社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

竹内啓「統計学の規定をめぐる若干の問題点について(2)」『経済学論集』第30巻第3号,1964年

2016-10-04 11:24:36 | 2.統計学の対象・方法・課題
竹内啓「統計学の規定をめぐる若干の問題点について(2)」『経済学論集』第30巻第3号,1964年

 「統計学の規定をめぐる若干の問題点について(1)」を継承する本稿は,「いわゆる『大数法則』」「確率の意味」「いわゆる『統計的推論』」「結論­統計的認識の位置づけという構成になっている。

 大数法則が意味するのは,「大量観察によって,集団現象の規則性が明らかにされる」ことである。このことには,2つの意味がある。第一は集団現象に規則性が存在すること,第二はそれが大量観察によって明らかにされることである。集団現象をこのように大数法則と結びつけ,大数法則が集団の規則性の説明原理とみなす考え方は根強い。実際に,統計的認識の確立と,いわゆる「大数法則」概念の成立とは不可分に結びついている。ここでは大数法則のこのような理解の正しさが吟味されている。

 数学的確率論における大数法則は(ベルヌーイの定理),集団的規則性の現れ方の数学的定式化としての意義がある。そこでは,集団現象の規則性に関する理想化された状況が想定されている。数学的確率論によって表現される集団現象の構造は,ミーゼスのコレクティフで定式化されたように,(1)頻度の極限性の存在,(2)任意の部分集団で頻度の極限が不変であること,を条件とする。数学的確率論は,大数法則と関連付けられている限りでは,ストカスティックな構造をもつ集団にのみ適用可能である。社会的集団には,これらの条件を満たす集団は,男女の出生比以外にはないと言ってよい。厳密に言えば,この男女の出生比は,自然現象の範囲の問題である。

 厳密にストカスティックな構造を持たない場合でも,近似的に大数法則が働くと考えることには,意味がないわけではない。しかし,その場合でも社会科学における大数法則の意義には一定の限界がある。なぜなら,第一に社会科学の分析の関心は一般に,与えられた時と場所のストカスティックな構造より,時間的な変化,発展に向けられるものだからであり,第二に社会現象が集団現象であるとするとき,それは単なる総和以上の意味をもち,そこで規定されている状況は確率論が想定しているものと一致するとは限らないからである。

 筆者は次に,確率論に関する所説を分類している。大別すると,確率を何らかの意味でストカスティックな構造をもつ集団現象の頻度と結びつける客観確率論と「確からしさの判断の尺度」と結びつける主観確率論(先験確率)である。古典的確率論では,前者が経験確率,後者が先験確率と呼ばれ,大数法則によって両者の統一が成されるということになっていた。
確率論における客観確率論と主観確率論はそれぞれが,さらに細分される。すなわち客観確率論は「確率=頻度」とする立場と「確率=頻度にもとづく確からしさの尺度」という立場に,主観確率論は確率が何らかの意味で「合理的な」確からしさの判断の尺度でなければならないとする論理的確率論の立場と,それを純粋に個人的な主観が行う判断の尺度とする心理的確率論の立場とに分かれる。前者はラプラスの「等しい確からしさ」の概念を発展させたもので,確率は一定の根拠の下に一定の命題の出現の可能性に対して下される判断の尺度である。後者は確率には客観的あるいは論理必然的意味はないとし,ただ全ての人々の判断が一致すればそのような判断は客観的であるとする,著しく主観的な姿勢を特徴とする。

 筆者は頻度説をとらない。この説に依拠すると,統計的推論の問題を考えることができないからである。確率は「確からしさの判断の尺度」と理解されている。その判断は純粋に主観的な印象,あるいは恣意的な公理に基づくものであってはならない。なぜなら,それは客観的根拠をもたないからである。ということは,筆者は論理的確率論を支持するということになる。もっとも論理的確率論の探求によって,確率判断が客観的なあるいは合理的な根拠をもつのは,それがストカスティックな構造をもつ集団現象の頻度に基礎を置く場合に限られる。また確率は客観的に観測可能な事実に対する命題,すなわち観測によって真偽を確定できる命題の確からしさを表わすものであるが,科学的理論の体系はそのような命題だけからなりたっているわけではない。したがって,科学的認識の論理を確率論的な概念で統一的に体系化する試みは土台無理な話である。結局,確率は「確からしさの尺度」であるがその適用可能な範囲は「確実でない判断」全体にくらべればかなり限られたものとならざるをえない。

 筆者はさらに,いわゆる統計的推論の考察を行っている。統計的推論とは,統計データからその含んでいる情報を抽出し,表現する方法のことである。この理論の特徴は,「確率モデル」を設定し,「標本から母集団へ」の推測を行うことが特徴である。確率モデルは現実の世界から抽象化されたもので,それ自体が一つの完結した論理的世界を構成する。モデルは現実そのものではないが,現実を反映したものである。モデルと現実の間には距離があるが(しばしばその存在が無視されたり,否定されたりする),そこで最も注目されるのは,現実において偶然的なものとされる変動が,どの程度までストカスティックな構造によって表現されるかである。「確率モデル」を用いるのが妥当であるかどうかは,この点にかかっている。

モデルと現実との距離に関しては,種々の難問があり,筆者の判断によれば,ガウス,ラプラスからカール・ピアソンまでの間に定式化され,フィッシャーによって精密化され,ネイマン-ピアソンによって数学的形式を与えられた統計的推論の数学的理論は,一つの限界に達している。それらが現実の問題に対して十分適切とは言えない要素を含むこと,統計的推論によって得られる結論がどれだけ信頼にたるものであるかが曖昧であることが明らかになってきているからである。この状況を目にして,事前分布の存在を仮定して爾後分布を計算するベイズの定理が登場しているが,筆者はこれを科学的研究の方向として適切と判断していない。こうした事情をふまえ,モデルと現実との関係にもう一度たちかえって,確率モデルの定式化自体から反省することが必要である,という。今後は,一般的な統計的推論の理論だけではなく,それぞれの現実のデータの特質に対応した理論が必要になるというのが筆者の理解である。

 筆者は最後に,いわゆる統計的方法の科学的認識における比重が相対的に弱まり,その独自性が弱まっているとの懸念をもっている。経営あるいはORの分野では必ずしも統計的方法を前提としない数理計画法が重視されている。経済の分野では国民経済計算,産業連関分析,線形計画法のような本質的に統計的な観点をもたない方法がもてはやされている。統計的認識の制約を打破するために試みられている科学的認識の数量的方法の開発(「数学的機能論理」「不確実性下の人間行動の理論」「サイバネティクス」あるいは「社会科学の数量的な分析の理論」など)もある。筆者はそれぞれに意義のあるものと認めつつ,統計学の今後の課題として,集団性の概念に基礎をおく統計的認識の特質とその限界を明らかにすること,これまで十分でなかった統計ないし統計データの主体および対象の生じる実体的な側面を理論的に解明すること(少なくとも実体的な側面と形式的な側面の統一的吟味を具体的な形で行うこと),さらに統計あるいは統計的データの意味,統計的認識の科学的認識一般のなかに占める位置を個々の科学分野に応じて理論的に検討すること,が重要であるとしている。

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