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過去に読んだ奄美の古い本を三冊読みました。奄美カトリック迫害に関連する本です。

2014年12月08日 | 本と雑誌

↑ (写真は拡大します)あの時代、こんな瀟洒な建物が奄美にあったなんて(1922年(大正11年)聖心教会完成(1902年着工)、

鹿児島にもないおしゃれな制服の女子高(大島高等女学校1924年大正13開校 1930年制服 ~1934昭和9年廃校)があったなんて・・・。また少し奄美を見る目がかわりそう。それにしてもナゼ大島高等女学校は廃校になってしまったか。そしてそのあとどうなったのか。いまに通じるさまざまな事をかんがえさせられる。

過去に読んだ奄美の古い本を読三冊読みました。

奄美カトリック迫害に関連するものです。
読了から少し時間が経ったの急いでまとめメモします。

奄美カトリック迫害wikipedia

『聖堂の日の丸―奄美カトリック迫害と天皇教』は、発売当時(1999年)名瀬の書店で買った記憶がある。
そろそろホームページを作るかとパソコン関連の本をよく買っていた。
当時名瀬には10数軒もの書店があったと記憶している。
現在は大手チェーン以外は、数えるほどもない。

あれから奄美カトリック迫害に関する新しい本も出ている、ことをこの記事を書きながら知った。

「奄美のカトリック排撃運動とカトリック教会」 谷 大二 司教
Youtube動画一時間16分 http://youtu.be/KDKtrHRqA8k?t=1s

「なぜ教会は社会問題にかかわるのかQ&A」 出版記念シンポジウム
2012年12月1日(土) カトリック大船教会(鎌倉市)

この古い三冊には最初に読んだときから、親戚や存命の知人も実名で登場するので興味深く熟読したが、内容が濃く、もう一二度再読したいと思っていたが、やっと今回、再読することになった。

それは、最近、奄美の宗教を研究する若い外国人の方とお話する機会があったことがきっかけになった。

彼の研究に関連すると思われる、以下の二冊とあわせて三冊を本棚から見つけて読んでみた、というわけ。

「悲しみのマリア」の島―ある昭和の受難 小坂井 澄  (著) 集英社 (1984/07) 

『聖堂・・』と『悲しみの・・』は↑『奄美もっと知りたい』にも紹介されています。奄美入門として人気のある本です。

『南島におけるキリスト教の受容』安斎伸 第一書房 1984

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旧日本陸軍が奄美大島(南部)と加計呂麻島との間の大島海峡防備のために奄美大島要塞。
1921年(大正12年)、その砲台設置に着手(安脚場砲台着工)するが、1922年、ワシントン軍縮会議によって中止される(1922年2月 砲台工事中止)。

奄美大島のカトリック迫害はこの↑ ことと深く関連している。

奄美の歴史のなかでもあまり語られることの少なかった、この迫害の事実は、それ以前の奄美の歴史を考える上でもとても興味深い。

日本史、そして世界史との関連も考えると、奄美の歴史のなかで実はいちばん、とっつきやすい。

「聖堂の日の丸―奄美カトリック迫害と天皇教』巻末の年表 奄美カトリックと日本近代史 は1517年の「マルティンルターによる宗教改革。」から始まる。


以下、その年表によりながら、wikipedia等で調べたものの一部 (奄美と関連があると思えることの覚え書きで厳密なものではありません。)


 

中世末期のキリスト教世界
ローマ法王庁の免罪符(カトリック教会が発行した罪の償いを軽減する証明書)乱発や聖職者の堕落への反発からキリスト教世界はローマ・カトリック教会からプロテスタントの分離へと発展する。

カトリック教会側も改革を求められるなか、1534年イエズス会が創設される。

1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで有名なフランシスコ・ザビエル(スペイン生まれ)はそのイエズス会創設メンバーの1人である。


1549年にザビエルが上陸したのは鹿児島だが、彼はその前に1547年、鹿児島出身のヤジロー(アンジロー)にマラッカで会っている。最初の日本人キリスト教徒とされるヤジローが上陸の案内をした。


日本における本格的な教会堂は、1551年(天文20年)、山口の大道寺が最初である(大内義隆によってザビエルに与えられる)(日本のクリスマスは山口から)

1576年(天正4年)イエズス会によって京都に建てられた教会堂・南蛮寺完成。(江戸時代の禁教政策で南蛮寺が建てられず、既存の教会堂も破壊され再び公然と建てられるのは幕末以降)


1593年フランシスコ会(13世紀のイタリアで、創設されたカトリック教会の修道会)
布教開始(17世紀なかばまで60名あまりが伝道した)

以下略・・・鹿児島と沖縄の間、奄美の置かれた位置を・・・・・

1609年薩摩藩幕府の命で琉球侵攻。1611年奄美は直轄地(蔵入地)(名目上は琉球の一部)。

1637年 島原の乱 日本の歴史上最大規模の一揆

1638年 薩摩藩、切支丹訴人の札。

1639年 鎖国完成

1641年 踏み絵

1844年 パリ外国宣教会の神父が琉球に入り、日本語を勉強しながら日本入国の機会を狙う。

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1853年 ペリー 沖縄→久里浜→浦賀

1891年 奄美の知識人らキリスト教宣教師招請状を鹿児島へ

1月 内村鑑三不敬事件

あ、1891年(明治24年)12月31日、パリ外国人宣教師のフェリエ神父が名瀬(大熊 名瀬市誌)に上陸したのが奄美でのカトリック布教の始まりとされています。名瀬の中心地、末広町のカトリック名瀬御心(みこころ)教会の庭にその胸像があります。末広通りに面した正門を入ったすぐ正面にありまあす。

1894 大熊に教会               

1922(大正11年) 名瀬聖心教会「レンガみどう」完成

1922年2月 ワシントン軍縮会議

1923年(大正12) 陸軍・奄美大島要塞指令部開設 wikipdia

大島中学 生徒2名 高千穂神社参拝拒否事件 このころから信者たちへの圧迫強まる

 1924年大正13年大島高等女学校開校 ~1934年3月(昭和9年)カトリック排撃運動高まり、廃校。跡に県立奄美高女。同時に教会が鹿児島市に聖名高等女学校(現・純心高校)開設

1930年 名瀬 高千穂神社 社殿新築

1932年(昭和7年)、上智大生靖国神社参拝拒否事件(配属将校に引率された学生60名のうち2名)

1936年7月 奄美大島北部 笠利(かさり)教会 消失

1937年(昭和12年) 支那事変(日中戦争)

1939年(昭和14年)8月 御心教会、名瀬町役場となる

防空演習と称して名瀬のカトリック信者宅に放水、家を壊す

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 1941年 日本、英米に宣戦布告

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