクティフを前提とする頻度説で定義された確率概念を基礎におかないかぎり内容のない命題になるからである。

他方,後者,すなわち確率は集合の測度であるとするコルモゴロフによって代表される見解に関しても,ミーゼスは自らの頻度説を堅持する。ミーゼスによれば,コルモゴロフの研究は,確率計算という純数学的側面だけに注意をはらった基礎理論で,彼自身,公理系が不完全なことを理由に確率計算の諸問題については種々の確率域を考えることができるとし,公理論的確率論の限界を示している。集合論は数学的補助手段として確率計算を援けるものにすぎない。是永は以上の確認をしたうえで,さらにミーゼスが行った彼のいわゆるコレクティフの二要件に対する諸批判への反論を補足的に紹介し,ミーゼスの確率概念の規定の妥当性を追認している。

 「ミーゼス確率論の意義と限界」で,是永は確率が客観的実在のいかなる側面を反映しているかという点に関して,ミーゼス的解答が確率計算の応用領域でどのように貫かれているかを点検している。対象となる応用領域は,統計学(出生・死亡などの人口現象,婚姻・自殺・所得などの社会現象,遺伝・生物体器官の測定,薬剤・療法の効果判定,大量生産),誤差論(ガウスの誤差法則),統計物理学(存在する気体分子,ブラウン粒子など)の領域である。要するにミーゼスにあっては,確率が適用できるかどうかは,相対的頻度の極限値をもち,無規則的であるという二要件を満足するコレクティフがそこに存在することを観察できること,またはそう仮定して確率計算を行った結果が観察結果と一致するかどうかを問わず,そうした集団のコレクティフ性が客観的存在であると確認できることが重要なのである。

 問題はミーゼスのいわゆる「原系列のコレクティフへの還元」である。原系列を加工してこれをコレクティフ系列とすることは,もともとコレクティフ系列たりえないものを一定の目的でそれを構成することである。そこで改めてこの構成された系列の当否が問題となる。実際にはミーゼスのコレクティフ概念では存在たるコレクティフと意識的に構成されたコレクティフとの間に明確な境界線が引かれていない。ミーゼスの最大の難点であり,彼が別の箇所で確率基礎論の帰結を因果律の否定,確率法則による代位に見出していることとも関係がある。「この点はすでにミーゼスの理論の認識論的背景がマッハ主義にあり,そのため彼の確率論の全命題は経験・試行から出発し,それ以前の対象の性質そのものへ認識が全く及んでいないこと,したがってミーゼスのいう確率の客観性ははなはだ疑わしくなるということ,等の指摘をつうじて,ミーゼスに対する認識論的批判の核心点になっている」 。そうは言ってもミーゼスの確率基礎論の意義は,少しも損なわれるものではない。マッハ主義的認識論との決別はあと一歩であり,存在としてのコレクティフの確認にも迫っていた。ミーゼスが到達した限度までの経験的事実の整理は,確率の客観性の認識への大きな前進であると言える。

 課題はある。行論との関係に限定すれば,要素間の相互作用が決定論的意味をもつ多標識集団としての社会集団は,そのままミーゼスのいわゆるコレクティフになりえないので,確率論の社会集団への適用は,コレクティフ仮定と現実の集団との照応関係の考察から始めて,適用条件の子細な検討に至るまで,慎重になされなければならないということである。

8-4 頻度説的確率論-J.ヴェンの場合-
 頻度説的視点から確率基礎論を展開しミーゼスに影響を与えた論者にJ.ヴェンがいる。杉森滉一「ヴェンの確率基礎論」によってヴェンの確率論を紹介する 。 

 杉森はヴェンの確率基礎論をThe Logic of chance (1866)の第3版 (1888) とThe Principles of Empirical or Inductive Logic (1889)にもとづいて要約し,その意義を論じている 。ヴェンは確率論史のなかでは頻度説の代表論者の一人で,一般的な理解では確率を相対頻度の極限値と規定しただけのように扱われることが多いが,果たしてそうなのかというのが筆者の問題意識である。この問題意識のもとでヴェンにおける頻度説の形態はどのようなものであったか,それが頻度説,確率基礎論の歴史にいかなる意義をもったのか,これらが本稿の課題である。

