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『西郷隆盛』 第七巻 単行本 – 2008/2/7  海音寺 潮五郎 (著) 五代友厚 寺島宗則 新納 中三 ほか

2015年09月10日 | 本と雑誌

『西郷隆盛』 第七巻 単行本  – 2008/2/7
海音寺 潮五郎   (著)

amazon 内容(「BOOK」データベースより) カスタマーレビューはまだありません。

禁門の変後、幕府は長州征伐を諸藩に命じた。しかし死中に活を求める西郷の尽力が長州を救い、これが契機となってついに薩長連合が成立する。


この巻は、読了まで時間がかかり、記憶がぼやけてしまった。

沖永良部島から戻った西郷の中央での活躍がはじまる。
維新史の重要なできごとが目白押しで、しかも詳細な記述は、気がぬけない。

表紙カバーのそでの部分には、中岡慎太郎が故郷の板垣退助に送った
西郷に対する最大級の賛辞をつづった書の一部。
その最後に「学識あることは、実に知行合一の人物なり。これすなわち当世洛西第一の英雄でござ候」

中岡が坂本龍馬とともに尽力した薩長同盟は、本巻末尾でようやくなり、
はなしは龍馬の寺田屋遭難、木戸帰国で終わる。
薩土盟約は次巻という進み具合。

途中また、もどって薩英戦争のことも述べられている。

そこのおもしろいところがあったので以下メモする。

薩英戦争の際、戦闘の引き金となった薩摩の蒸気船3隻への英兵の乱入があった。

このとき捕虜として拘禁された、五代才助と松本弘庵のその後である。

以下wikipediaで調べる(裏は取ったつもり)

五代才助は、後、大阪商工会議所の設立で知られる五代友厚(ごだい・ともあつ)
松木弘庵(こうあん)は日本の電気通信の父と呼ばれる寺島宗則である。

当時、五代は天佑丸の船奉行添役 寺島は青鷹丸の船長であった。

二人はナゼか自発的捕虜となって英艦で横浜に行く。
どうせ釈放されても死罪だと思ったのだろう。

のちに許され五代友厚は、慶応元年(1865年)、藩命により寺島宗則・森有礼(初代文部大臣、一橋大学を創設し、明治六大教育家)らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発、欧州各地を巡歴。

五代友厚はP77「日本の資本主義の上でなかなかの功績のあった人である。
着眼まことに非凡であり、この時代にしては稀有の人物であったことは疑いないが、
西郷はあまり好まなかったようである。
利欲のことにこころを馳せる人物を、西郷は性癖的に好まない。
・・・・・政治家としての西郷の重大な欠点であるが」P77

五代は薩摩藩に対する建白書で

外国貿易の広大な利益について説き、
P77その金で、砂糖製造機械を西洋から取りよせて、奄美大島諸島二十ヵ所にすえつけて、
新方式によって砂糖を製造することを進言している。P77

五代の計算によればこの利益は「十年にして千四十九万七百両」であった。

ちなみに、
(調所広郷の薩摩藩財政改革(天保の改革)では、500万両にも及ぶ膨大な借金に苦しむ藩財政を、
およそ20年間で結局、藩の金蔵に250万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した、といわれる。
(数字は文献により微妙に異なる。原口虎雄は「幕末の薩摩」、論文等で天保の改革時の利益を黒糖のみで230万両超としている。『幕末の薩摩』―悲劇の改革者,調所笑左衛門 (1966年) (中公新書)  1966 )

千四十九万七百両も相当な金額ではある。

のち、薩摩藩は英国製の製糖機械を輸入して、
奄美大島の四ヶ所(龍郷町瀬留 奄美市名瀬、宇検村須古、瀬戸内町久慈) に白糖製造工場を設置して生産を開始したが、燃料などの問題でうまくいかず、計画は失敗したという。


余談だが、先の薩摩藩遣英使節団の留学生等の監督として同行したのが新納 中三(にいろ ちゅうぞう/なかぞう 通称刑部(ぎょうぶ)である。新納は帰朝して薩摩藩の家老になる。(本書8巻P49)

余談の余談 パークスの薩摩訪問
1866年(太陽暦7月27日)英国商人トーマス・グラバーの斡旋で第二代駐日英国公使ハリー・パークスSir Harry Smith Parkesを長崎に迎え、藩主忠義に従い鹿児島でパークスにあいさつしたのが新納 中三(刑部)である。

この時、西郷は松木弘庵(寺島宗則)を通訳として連れ、英艦船にパークスを訪ねている。(英側通訳サトウはこの時不在)

会談で西郷は兵庫開港問題などで朝幕対立から幕府の腐敗の内情についても語り、パークスと大いに意思疎通をはたしている。談判の次第は、西郷によって家老の岩下 方平(いわした みちひら)に文書で報告され、大久保にも読むように手紙を書いている。外交べたとされる西郷だが、ここでは堂々とした外交名人であり英雄的で、しかも成功している。(次巻)

余談だが、新納 中三は、奄美の歴史のなかでも活躍する。
ドラマにしたら視聴率がとれそうな場面が予想されるのだが。

新納(にいろ しんどめ にいの など)姓は、奄美でも身近にあって、そう珍しい姓ではない。

新納 中三(にいろ ちゅうぞう/なかぞう、 薩摩藩家老。
明治4年(1871年)の廃藩置県で薩摩藩消滅後に退職するが、明治9年(1876年)に七等判事として新政府に出仕。その後また一時期退職したが、明治18年(1885年)奄美大島島司となり、特産品である黒糖の流通改革に従事。負債に苦しむ島民のために尽力したが、翌年に突然免官された。これは黒糖流通を独占していた鹿児島県商人による画策といわれる。 しかしその後も中三は島民から救世の恩人と敬慕された。

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丸田南里 まるた-なんり デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

1851-1886 明治時代の社会運動家。
嘉永(かえい)4年生まれ。幕末に長崎の商人グラバーにさそわれイギリスに密航し,明治8年郷里の鹿児島県奄美(あまみ)大島にかえる。県の保護下にある鹿児島商人を中心とする大島商会の砂糖売買独占に反対して砂糖勝手売買運動をおこし(勝手世騒動),奄美の解放に貢献した。明治19年4月19日死去。36歳。

丸田南里もグラバーにつながるが、先の白糖製造工場の建設の際、招聘された「煉瓦技師のウォートロスは後に、英国の商人グラバーの紹介で大阪造幣寮の建築や銀座(東京)の煉瓦街を設計」奄美市HPして」いることから、やはりグラバーとつながるのである。

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『苦い砂糖』―丸田南里と奄美自由解放運動 (単行本)
原井 一郎 (著 
このブログ2009年10月01日 | 本と雑誌

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