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社会統計学の伝統とその継承

社会統計学の論文の要約を掲載します。

木下滋「地域における公共投資の波及効果-地域産業連関表による-」『岐阜経済大学論集』第14巻第3号,1980年9月

2016-10-10 11:10:04 | 8.産業連関分析とその応用
木下滋「地域における公共投資の波及効果-地域産業連関表による-」『岐阜経済大学論集』第14巻第3号,1980年9月

 筆者は宮本憲一らとの共同論文「公共投資はこれでよいのか」(『週刊 エコノミスト』1979年1月30日号)で大阪府における当時の公共投資の在り方を,産業基盤型(『近畿ビィジョン』,関西新空港建設が目玉)ではなく,生活基盤型に変更すべきこと,そのような施策を講じると生産誘発や雇用効果が高くなることを公にした。本稿はどうしてそのような結果になったのか,その計算プロセスを示すとともに,上記の結論が大阪以外の県でも妥当するのかを検討したものである。

 筆者は計算プロセスをフロー・チャート(p.3)で説明している。このフロー・チャートを見ると,建設部門分析用産業連関表(60×46,1970年)が使われていること,規模別産業連関表の推計が行われていること,「近畿ビジョン型投資」と「生活基盤重視型」との2類型の比較がなされていること,大阪府の各産業の自給率によって大阪府内産業発注分をもとめて域内生産誘発効果を測定し,この指標で比較を行っていることがわかる。

 推計結果の主要点は,次のとおりである。「1.絶対額では当然「ビジョン型」が生産・雇用の誘発効果は大きいが,(投資総額の差による。[生活基盤型1.9兆円,ビジョン型2.4億円-引用者],1単位当たりで比較すると「生活型」は「ビジョン型」より上まわる。2.防災と空港の比較でも防災が上まわる。3.「生活型」と「防災型」のほうがそれぞれ軽工業,中小企業への波及がより高く,「ビジョン型」は大企業,重化学工業への波及がより高い。したがって,不況克服のための有効需要創出という限られた観点からみても,大規模産業プロジェクト投資を絶対化するのは誤りであり,さらに,雇用問題,中小企業対策,また行きすぎた重化学工業化の是正という産業構造上の問題を考えれば,なおさら,大規模プロジェクトより国民の福祉や生活基盤充実の公共投資を考えるべきである・・・)」(p.8)
なぜ産業基盤優先の「近畿ビジョン型公共投資」より,生活基盤優先の「生活環境防災型投資」のほうが,生産誘発および雇用誘発の効果が大きいのだろうか。そうなった事情は,二つの公共投資の第一次間接効果[(投資額×中間投入率×自給率)/総投資額]と間接生産誘発額(投資額×第一間接効果×逆行列)の値がほとんど変わらないことを見ればわかるように,建設業が投入する原料の割合(中間投入率)とその自給率が公共投資の生産誘発効果に決定的影響を与えているからである。すなわち,「生活環境防災型公共投資」は「近畿ビジョン型公共投資」より,その建設部門で原料構成の府内自給率が高くなるような工事を発注したということである。この傾向は,防災事業と空港建設事業の単独比較でも同様である。

それでは大阪府の分析で明らかになった結論が,他県でも妥当するのだろうか。筆者はこの問いをたて,まず移輸入,中間投入の大きさがこの結論にどの程度の影響を及ぼすかを大分県,秋田県,宮城県,岩手県,熊本県,島根県,広島県,山形県,青森県,北海道,静岡県について一覧し,分析している。次いで,大阪府における生活基盤型と産業基盤型の公共投資を他県の産業連関モデルにインプットし,その結果を分析している。他県とは,宮城県,秋田県,熊本県である。

 自給率は全国レベルでは90%以上であるが,地域によっては60-70%,低い地域では50%台である。中間投入率は,静岡県,大阪府,北海道を除くと全て50%以下で,全国レベルより低い。また最終需要に対する生産誘発係数は,全国レベルに比べて地域で低い。最終需要が与えられても間接効果が10%に満たないケースが多い。公共投資の生産誘発係数はどうであろうか。建設部門の投入係数で公共投資のそれに代位させた数字が,府県別に一覧されている(公共投資の対象という場合,その中身は建設部門と土木部門とに大別されるので,この代位は便宜的な手段である。筆者はこの代位が適切でないことに,後段で言及している)。投入係数の大きい部門の自給率の大小は,生産誘発の大小に大きな影響を与える。秋田県,宮城県では,昭和45年から50年にかけ,生産誘発効果の低下が見られる。秋田県の生産誘発効果の低下は,「製材・家具」「窯業・土石」「非鉄金属・金属製品」の自給率低下の影響が大きい。宮城県では部門ごとの自給率の変化はあまりないが,中間投入率が落ち込んでおり,この影響が大きい。