 既に述べたように頻度説の立場にたったミーゼスは,一つの属性に関して①相対頻度の極限値と②分布の無規則性とを備えた集団現象をコレクティフと規定し,その説明原理を確率論にもとめた。この説は二面性をもつ。一つは確率数理に一種の形式性を認め,それとは別に確率数理がよってたつ経験的対象の規定を強調したことである。コレクティフが抽象されることで,特定の物質の運動形態は実質的に規定され,確率論の適用対象はそこに限定された。しかし,このことは他面で現象,経験を絶対化する認識論上の立場にたち,コレクティフが存在するための客観的構造,原因機構の究明がそれによって遮断された。頻度説の経験主義的側面を払拭し,確率基礎論のさらなる展開が必要な所以であるが,そのためには頻度説のもつ意味が明らかにされなければならない。これはミーゼスの学説がどのような系譜を経て出現したかを究明することでもある。ヴェンをとりあげる理由はこの点にあり,ヴェンの学説はそれにふさわしい多面的内容を含んでいるという。

 ヴェンは確率の基礎概念が系列すなわち事象または事物の連続ないし集合体であるとする。確率論の対象は系列一般ではなく,特定の性質(個別的不規則性と総体的規則性)をもった系列である。この系列における個別的不規則性と総体的規則性は,「事象系列」とヴェンが名付けたもので,系列の構成要素に部分的に共通するある属性が究極的に事例全体のある割合におちつくことを差して言う。このような事象系列には,①運任せゲームの結果,②同種多数の観察結果,③同一物の多数測定結果の三種類がある。これらのうち,①のみが確率論の理想的な対象で,②③は近似的な対象である。

 ヴェンはこの説を,確率の内容を主観における知識ないし心理的信頼であるとする主観的諸説に対立させている。ヴェンが強調するのは,推理の正当性の最終的根拠が経験にあり,経験と切断して信頼を云々することの無意味さである。ヴェンにあっては,主観に知識状態に確率を依存させるのは誤りであり,主観の側に確率を考えるとしても,主観をしてその様に思い込ませる経験の側における根拠が何かを究明しなければならない。確率の意味を問うには経験的世界との対応ということが根本問題であり,そのために頻度が媒介になる。ヴェン確率基礎論の意義は,経験世界と確率数理との対応をつけようとし,現象世界から事象系列を確率論の対象として抽出し,特定の客観的事物に確率を認め,そのような事物に特徴的な構造を明らかにする道筋をつけたことである。この方向は,経験主義に立脚するが事象系列をより詳細に規定しコレクティフを導出したミーゼスに継承される。

 ヴェンの確率基礎論が提起したものは,これだけではない。確率が事象系列全体に言われるもので,それの主観による受け取り方が信頼であるという上記の議論をさらに一般化し,様相(modality) をも頻度=確率の観点から解釈する。様相は,判断について,その確実性による分類である。ヴェンは様相の本質が信頼ないし確信の程度を区別することにあるとし,それを総て頻度に還元した。

 またヴェンは確率論の推理機能を一般的に問題にし,帰納法との関係を論じている。ヴェンによれば,経験的世界から事象系列を抽出し,そのなかで相対頻度を規定するのは貢納法の課題である。事象系列にみられる統計的規則性は,帰納法によって得られる。確率論はそれを受け,爾後の推理を担う。両方法は協働的である。推理の過程は,事物についての確実な知識の獲得が目的である。この過程は,①単なる推定,②仮説ないし理論,③事実三段階がある。確率が担うのは,②である。確率論による認識は,材料として統計的規則性しか得られない場合の不完全な中間的認識である。

 杉森は最後にヴェンの学説上の継承関係を読み解く。まずミーゼスとの関係,続いてライヘンバッハ,ケインズとの関係である。ヴェンは経験論者で,特定の物質構造としての事象系列ならびにその属性としての確率という意識は希薄であるため,専ら現象的に頻度の極限値イコール確率という規定の強調にとどまった。このため現象が確率現象であるか否かがどうしてわかるのか,それを決定する徴証が何かという問題に回答を用意できなった。こうした経験主義に固有の宿弊は,ミーゼスにも特徴的であった。

