社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

竹内啓「統計学の規定をめぐる若干の問題点について(1)」『経済学論集』第30巻第2号,1964年

2016-10-04 11:22:21 | 2.統計学の対象・方法・課題
竹内啓「統計学の規定をめぐる若干の問題点について(1)」『経済学論集』第30巻第2号,1964年

筆者は統計学を,次のように定義している。「・・・統計学とは,統計乃至統計的データの性質をその成立から利用の面までふくめて研究,吟味する学問であると規定すべきであると思う」と(p.42)。この規定から出発して,本稿では,統計がどのような性質のものであるかということ,統計分析がどのような意味を持つものであるかということ,この2点の解明がなされている。その内容は具体的には,節ごとの小見出しに与えられている。すなわち,「統計および統計データ」「統計的認識」「統計の限界」「統計的認識の社会的根拠」「統計的認識の論理的意義」である。

 筆者によれば,「統計的」という用語には二義性がある。一つには何らかの意味で社会性をもった数字である。もう一つには,統計データと言う場合で,偶然変動をともなった数字である。この統計ないし統計的という用語の二義性に注意すると,次の諸点を考えることができる。(1)統計,統計データはいずれも数字である。(2) 統計,統計データは特定の人間主体が具体的な対象について,具体的な方法で観察ないし観測結果としての数字である。(3)それらの数字は何らかの意味で集団ないし集団的現象をあらわしたものである。こうしてみると,統計は,対象としての集団現象,主体としての人間(国家,研究者など),それを媒介する方法(集団観察)の3つの契機を本質的に含む。統計は一つの具体的な存在である。それは現象の一面を抽象した概念的なものではない。したがって,統計は客観的対象自体のうちに本質的に存在しているものではないので,「正しい」統計とか,「真の」統計というものはない。統計の「正しさ」や「誤り」は,具体体手続きとの関連で指摘されるものでなければならない。

統計は上記のように,3つの契機の統一において把握されなければならないが,具体的な集団あるいは集団現象を観測して得られた数字がただちに統計的なものであるわけはない。それが集団の大きさを表すものだとしても,それ以外の契機,すなわちこのような具体的数字を統計的なものとして把握する一つの観点,統計作成あるいは統計分析を行うものの観点が重要である。観測して得られた数字は,統計として把握されて初めて統計となる。換言すれば,統計の「集団性」は,得られた数字から直接生じるのではなく,統計の作成者,利用者の側から観念的,操作的に設定される。

 科学としての統計学の課題は,上記のような統計および統計的認識の根拠と限界を科学的に指摘することである。この根拠と限界に関して,留意すべき点は,統計には作成者の目的ないし関心が反映されている点である。これは最古の人口調査でも,近代的資本主義のもとでも,独占資本主義段階のもとでも変わらない特徴である。また統計的認識の特性からみて,統計が対象の標識の集まりに転化していることで,現実の存在の抽象化(形式的単純化)がなされていることである。統計はこのように,一面から言えば抽象的存在である。しかし,他面でそれは種々の理論的=抽象的規定を含みうることを意味する。すなわち,統計のうちに如何なるものを見るかは,それを材料として利用する個別科学の研究者の側にある。統計はそれがいかなる現象のいかなる観察であるかにより,またそれが統計としてどのように理解されるかにより,固有の意味が与えられる。そうした固有の性格を吟味するのが統計学の課題である。統計の内容的分析は,統計学の課題ではない。最後に統計の対象の面からの制約は,具体的統計分析のさいに,対象である集団の固有の性格,構造,およびそれのもつ固有の論理への配慮である。対象が社会的集団(歴史性をもつ集団)か,非歴史的自然集団かで区別して考えなければならない。前者はそれ自体に明確な限界をもつ。集団としての統一性を保ち得る範囲が客観的に与えられている。後者はそれを構成する個体の性質によってのみ規定され,その客観的限界は存在しない。

 それでは統計的認識の客観的根拠は,何であろうか。筆者はこの問いに対して,よく言われるような,それを大数法則で説明する議論には納得できないとし,統計的認識の根拠を人間の認識の歴史的論理的な発展の流れにもとめるべきであると主張する。ここでは資本主義の発展を重商主義段階からときおこし,それとの対応で政治算術,確率論,ケトレー統計学,数理統計学など,統計的認識における観点の変化の影響は追跡されている。また,この過程は同時に,社会の量的認識における集団性の視点の著しい後退の過程でもあった。しかし筆者は,事態がそうであっても,統計的認識の概念規定そのものを変えて,統計的なるものを社会現象の量的表現一般と等置して,集団性の概念を排除することを否定している。(ここでは,統計の対象を個体とする内海庫一郎見解が意識されている。)

 統計的認識の根拠のもうひとつの側面は,人間の科学的認識の過程の特質のうちに求められる。筆者によれば,科学的認識は一般に,経験的データの蒐集,その整理と法則性の発見,理論の構成と検証という段階を経る。統計的認識は,この第二の段階に対応する。この段階は,帰納の段階であるから,統計的認識は帰納法(経験的事象を同種なものと異種なものとに分類,整理する方法)と密接な関係をもつ。あるいは統計的認識は,機能的推理の一種である。統計的認識はそこに根拠が与えられる。とはいえ,統計的認識が科学的認識の一段階に必然的な位置を占めるにしても,科学的研究の独立した一方法とはなりえない。特定の分野で一つの科学的理論体系が確立すると,統計的認識の比重は低下する。統計的認識の有用性は,科学的研究の比較的未発達な段階で最も顕著に示される。

 科学的研究過程で統計的認識の占める位置はもう一つある。それは理論(現実のモデル化)の説明能力,理論の現実における現れ方の程度と強さを確かめる場合である。経済学では,この点が特に重要である。

 関連して,統計的認識が技術的,経営的な分野で利用される場合に,それを「不確実性の下における行動決定の方法」として理解し,不確実性なるもの全般を扱う方法の確立を試み,統計学をそのような方向に解消させる動きがあるが,筆者はそれに対して疑義を示している。行動決定の論理は本質的に繰り返しを許さないものであるがゆえに,同一事例の集団における平均的な性質を認識の要とする統計的方法は,あまり有効な行動指針たりえない。統計的認識において処理される変動性は,いわゆる不確実性なるものの特殊な場合にすぎない。    

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