 筆者は最後に,大阪府における生活基盤型と産業基盤型の公共投資を宮城県,秋田県,熊本県の産業連関モデルにインプットし,効果を検証している。この設定自体がかなり強引な試みであるが,それはさておいて,推計の結果は熊本県以外で,生活基盤型で自給率,生産誘発効果が産業基盤型のそれを上回っている。このような結果になったのは,大阪府の産業基盤型公共投資が原材料の発注を「鉱業」「石炭・石油」という自給率の低い産業により多く,生活基盤型公共投資が「金属」という自給率の高い産業により多く発注しているのに対し,熊本県の産業基盤型公共投資が自給率の高い「鉱業・運輸」の投入が多く,生活基盤型公共投資が自給率の低い「製材・家具」「窯業・土石」「非鉄金属・金属製品」などの投入が低いからである。この結果,熊本県では大阪府と同じ投資を行うと産業基盤型公共投資のほうが自給率の高い産業からより多く,自給率の低い産業からより少なく投入し,それゆえに生産誘発効果が産業基盤型で高くなったのである。

 結論。「公共投資の効果は産業活動,特に工業や第三次産業の盛んなところでは効果が高いが,そうでない所では,低くなり,かえって移入を通じて他府県,特に工業,第三次産業の発達した府県への波及を活発にする。また,生産基盤投資は概して建築の比重が高く,したがって鉄鋼,非鉄金属,金属製品,機械,セメント,製材・家具への発注が高くなり,産業基盤型投資は,概して,土木の比率が高く,鉱業,運輸,石炭・石油などへの発注が高くなり,鉄を除けば生活基盤型投資の方が都市型,高加工型産業によく波及するが,波及効果全体の大きさは,その県でどの産業が盛んであるかによって違い,一概にいえない」(p.65)。

宮本憲一・木下滋・土居英二・保母武彦「公共投資はこれでよいのか」『エコノミスト』1979年1月30日号

2016-10-10 11:08:10 | 8.産業連関分析とその応用
宮本憲一・木下滋・土居英二・保母武彦「公共投資はこれでよいのか」『エコノミスト』1979年1月30日号

 本稿の全体は,衰退する大阪都市圏の再生を,関西新国際空港中心の在来大型プロジェクトで牽引すべきか,それとも生活環境・防災型のそれで行うべきかを問い,公共投資の在り方を前者から後者へ転換すべきことを提言したものである。その際,公共投資の波及効果を産業連関分析の手法を使って2つのパターンで推計し,後者の方が波及効果で優ることを実証した。公共投資の在り方を産業基盤型ではなく,生活基盤型に変更すべきことを,生産誘発効果と雇用効果の推計値の比較で示した日本での最初の論文である。ここでのまとめは本稿の全体ではなく,産業連関分析を適用した推計の部分に限る。

全体は四節から成る。第一節は「『不況ファシズム』の危険性」,第二節は「衰退する大阪大都市圏」,第三節は「近畿ビジョンか防災型か」,第四節は「改革への課題と新予算案」である。筆者4名のうち木下滋・土居英二は,第三節の執筆を担当し,ここで関係するのはこの部分で,産業連関分析を使って「生活環境・防災型」の公共投資モデルと大阪通産局「近畿産業構造長期ビジョン」の「産業基盤整備型」のそれとの効果を比較している。両モデルの中心事業は,前者が治山治水,後者が関西新空港であるので,これら2つの公共投資の経済効果,また地域経済とくに雇用に与える影響の度合いの比較がなされている。

 まず,前提条件の整理であるが,筆者は大阪経済に与える府民所得構成,とくに府内公共投資の影響の計量的検討を試み,1974年大阪府産業連関表をもとに,同年の規模別産業連関表を作成し,同時に「近畿ビジョン型」と「生活環境・防災型」の2つの1985年度府内総支出構成を試算している。