 事項で紹介するケインズとの関係について,ヴェンは確率を伝統的な帰納法の枠のなかに位置づけたのに対し,ケインズはヴェンの確率基礎論が狭すぎるとして(統計的頻度に還元できない probable なケースがあることを強調),帰納法そのものを基礎づける新たな確率論の構築に向かった。ヴェンは方法として確率論を論じることで,判断の確率をも頻度で測ろうとしたが,ケインズはそれが頻度とは別のより一般的論理的関係図式に包摂されること,そしてこの図式が帰納法の不確実性の処理を含むことを説いた。また,ヴェンは事象の確率,その事象について思考する主観における確率,一般的認識の信頼性としての確率という順序で問題をとらえ,それらをすべて頻度に還元したが,このことを考えると,ヴェンはケインズが記号論理学に触発され,命題間の論理的関係について確率を考えた直前の地点まで基礎論を展開していたと言える。

 以上,確率概念の客観性に重きをおき頻度説に立脚したミーゼスとヴェンの所説を是永と杉森の論文を紹介して示したが,この系譜と対極にある主観的確率論をとったケインズの見解について述べておきたい。留意しなければならないのは,その確率論の内容が,以下で記すように必ずしも数量的に測ることができるものと考えられていないことである。この点を重視して,ケインズの確率論は「蓋然性論」として語られることが多く,またそうしたほうが誤解が生じないと思われるが,伊藤論文の要約にあたっては,執筆者の用語の使い方にそくしてケインズの確率論として叙述する。

8-5 J.M.ケインズの確率論
 確率論の信頼度説的解釈を集大成したケインズの理論の基礎的部分を紹介, 検討した論文が伊藤陽一「ケインズの確率論について-基礎理論の紹介を中心に-」である 。伊藤の案内にしたがって, ケインズ確率論の紹介を行う。

 ケインズの『確率論(蓋然性論)』(Treatise on Probability)は, 1921年に公刊されている。その編別構成は, 次のとおりである。Ⅰ編:基礎的諸概念, Ⅱ編:基礎的諸定理, Ⅲ編:機能と類比, Ⅳ編:確率の若干の哲学的応用, Ⅴ編:統計的推論の基礎。伊藤は上記論文で主として, Ⅰ編, Ⅱ編, Ⅲ編までを, 解説している。
ケインズは確率論を論理学の一部とみる。われわれの知識は, 一部分は直接的に, 一部分は論証によって間接的に獲得される。形而上学, 科学において依拠するほとんどの論証は, その結論が決定的でなく, 確からしさに何らかのウェイトを付与したものである。従来の論理学は結論に疑問をのこす論証を扱わなかったが, ケインズはこれを論理学の一部としての確率論の課題とした。

 ケインズによれば, 確率は間接的知識が獲得される過程の論理であり, 前提となる知識が与えられたときに, この知識によって結論が付与される合理的信頼度である。ここでは確率が事象ではなく, 命題の論理的な関係に与えられている。この合理的信念の程度としての確率は, 主観的側面と客観的側面をもつ。

 合理的信念の程度としての確率はまた, 必ずしも数的に測定可能なわけではない。ケインズは確率について, 量的に測定可能な場合, 大小の比較の順序づけだけが可能な場合, それらが不可能な場合, があるとする。ケインズはごく限られた場合に, すなわち無差別性原理(不充分理由原理の修正されたもの)が適用可能な場合に, 数値が付与され, 多くの場合には確率間の大小比較が行いうるだけで, 比較が不可能とした。

 数学的確率論は, 等しさの承認を不充分理由原理にもとづいて行った。ケインズはこの不充分理由原理を無差別性原理と呼び換えたが, この原理は多くの矛盾をもたらすことをよく知っていた。したがって, ケインズはこの無差別性原理が適切性の判断に依拠していることを明らかにし, 資料が選択肢に対して対称的であるべきこと, また適切性を判断するときに選択肢の意味と形とが無視されてはならないことを指摘し, 原理のより正しい適用をはかろうとした。

