内海庫一郎「統計対象論にかんする一覚書」『統計学』第11号,1963年3月(『社会統計学の基本問題』北海道大学図書刊行会,1973年,所収)
本稿は集団論に対する筆者の疑問と,それに対する暫定的仮説的解答の表明を記したものである。構成は以下のとおり。「1.研究の端緒の問題」「2.「記述」の必要」「3.統計対象の一般的諸性質」「4.経済現象における集団(個体)と組織=構成体」「5.抽象度の区別からみた集団」「6.個体,単位。調査単位」「7.調査の集団性」「8.集団調査の四つの型」「9.母集団概念について」「10.むすびにかえて」。
本稿で筆者が強調しているのは,統計対象は単なる人間(およびその個別的社会的行為)の集団たるにとどまらず,その集団を基礎においた単位間の社会関係,交互作用→制度・機構でもあること-したがってそれを集団=単位にまで捨象して各単位の属性の差異だけで「構造」の数量的側面を把握するという方法的手続きをとると,「単位」間の関係の把握が脱漏する,したがってそれらを拾いあげ,相互に結合させることではじめて対象の全面的経済認識がえられるということである。(p.99)
「1.研究の端緒の問題」。集団論は,統計対象論である。統計対象論とすれば,扱う問題を統計学の基本概念の脈絡のなかで考察できる(模写反映,思惟が到達する道=方法など)。それを集団論とすると,この問題の範疇体系上の地位が不明確になる。統計対象論を集団論と呼ぶようになったのは,統計学の学説史上の経緯による。筆者が統計方法研究の端緒問題として統計対象の分析を取り上げるのは,方法が対象によって決まるという模写反映論の立場に立つからである。なぜなら方法が問題となるのは,対象の性質を明らかにするためだからである。この立場に対立するのが,「目的→方法」観である。数学や物理学のように社会科学においても方法を対象の外部で用意するのは,誤りである。現実の対象に目を注ぐ限り,「方法=道具・用具」説にふれる必要はない。道具が対象の処理に成功するか否かは,対象の性質によるからである。
「2.「記述」の必要」。「対象→方法」観にたつかぎり,対象の性質の研究が研究の端緒となる。悉皆大量観察法=統計調査法と統計的方法という内容の異なる2つの方法を分析し,それらの方法が前提とし,予想せざるをえない対象の性質を析出するのが二つの集団論の蜷川がとった方法である。この二つの集団を「計量集団」対「計数集団」のように並列し,任意に選択可能なものとすることはできない。対象がどんな法則に支配されているかを明らかにする前に事実の記述が重要である。記述=事実(現象)の確認=「感性的認識の獲得」をとばしていきなり法則を云々するのでは,合理主義哲学の一面性の誤謬に陥ることになる。他方,K・ピアソン流の記述が,実は「記述=法則」のことに他ならないことにも注意しておかなければならない。R.A.フィッシャーの「推測」は,この意味での「記述」に接近する手段である。
「3.統計対象の一般的諸性質」。統計対象には,いくつかの基本的性質がある。①統計対象は人間の意識から独立した客観的存在である。②統計対象はその客観的存在の本質的側面ではなく,現象的側面である。③統計対象は人々の集団であることを地盤とする,人と人との関係においてあるという意味で社会的な存在が短期間にその質的規定性を変える歴史的客観的存在である。④それは生産関係の客観的存在の現象的側面である。
したがって,統計は対象の現象的側面の数量的側面だけの反映である。この限りでみれば,統計数字は社会・経済現象の数量的側面の測量結果であり,統計調査は社会測量である。統計集団を云々するまえに,統計の数字資料一般(社会測量結果)としての性格を十全に考察する必要がある。
「4.経済現象における集団(個体)と組織=構成体」。ここでは筆者が統計対象を必ずしも集団としない主要な理由が論じられている。それによると,人間集団は人と人との交互作用からなる社会関係=生産関係とよばれ,この交互作用自身が「集団」化され,反復・安定・固定化すれば,社会科学の研究対象である社会制度,社会構成体となる。そなると,特定の交互作用を営む人間集団がそれ自身「個体」化し,かつその個体独自の質的,構造的,および量的規定性をもつ。企業,国営企業,中央銀行などは,個体=構成体である。企業の会計組織,権力機構の収支(すなわち財政),あるいは日銀の兌換券発行高などは,これら個体の数量的属性である(集団とは言えない)。それらは,個体=構成体の単一な数量的規定であることにその本質的意義がある。
「5.抽象度の区別からみた集団」。筆者は集団を具体的なものから抽象的なものに向かって,次のように考える。①単位の各々が構造をもち,単位相互間および単位以外の外部および交互作用同志の間で,交互作用をもつ場合,②単位相互間および外部との交互作用が捨象された場合(すべてが単位の諸属性としてだけ捉えられる場合),③各単位の異種性が捨象された場合(単一標識化),④単位の異種性が完全に捨象された場合,⑤単位が大きさすら持たず単なる点になる場合(数学でいう集合)。これらのいずれの抽象段階でも単位の合計=集団の大きさという壁を取り払い,それを無限化すると大数法則の作用する余地が出てくる。社会・経済統計でいわゆる大量として問題にしているのは②の場合である。②を①にとりかえなければならないというのが,筆者の考え方である。筆者にとっては重要なのは,諸経済現象の現象そのものとしての「一個の事実としての」全側面的および全面的な確認=感性的認識だからである。