次に,公共投資の類型を「Ⅰ.産業基盤投資」「Ⅱ.生活基盤投資」「Ⅲ.防災投資」に分け,「近畿ビジョン型」「生活環境・防災型」とで比較すると,前者ではⅠと(Ⅱ+Ⅲ)の比が1対1(1兆950億円と1兆1000億円),後者ではそれが1対3(4220億円と1兆3170億円)であると推計している。これは「近畿ビジョン型」で大きな比率をしめる道路が,「生活環境・防災型」では小さく,代わりにⅡの各項目がふくらみ,さらに「生活環境・防災型」ではⅢのウェイトが高いがゆえに出た結果である。
2つの型の公共投資に関して,規模別産業連関表から計算された逆行列表と大阪府内自給率,建設部門分析用産業連関表(1974年)の投入係数表を使って,生産誘発効果,雇用効果を算出すると,「近畿ビジョン型」では2兆4000億円の建設業への投資に対し,他産業に9780億円の間接波及があるので,都合3兆3780億円の生産誘発があることになる。1億円当りの投資に換算すると,1億4080億円の生産誘発額である。これに対し,「生活環境・防災型」では1兆9000億円の投資に対し,合計2兆7107億円の生産誘発額となる。1億円当り,1億4270億円の生産誘発額であり,単位当たりでは「生活環境・防災型」のほうが効果的である。この限りで,生活基盤投資は不況対策にならないというのは,間違った宣伝である。

さらに2つの型の公共投資が,産業別・規模別でどの程度の間接波及効果を与えるかをみると,「生活環境・防災型」が製造業の構成比でわずかであるが高い。規模別では,製造業の中小企業の構成比で,「生活環境・防災型」のほうが1.5%高いという結果がでている。産業分類を変えて生産誘発効果を測定すると「近畿ビジョン型」は重化学工業と第三次産業がより高い構成をしめ,「生活環境・防災型」は軽工業,第二次産業の構成がより高くなる。雇用効果でも似たような推計になる。すなわち,2つの型の公共投資を比較すると,
「生活環境・防災型」はより労働集約度の高い産業の生産をより多く誘発する。

 筆者は次に大型公共投資プロジェクトについて,「近畿ビジョン型」の想定する空港建設事業と「生活環境・防災型」が志向する都市防災事業とが生産,雇用への誘発にどの程度寄与するかを計算している。1985年度の大阪府の大型公共投資を1350億円とし,それが上記の2つの事業に向けられた場合の誘発効果の相違を生産誘発係数でみると,都市防災事業のほうが空港建設事業より大きい。特筆すべきは,前者は後者よりも府内企業への間接波及が大きいことである。雇用効果に関してみても,都市防災事業のプロジェクトのほうが空港建設事業のそれよりも高い。この推計は,2つのプロジェクトが大阪経済にもたらす直接,間接の産業別需要額に労働力係数をかけることでもとめられる。

 結論として,以上の計量分析から生産誘発効果,産業別・規模別波及効果,雇用効果の推計値から総合的に判断すると,「近畿ビジョン型」よりも「生活環境・防災型」公共投資のほうが,大阪の産業構造に望ましいということになる。その意味は2つあり,一つ目は安全で住みよい都市づくりの事業が「近畿ビジョン型」の大規模プロジェクトより地域経済の進行に役立つということである。二つ目は失業問題の解決,産業構造改革の手段として,新空港などの中核的プロジェクトが役に立たないということである。

泉弘志「剰余価値率の推計方法と現代日本の剰余価値率」『大阪経大論集』109/110号, 1976年

2016-10-10 11:06:10 | 8.産業連関分析とその応用
泉弘志「剰余価値率の推計方法と現代日本の剰余価値率」『大阪経大論集』(大阪経大学会)109/110号, 1976年(『剰余価値率の実証研究』法律文化社, 1992年)

 剰余価値率計算の泉方式の解説である。資本による労働者の搾取率である剰余価値率は, 剰余価値と労働力価値の比率であり, あるいは剰余労働と必要労働の比率である。この剰余価値率を推計するために, 筆者が行った計算は, 一方で労働力の価値を, 平均年間賃金(T)×平均労働者家計消費構成比(K)×各商品の単位価値額当りの労働量(W)でもとめ, 他方で剰余価値の大きさを, 労働者の平均年間労働時間(Z)から上記の労働力価値の大きさを控除してもとめ, 剰余価値率の推計式である「剰余価値(不払い労働)÷労働力価値(支払労働)」にそれぞれの値を代入して計算するというものである。