 伊藤は概略以上のように, ケインズの合理的信頼度説を, これに関わる基本命題(知識論との関係, 確率の量的性格, 比較のための原理, 無差別性原理の再構成, 数値測定の方法など)を論ずるなかで確認している。ケインズはこれらをふまえ, さらに確率計算の公理系, 帰納と類比, 偶然論, 統計的推論について論じている。伊藤は, これらのうち, 確率計算の公理系, 帰納と類比について詳しい解説を行っている。偶然論, 統計的推論に関しては, 次の要約を与えている, 「ケインズは, 偶然を我々の有する情報との関連においてとらえ, 偶然を主観的偶然と客観的偶然とに分ける。事象についての情報が二つの事象間に関連を与えないとき, それら二つの事象は主観的意味で偶然とされ, 客観的偶然とは, この主観的偶然の特殊な場合として位置づけられて, 完全な知識, 情報すらも偶然性を変化させないときにその偶然性は客観的偶然性と考えられるべきとされる。次に統計的推論に関しては, ・・・普遍的帰納は一般化においては, 一般化された結論は例外を許さなかったのに対し, 統計的帰納は一般化にあたって事例のいくつかに反することを許すもの, 従って論じられる単位は単一の事例ではなくて, 一組あるいは一系列であるという特徴づけを行う。そしてここでも, 確率はあくまで資料との関連においてとらえられる(従って試行の経験によって次々と予測確率が変化する)という立場から, 従来の大数法則論, 統計的推論を検討するのである」と 。

 「確率論」を執筆した頃のケインズには, 帰納論理を発見の論理として位置づける余地があり, それを放棄し検証の論理に焼き直す新実証主義的見地へ転落する直前でふみとどまっていた。確かに, 概念の形成から一般的知識へ至る認識過程の分析は行われず, 一般的知識がいかに形成されるかという問題意識は乏しかった。しかし, ケインズは帰納的一般化のさいに, その確率を高める要因の分析を行い, 発見の論理を否定するヒュームの問題提起に対し, 制限付きの独立変異の仮説を提出して, 帰納原理を維持しようとした。

 また, 科学的知識の成立における帰納法の位置づけでは, 帰納は諸々の論理的方法から切り離され, 量的評価の可能性が科学的知識の現実的な形成過程から乖離し, 帰納法を独立させ, これを形式化してとらえたフシがある。
帰納的知識の確からしさの量的評価を問題にするのであれば, 前提から結論にいたる, 現象的知識から科学的知識にいたる認識過程の構造, 思惟のプロセス, そこでの知識の蓋然性を規定する諸契機を明らかにすることが先ず前提作業とされるべきであって, 安易な量的評価と, それにもとづく計算体系の樹立を急ぐことは, 数理形式主義的偏向であると, 伊藤は結論付けている 。

8-6 確率論主義の克服
 確率論主義とは,数学の一分野である確率論を,社会―自然現象の分析用具として普遍的に適用可能とし,偶然が世界を支配するとみる価値観からこの分析を支持する考え方である。この考え方によれば,統計値を含めて一団の数値(集合)が与えられれば, ただちにそこに大数法則があてはまるものと決めこみ, 確率論を適用し, 確率計算を行い, その結果によって一定の規則性の安定度を確率で表現する。確率論主義といわれるものが, これである。

 確率論主義の本質は, 是永純弘によれば, 自然および社会の諸現象に関する数値(観測値や統計値)の一団が与えられたとき, それらの研究対象を固有の研究方法で分析するのではなく, これらを抽象数の一団とみなし, そこに確率論を適用し, 分析することである。換言すれば, 自然科学, 社会科学を問わず, それらの固有の対象を明らかにするために不可欠な独自の研究方法にたよらず, 確率論だけで問題に接近しようとする姿勢が, これである 。   