「6.個体,単位。調査単位」「7.調査の集団性」。統計調査は,その技術的手続きとして「単位」を設定する。単位と調査単位(申告義務者)とは,明確に区別する必要がある。単一の(個体=構成体)の数量的規定は多人数の調査者の協力を媒介に調べられることが多い。いきおい,統計調査は多人数の協働―多数の被調査者,多数の調査員・多数の調査機関員の共同作業による集団調査(集団を調査するのではなく,集団作業で調査する)である。所要の個体の経験結果または直接観察結果たる知識,その間接経験としての何段階の伝達のメカニズムがここで問題となる。さらに決定的なことは,それらの知識・情報・個票の数字が得られた知識の源泉になっている実践の分析が必要である。
「8.集団調査の四つの型」。筆者は集団調査について4つの型を区別して研究することを提案している。それは一対一の問答形式(アンケート)から,特定の個体に対して調査項目を多面化していく方式,さらに大勢が一人に聞く方式(公聴会形式),多数の調査者が多数の情報提供者に聞く方式へと複雑化する方向で叙述するという案である。
「9.母集団概念について」。母集団というのは元の集団ではなく,元の集団に高度の捨象操作=人口的な変形・加工をほどこした結果えられる非実在的・抽象的集団である。上記の「5.抽象度の区別からみた集団」でみた区分で,④の単位の構造を捨象して,単位間の(単一標識にかんする)異種性の一つだけを残したもので,⑤によって基礎づけられる。現実の具体的数字が母集団にまで抽象化されることによってえられるものは,一つの「大量」とその標識和はいずれも無関係な別の多数の母集団ということになる。属性=標識間の相互決定性は強引に破壊されることになる。社会経済現象に関するかぎり,母集団までに抽象してよい正当な理由のあるものは一つも見当たらない。
統計対象は経済現象そのものの数量的側面であり,集団として規定することを要しない場合がある。量的側面を質的側面から切り離せば数学主義におちいると同様に,集団を構成する個体の属性の量的規定性にだけ着目すれば,「関係」の量的規定を見落とすことになる。蜷川によって代表される「大量」論は経済現象の数量的側面という概念でおきかえられ,後者の一部としてその中に位置づけられるべきである。(p.99)
本稿は集団論に対する筆者の疑問と,それに対する暫定的仮説的解答の表明を記したものである。構成は以下のとおり。「1.研究の端緒の問題」「2.「記述」の必要」「3.統計対象の一般的諸性質」「4.経済現象における集団(個体)と組織=構成体」「5.抽象度の区別からみた集団」「6.個体,単位。調査単位」「7.調査の集団性」「8.集団調査の四つの型」「9.母集団概念について」「10.むすびにかえて」。
本稿で筆者が強調しているのは,統計対象は単なる人間(およびその個別的社会的行為)の集団たるにとどまらず,その集団を基礎においた単位間の社会関係,交互作用→制度・機構でもあること-したがってそれを集団=単位にまで捨象して各単位の属性の差異だけで「構造」の数量的側面を把握するという方法的手続きをとると,「単位」間の関係の把握が脱漏する,したがってそれらを拾いあげ,相互に結合させることではじめて対象の全面的経済認識がえられるということである。(p.99)
「1.研究の端緒の問題」。集団論は,統計対象論である。統計対象論とすれば,扱う問題を統計学の基本概念の脈絡のなかで考察できる(模写反映,思惟が到達する道=方法など)。それを集団論とすると,この問題の範疇体系上の地位が不明確になる。統計対象論を集団論と呼ぶようになったのは,統計学の学説史上の経緯による。筆者が統計方法研究の端緒問題として統計対象の分析を取り上げるのは,方法が対象によって決まるという模写反映論の立場に立つからである。なぜなら方法が問題となるのは,対象の性質を明らかにするためだからである。この立場に対立するのが,「目的→方法」観である。数学や物理学のように社会科学においても方法を対象の外部で用意するのは,誤りである。現実の対象に目を注ぐ限り,「方法=道具・用具」説にふれる必要はない。道具が対象の処理に成功するか否かは,対象の性質によるからである。
「2.「記述」の必要」。「対象→方法」観にたつかぎり,対象の性質の研究が研究の端緒となる。悉皆大量観察法=統計調査法と統計的方法という内容の異なる2つの方法を分析し,それらの方法が前提とし,予想せざるをえない対象の性質を析出するのが二つの集団論の蜷川がとった方法である。この二つの集団を「計量集団」対「計数集団」のように並列し,任意に選択可能なものとすることはできない。対象がどんな法則に支配されているかを明らかにする前に事実の記述が重要である。記述=事実(現象)の確認=「感性的認識の獲得」をとばしていきなり法則を云々するのでは,合理主義哲学の一面性の誤謬に陥ることになる。他方,K・ピアソン流の記述が,実は「記述=法則」のことに他ならないことにも注意しておかなければならない。R.A.フィッシャーの「推測」は,この意味での「記述」に接近する手段である。