 実際の計算で「産業部門別財貨100万円当りに投下されている労働量(全価値)の推計」をするために, 「産業部門別財貨100万円を生産するのに必要な労働量(新価値)の推計」「産業部門別財貨100万円を生産するのに直接間接に必要な労働量(全価値)の推計」をもとめる。筆者はここで, 価値を形成する労働の範囲を物的財貨生産分野に限定している。使用する統計は, 産業連関表が主で, 他に国勢調査「労働力調査」などから, 推計に必要な数値が使われる。

次いで, 「労働力価値の推計」のために, 「平均年間賃金とその各財貨・サービスへの支出額」「労働者の購入する物的財貨の価値」「『労働者が享受するサービス』を供給するところの必要な物的財貨の価値」を, やはり産業連関表, 労働力調査などを使って計算する。

 以上, 剰余価値率計算に必要な推計値がそろったところで, 剰余価値率の値を, 「剰余価値/労働力価値」として計算する。全体はコンピュータを使った膨大な計算になる。
剰余価値率をもとめる試みは, 山岸一夫, 広田純, 戸田慎太郎などによって行われたが, その計算方法は, 「(利益+費用化された利潤)/賃金」, 「(付加価値-賃金)/賃金」といった算式が使われた。しかし, この計算では, 剰余価値の大きさに自営業部門などからの収奪部分が入る。また利潤と賃金との関係は, 剰余価値と労働力価値との関係とイコールではない。前者はいわば価格レベルの概念であり, 後者は価値レベルのそれである。筆者によれば, 剰余価値率の計算では価値レベルで行う方法のほうが概念の内容にそくしているので(物的財貨生産部門の直接的生産過程からの搾取), 妥当な手法であるという。

 筆者は, 自身の方法で計算した剰余価値率を, 1951-59年までの8年間, また1960-85年までの25年間で示し, この間, その値が一貫して上昇していることを指摘している。すなわち, 前者では43%から113%へ, 後者では111%から243%へというように。また, 従来の価格レベルの統計を使った戸田推計と, 自身の価値レベルの推計とを比較している。それによると, 泉推計では戸田推計よりも剰余価値率は低い。それは当然で, 泉推計には, 自営業部分からの収奪が入ってこないからである。もう一点, 泉推計による剰余価値率は一貫したかなり急速な上昇がみられるが, 戸田推計にはそのような明瞭な長期的傾向がみられない。この理由を筆者は, 従来方式では農民からの収奪の減少と労働者からの収奪の増大が相殺しあうから, とみている。

関連して, 筆者は1960-85年の自営業者の収奪の構造も分析している。そこでは, 農林自営業者, 農林自営業者に雇われている労働者, 非農林自営業者, 非農林自営業者に雇われている労働者がどれだけ搾取されているか, その構造が推計結果とともに示されている。
以上が剰余価値率計算の泉方式であるが, その内容を仔細に検討すると投下労働量計算であることがわかる。


長屋政勝「産業連関論」(山田喜志夫編著『現代経済学と現代(講座 現代経済学批判Ⅲ)』日本評論社,1974年)

2016-10-10 11:04:38 | 8.産業連関分析とその応用
長屋政勝「産業連関論」(山田喜志夫編著『現代経済学と現代(講座 現代経済学批判Ⅲ)』日本評論社,1974年)

産業連関分析はそれが日本に入ってきた頃,盛んに持てはやされた。経済計画に導入され,資本主義の構造的矛盾を調整する役割が期待された。こうした傾向に対し,山田喜志夫,野澤正徳は逸早く批判を加えたが,筆者もその一人である。本稿は産業連関論の理論的脆弱性を明らかにすることを課題としている。この課題認識とともに,連関論の理論的骨子を批判的に吟味すること,この理論がいかなる経過をたどって再生産されたのか,連関論を応用した現実の経済計画はどのようなもので,その結末はどうであったか,従来の連関論批判で何が問題とされ,かつそれらは有効な批判であったかが,検討されている。