 そもそも確率とは何なのか。それは物質の客観的な運動形態のいかなる側面を反映したものなのか。具体的な事実を特徴づけるために確率概念を適用したとき, それはいったいどのような実質的意味をもつのだろうか。

 確率論がその理論的帰結として予定する大数法則とは, 本稿の冒頭で述べたように,ある統計値集団において特定の単一標識の特定の値があらわれる度数のその集団の大きさ(総度数)に対する比率, すなわち特定事象発現の相対度数が, 集団の大きさが大きくなる(数学的には無限となる)につれて, 一定の値(先験的確率に近づくことがほぼ確実[確率1]になることである」 。

 是永は確率概念を以上のように規定し, 次いで確率が事物の運動形態の一側面の反映であることを, たとえ部分的でも意識して確率を定義しようとした(1)古典的確率論と(2)頻度説的確率論をとりあげ, それらの意義を確認している。

 古典的確率論は, われわれの経験に先立って事物の存在そのもののうちに, 一定の条件のもとにではあるが経験の結果としての一定の規則性という属性を認める。経験の背後に, 事物の存在が予定されている。問題は物自体の一属性が確率にあらわれるメカニズムに関して, 不完全な説明しかできていないことである。これに対して, 頻度説(R.v.ミーゼス)では, 確率は無規則な現象系列の中での特定事象の発現の相対頻度の極限値と定義され, 相対頻度の極限値が出現するメカニズムが客観的である。この頻度説の欠陥は, 経験がすべての大前提におかれ, そのような経験の結果が生ずることを経験以前の「物自体」の属性とされていないことである。

 ミーゼスは物質の一属性が確率として発現するメカニズムを, 同一現象の繰り返し試行, あるいは同種の自然物の集団という二つの類型をもった客観的事実としてのコレクティフの性質に見出した。以上の理解にたって, それでは先に述べた確率論主義はいかに克服されるべきなのだろうか。確率論主義が有している欠陥は, 確率論とその適用の結果が統計値集団にみとめられる安定的規則性の発現の強度を示すにすぎないにもかかわらず(なにゆえにこの集団がこの集団性をこの強度において示すかという原因機構の解明が次の研究段階である), その延長で既存の知識で対象の認識に到達しえないとなると, ただちに対象的真理, 絶対的真理が認識しえないとし(不可知論), 認識の相対性が一面的に強調されることにある(「相対主義」)。この弊を避けるには, 相対的真理の認識を徐々に高め, 全体として一歩一歩, 対象の絶対的真理に接近していく以外に方法はない。

 確率論的認識論における不可知論的相対主義は, 物理学の世界における古典物理学から量子力学への発展についての誤解に根拠があり, それが社会科学にもちこまれたとして, 是永はそうした物理学的世界観を批判的に考察している。物理学でも, 確率概念が物理量のもつ客観的な意味をあきらかにする単なる指標とみなされず, 観測の誤差, 情報の不完全さといった認識の技術的限界が物理的認識の絶対的限界と解釈され, 確率論主義にたよることがあった。ハイゼンベルクの思考実験によって「証明」された「不確定性原理」がその一例であるという。この世界でも重要なのは, 確率概念の公理論的基礎づけや実証主義的道具化ではなく, この概念の客観性の解明である。是永は, 社会科学はこの姿勢と見解に学ぶべきだと説いている。

 関連して,吉田の次の指摘に耳を傾けるべきである。すなわち,ベルヌーイのいわゆる大数法則は,その事象の生起が確率現象であることを前提としてのみ証明される。したがって統計的確率に大数法則を適用するには,そのプロセスが経験的に確かめられなければならない。しかし,これは社会現象に関しては無理な注文である。数学的確率と統計的確率とを直接に大数法則で結びつけるのは誤った試みである。確率は客観的現実のなかに見出されなければならず,ここでは先験的確率という用語自体が無意味であることを確認しなければならない。また,統計的確率は対象となる偶然現象が確率現象でないならば,生起の比率は単に歴史的事実を示すだけで確率とは無縁であるということである。社会的偶然現象の生起の比率を,ただちに確率とみなすことはできない,と 。

コメントを投稿