「3.統計対象の一般的諸性質」。統計対象には,いくつかの基本的性質がある。①統計対象は人間の意識から独立した客観的存在である。②統計対象はその客観的存在の本質的側面ではなく,現象的側面である。③統計対象は人々の集団であることを地盤とする,人と人との関係においてあるという意味で社会的な存在が短期間にその質的規定性を変える歴史的客観的存在である。④それは生産関係の客観的存在の現象的側面である。
したがって,統計は対象の現象的側面の数量的側面だけの反映である。この限りでみれば,統計数字は社会・経済現象の数量的側面の測量結果であり,統計調査は社会測量である。統計集団を云々するまえに,統計の数字資料一般(社会測量結果)としての性格を十全に考察する必要がある。
「4.経済現象における集団(個体)と組織=構成体」。ここでは筆者が統計対象を必ずしも集団としない主要な理由が論じられている。それによると,人間集団は人と人との交互作用からなる社会関係=生産関係とよばれ,この交互作用自身が「集団」化され,反復・安定・固定化すれば,社会科学の研究対象である社会制度,社会構成体となる。そなると,特定の交互作用を営む人間集団がそれ自身「個体」化し,かつその個体独自の質的,構造的,および量的規定性をもつ。企業,国営企業,中央銀行などは,個体=構成体である。企業の会計組織,権力機構の収支(すなわち財政),あるいは日銀の兌換券発行高などは,これら個体の数量的属性である(集団とは言えない)。それらは,個体=構成体の単一な数量的規定であることにその本質的意義がある。
「5.抽象度の区別からみた集団」。筆者は集団を具体的なものから抽象的なものに向かって,次のように考える。①単位の各々が構造をもち,単位相互間および単位以外の外部および交互作用同志の間で,交互作用をもつ場合,②単位相互間および外部との交互作用が捨象された場合(すべてが単位の諸属性としてだけ捉えられる場合),③各単位の異種性が捨象された場合(単一標識化),④単位の異種性が完全に捨象された場合,⑤単位が大きさすら持たず単なる点になる場合(数学でいう集合)。これらのいずれの抽象段階でも単位の合計=集団の大きさという壁を取り払い,それを無限化すると大数法則の作用する余地が出てくる。社会・経済統計でいわゆる大量として問題にしているのは②の場合である。②を①にとりかえなければならないというのが,筆者の考え方である。筆者にとっては重要なのは,諸経済現象の現象そのものとしての「一個の事実としての」全側面的および全面的な確認=感性的認識だからである。
「6.個体,単位。調査単位」「7.調査の集団性」。統計調査は,その技術的手続きとして「単位」を設定する。単位と調査単位(申告義務者)とは,明確に区別する必要がある。単一の(個体=構成体)の数量的規定は多人数の調査者の協力を媒介に調べられることが多い。いきおい,統計調査は多人数の協働―多数の被調査者,多数の調査員・多数の調査機関員の共同作業による集団調査(集団を調査するのではなく,集団作業で調査する)である。所要の個体の経験結果または直接観察結果たる知識,その間接経験としての何段階の伝達のメカニズムがここで問題となる。さらに決定的なことは,それらの知識・情報・個票の数字が得られた知識の源泉になっている実践の分析が必要である。
「8.集団調査の四つの型」。筆者は集団調査について4つの型を区別して研究することを提案している。それは一対一の問答形式(アンケート)から,特定の個体に対して調査項目を多面化していく方式,さらに大勢が一人に聞く方式(公聴会形式),多数の調査者が多数の情報提供者に聞く方式へと複雑化する方向で叙述するという案である。
「9.母集団概念について」。母集団というのは元の集団ではなく,元の集団に高度の捨象操作=人口的な変形・加工をほどこした結果えられる非実在的・抽象的集団である。上記の「5.抽象度の区別からみた集団」でみた区分で,④の単位の構造を捨象して,単位間の(単一標識にかんする)異種性の一つだけを残したもので,⑤によって基礎づけられる。現実の具体的数字が母集団にまで抽象化されることによってえられるものは,一つの「大量」とその標識和はいずれも無関係な別の多数の母集団ということになる。属性=標識間の相互決定性は強引に破壊されることになる。社会経済現象に関するかぎり,母集団までに抽象してよい正当な理由のあるものは一つも見当たらない。
統計対象は経済現象そのものの数量的側面であり,集団として規定することを要しない場合がある。量的側面を質的側面から切り離せば数学主義におちいると同様に,集団を構成する個体の属性の量的規定性にだけ着目すれば,「関係」の量的規定を見落とすことになる。蜷川によって代表される「大量」論は経済現象の数量的側面という概念でおきかえられ,後者の一部としてその中に位置づけられるべきである。(p.99)
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