 産業連関表,産業連関分析の中身とそれらの問題点は,周知のことなので,筆者の批判的論点の特徴にポイントを置いて要約する。

 まず連関表の骨組みは,国民経済を個別資本の簿記的視点,損益計算的思考からとらえ,国民経済活動が経済諸部門の取引関係の総体として把握されていることがまず確認されている。連関表がこの形式をとるために,横欄に関して,中間需要に含まれる物的生産部門(生産的消費)と用役生産部門(不生産的消費)との区別がなされず,最終需要では家計消費のもとに労働者の賃金による生活資料の購入と資本家のそれが一括され,所得分配の資本制的不平等が隠避されている。総資本形成にいたっては更新の投資と生産拡大の蓄積が,また在庫形成も意図せざる在庫と意図された在庫が区別されていない。また縦欄では社会的生産物の価値構成が示されるはずであるが,ここでも生産的,不生産的部門の区別がないので不変資本の価値移転と剰余価値からの控除とが等しく中間投入に含められ,減価償却の項目における補填と蓄積の扱いが曖昧である。会計学上の利潤の費用化や償却基金の積み立てという形での利潤の隠蔽と同じようなことがなされている。以上要するに,連関表は社会的再生産を商品資本の循環と見る見地がなく,これでは社会的再生産の法則的理解が不可能である。

 次いで筆者は,連関分析の論理構成,投入係数をめぐる問題を批判し,最終的にその均衡論的性格を暴露している。連関分析の論理構成における問題点としては,国民経済の諸部門間取引を連立方程式体系にモデル化し,過去の連関表から投入係数を算定し,独立変数である最終需要の大きさを決め,それに対応した経済量を推定する論理は,結論的に言えば,計量経済学の論理的枠組みと同様,新実証主義的思想に立脚したものであるという事情が指摘されている。投入係数をめぐる問題点として,それが客観的反映対象をもたない単なる要約数字であり,これを同次線型の生産関数から導く手法には従来の一般均衡論における限界生産力理論の否定であるかのように見えるが,そうなった根拠は係数算定上の実用性を優先的に担保にしたことにある。したがって連関論の均衡的性格は,レオンチェフの主観的意図とは別に,方程式による形式的な「仮定による均衡」であり,経済実体的内容を失った「虚偽の均衡」である。

 このような欠陥をもった産業連関論は,どのようにして現代資本主義のもとで計画化の有力な道具となったのだろうか。筆者は連関論の半生を回顧している。ここでは連関論の原型とみられる国民収支勘定作成の試み(30年代のドイツ),ソ連での国民経済バランス作成の経験,40年代のアメリカでの発展,40-50年代における主要資本主義国でのその定着,日本での昭和30年代以降の展開を紹介している。とくに紙幅を割いて,日本の中期経済計画で連関分析が導入された経緯を論じている。かなり細かくその内容が記述されているが,筆者が言いたいことは要するにここでも,「中期経済計画とそこに用いられた産業連関モデルも,ありうべき日本経済の姿を各関連方面からの主観的希望をふんだんに盛り込み,方程式体系の形で紙の上に描いてはいるが,問題はそういった主観的理論構成を許すモデルそのものの理論的欠陥と非科学性(である)。連関モデルに関しては,生産構造の実態の変化を解明するという能書きとはうらはらに,・・・やはり連関論の理論構成そのものが現実の社会的再生産を分析し,経済構造を把握するうえでまったく無力なのだということを再確認できるのである」(pp.179-80)ということにつきる。
産業連関論批判に関しては現代経済学内部からのそれが紹介され,興味深い。一般均衡論の伝統を遵守するT.クープマンズらは,連関論が需給の両面にある最適化行動を無視しているので均衡理論に値しないと決めつけ,レオンチェフ流の制限的固定的生産関数にもとづく理論は均衡論モデルとは言えないと断罪する。関連して価格理論の決定的脆弱性も指摘されている。またM.フリードマンは,投入係数不変の仮定に反発を示している。投入係数一定の仮定とその予測力に対しては,上述の一般均衡論的検討から批判するもの,また実際の生産過程との対比でその非現実性を指摘するものとがある。筆者は概略以上のような現代経済学内部での連関論批判に対し,「現代経済学の内部での連関論批判の特徴といえば,それら批判論点があくまで断片的であり,方法論的検討をも含んだ根本的なもの」(p.182)となっていない,と指摘している。

