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「貴司山治と小林多喜二」展へ

2016年07月28日 | 日記
7月27日
 午後、県立文学書道間3階の文学常設展示室で展示されている、「貴司山治と小林多喜二」展をみてきました。
徳島県ゆかりの作家を紹介している展示室で、なぜ、「小林多喜二」なのでしょう。昨年、「新発見」と、新聞でも報道されたこの写真 ↓

徳島県鳴門市出身の作家 貴司山治(きしやまじ)が撮影したものだったのですね。

こじんまりした展示でしたが、その歴史の真実に引き込まれ、息をのみました。

写真の説明 パンフより
「貴司山治の遺品の中にあった写真原版から新たに発見された写真。小林多喜二の遺体の枕頭に母セキ(和服姿)、その左隣に多喜二の弟三吾がいる」

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展示のあいさつ<より
 昨年2月、鳴門市出身の作家・貴司山司(1899~1973年)の遺品の中から、特高警察の拷問で虐殺された小林多喜二(1903~1933年)の遺体を囲む人々を撮影した写真の原版が見つかりました。
 これによって、撮影者不明とされてきた有名な写真の撮影者が貴司であたことが判明したほか、多喜二の母・セキらが多喜二の枕元にいる写真も新たに発見され、新聞各紙で大きく報道されました。
 特高の監視下、多喜二の通夜に行くことすら危険な時代。歴史的瞬間を捉えた写真からは、多喜二の家族や仲間のために懸命にシャッターを切る貴司の緊迫感が伝わってきます。
 多喜二の死後はじまった『小林多喜二全集』編纂にも貴司は関わりました。生前、多喜二から「右翼偏向」と痛烈に批判されたこともありましたが、貴司は一貫して同志・小林多喜二の作品を多くの人々に届けようと力を尽くしました。
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 私は、説明書きをずっと読んでいきました。
説明書きごとに、まるで、映画のシーンのようにも思える光景が浮かびました。しかし、現実にあったことだと思うと、胸がつまりそうになり、紙と鉛筆を取り出して、夢中で書き写してきました。
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 1933年の初夏、私は共産党中央部の幹部として活動していた宮本顕治から「小林多喜二全集の発行は党中央委員会の仕事として行うことにきめた。自分が中央委員会から委任を受けて処置することになったので、君が合法面でのその仕事の責任者となってやってもらいたい。」との相談を受けた。(中略)
 私は六十何人のプロレタリア文化人やその他の自由主義者、進歩的文化人をあつめた独立の、大衆的な小林多喜二全集刊行会を設立して、1933年の夏から秋へかけて、前金と募金の募集を行い、「党生活者」の伏字なし、原文どおりの組版を終えた。しかし、プロレタリア文化団体は、その時もはや四分五裂の状態で、基金、前金合わせて三百円余り集まったが刊行は不可能であった。
(中略)
 1935年に、私は幸い又自由をとりもどしたので、一存でやはりこの「党委託」の仕事をつづけることにきめ、ナウカ社を発行所として、小林多喜二全集を小説だけ三冊、論文はどうしても出せそうもないので残し、代わりに書簡集、日記各一冊を編纂して合計五冊刊行した。この発行部数合計約二万である。
 この最後の努力は、三四、三五、三六の三年ごしの仕事となった。このころはもう小林多喜二の本を出す仕事などには相談にあずかってくれる人もなく、多くの旧ナルプの文学者たちでもこわがるか、いやがるか、でなければ無関心であった。
 おかげで私はこの仕事をひとり占めにすることができて、ずいぶん楽しかった。
 もっとも、この仕事が「党遺託」の仕事であるのを知っていた中野重治、宮木喜久雄の二人は、最後まで私に協力してくれた。
   (『小林多喜二全集』月報〈3〉1949年 新日本文学会発行)
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なお、この展示は7月31日(日)までです。


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