連関論批判についてはさらに,ソ連,東独での批判が紹介されている。ソ連からはT.B.リャブーシキン,C.ニキーチンの見解が,東独からはH.コツオレーク,H.マイスナーの見解が取り上げられている。両者に共通しているのは,一方で連関論が資本制的無政府生産のもとでは幻想である計画化志向をもつがゆえに無効であること,連関表を構成する諸概念が社会的生産を科学的にとらえるものになっていないことへの言及があり,他方で連関分析が技術的な面から実践的便宜さをもつことを評価し,計画化の整った社会主義経済のもとでは技術的有効性を発揮するという期待がよせられている。筆者はこれらの批判は現代経済学の批判水準を超えるものではなく,断片的範疇批判と基礎理論への超越的批判に終始していて,これはマルクス経済学の悲劇であると結論づけている。

長屋政勝「産業連関表における投入係数について」内海庫一郎編『社会科学のための統計学』評論社, 1973年

2016-10-10 11:03:29 | 8.産業連関分析とその応用
長屋政勝「産業連関表における投入係数について」内海庫一郎編『社会科学のための統計学』評論社, 1973年

 投入係数aは,生産物量 X に対する投入量 x の比,すなわち a=x /Xとして定義される。この限りで,投入係数は産業連関表から導き出された連関分析に必要な数量的要約数字にすぎないが,実はこの係数のもつ意味は奥深く,様々な問題を有している。筆者は本稿で,投入係数の背景にある理論問題に言及している。

 投入係数は,生産関数の一種である。一般均衡論の創案者であったL.ワルラスはこの係数を「製造係数」と呼んだ。製造係数は,生産物量に対する投下用役量の比で,交換に続く生産および分配の均衡を説明する基礎概念である(限界生産力理論)。この製造係数は,現実の市場における価格変動とともに絶えず変化し,均衡成立の時点で固定する。したがってこの係数は不断に変動し,先験的に一定不変でない。

 しかし,連関分析では投入係数は一定であり,不変であることを前提条件とする。産業連関論が一般均衡論の特殊理論であるといわれる理由は,ここにある。すなわち産業連関論では,ワルラスの製造係数がその効用理論と限界理論から分離され,均衡概念が実用化,簡略化されている。この実用化,簡略化には,連関表作成のための統計資料の整備,拡充が果たした役割が大きかった。換言すれば,この措置は,G.カッセルによるワルラス均衡概念の修正と1920年代のアメリカ農業経済学における投入・産出概念を用いた実用的な生産論の展開があった。ワルラスからレオンチェフに至る係数の変化は,「用役概念に基づく可変的係数」から「素材概念に基づく不変的係数」への転化として要約することができると筆者は述べているが,この転化は一般均衡論が必ずしも均衡と限界概念との結合を必要しないとしたカッセルが製造係数を技術係数に置き換えたことによってもたらされた。

 理論とは別に,生産過程における生産要素とそれによる生産物との量的関係を事実にもとづいて検証する試みは,レオンチェフの連関分析が登場する以前からあった(J.D.Black,
A.G.Black,”Production Organization”あるいはアメリカ農務省の年報など)。「産出単位あたり投入」という固有のタームは,製造係数,投入係数が意味するものを既に先取りしていた。そこでは全ての生産要素が素材の観点から検討され,産出単位あたり投入が固定している投入物は主要材料と補助材料のみで,その他のものは不比例的・不規則的な関係を示すことが生産要素と生産物の「投入―産出関係」として語られている。

投入係数がその任意可変性から解放されたことは,限界生産力理論との理論史的断絶を意味する。レオンチェフ体系では均衡成立の規定が不問に付され,計算結果として与えられた係数が均衡を保証するものかどうかは実は不明である。そこにあるのは「虚偽の均衡」のみである。この仮定のゆえに連関分析による推算は,現実とのさまざまな齟齬をきたす。部門分割がアクティビティベースで行われていること,利用される統計が価額表示でありながら,価格変動を無視した分析手法であることが,齟齬の誘因である。結局,投入係数一定の仮定は,客観的事実=現実の労働過程における投入物と産出物の量的関係によって導出されたものではなく,連関分析の必要悪として余儀なくされたものである(パラメータの安定性と計算方法の容易性)。

最後に筆者は,近代経済学における生産問題が生産関数と生産係数をベースに展開され,経済問題が専ら関数関係で論じられてきた(効用関数,需要関数,供給関数)ことを捉え,関数が対象の客観的事物の多様な質的規定性の捨象,社会的歴史的に規定される生産過程の物理的素材的過程への還元であるがゆえに,連関分析が趨勢計算にすぎないと断じている。