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『反復帰と反国家』―「お国は?」 (沖縄・問いを立てる 6) (単行本) 藤澤 健一 (編集)

2009年10月25日 | 本と雑誌

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『反復帰と反国家』―「お国は?」 (沖縄・問いを立てる) (単行本) 藤澤 健一 (編集) google

『南島イデオロギーの発生』―柳田国男と植民地主義 (岩波現代文庫) (文庫)
村井 紀 (著)  google

内容 「book」 データベースより

山人論を放棄して、柳田はなぜ南島論へ転じたのか。日本人の起源を南島に求め、同質的な日本を見出す「新国学」たる民俗学の成立は柳田の韓国併合への関与によってもたらされた。その他、『花祭』で知られる早川孝太郎、沖縄学の父・伊波普猷も俎上にのせ、近代日本における民俗学と植民地主義との関連を徹底追及する新編集版。

写真の二つの本の内容は激しく関連しているところがある。漫然と書店に行って、二つの本を同時に見つけることはできなかっただろう。ネット検索でも関連に気づかず買うまでにいたらなかったかもしれない。

どこで、なぜ出会えたのか?

奄美図書館郷土コーナーでとなりあっていたからだ。ことしは、薩摩の琉球支配から400年、日本国の琉球処分から130年の年でもあるからだろう。

『南島イデオロギーの発生』はまだ読み終えていない。

若い人たちの関心が高まっている「反復帰と反国家」

なぜいま反復帰なのか、奄美と「国家」?

気鋭の若手沖縄研究者たち5人が執筆している。

正直、ついていけないな、思いながら読んでいたのですが、最後に目が覚めた。

↓ 下に引用した、(徳田匡 とくだまさし)”「反復帰・反国家」の思想を読みなおす”のため息のでるほど難解な部分。しかしこの部分が一番おもしろかった。

年配の人の評価は、分かれるかもしれない。「現実離れしている」、「机上の空論」、「言葉あそび」 「汗のにおいも土の香りもしない」など。

しかし、著者が論じている新川明の反復帰論のなかにも、現実の中にいて現実を変えることができるのかという問いが含まれている。奄美のセンキョでもそう思うことがある。

現代哲学(思想)で、国家論で、奄美諸島(この本では<無国籍地帯>前利潔 )をも、こうも照らし出すことができるのか、という「発見」は新鮮だった。奄美史の視点から近代国家を超克する一つの方法になりうるだろう。

「ヤマトンチュウ」に対して奄美ではせいぜい「シマンチュウ」というのだが「ウチナンチュウ」とは誰か?という疑問はついに晴らされなかったが、そういうことは、あとで考えよう、ということか?著者自身の論も期待したい。

アンダーソンの引用も興味深い。(ベネディクト・アンダーソンは、『南島イデオロギーの発生』―P98にも引用されている。

(徳田匡 とくだまさし)”「反復帰・反国家」の思想を読みなおす”p213

 先の引用文のなかで、新川は「沖縄人」が自らを「ウチナーンチュ」と呼び、沖縄人以外の日本人を「ヤマトゥンチュ」と呼ぶ一連の表明を、「君は日本人か」という問いかけ(呼びかけ)の場面のなかで説明している。そしてそこでは、何のためらいもなく「そうだ」と応える「ヤマトゥンチュ」に対して、「内心一瞬の戸惑い」を感じながら「その一瞬間、彼または彼女の胸中を素早く駆け抜けるのは、「私は沖縄人だ」という「声にならぬつぶやき」であるという。ここで重要なのは、「君は日本人か」という問いかけに、決して十分には応えていないということである。つまりここでは、呼びかけられた人間の応答は、「私は日本人だ」とか「私は沖縄人だ」といった明瞭な応答ではなく、「声にならぬつぶやき」によってしか表現できていないということだ。
 

(略)

ここで応答の形式として、そのような同一性への回収を避けるために「君は日本人か」という問いに答えないという選択肢がありうるようにみえる。しかし、それは現実の植民地的政治状況に対する抵抗になりうるだろうか。応答しないことは、「君は日本人だ」や「君は沖縄人だ」というナショナルな同一性へのへの囲い込みに、抵抗することなく包摂されうる可能性を帯びている。アルチュセール「呼びかけ論」を修正しつつジュディス・バトラーが指摘しているように、「名づけられていることに気づかぬまま、名づけられているという状況がある。この状況は、わたしたちすべてが最初から置かれている状況、ときには最初のさらにまえにある状況ですらある。わたしたちは名称によって社会的に構築されるが、この社会構築は、わたしたちが気づかないうちに行われている。〔中略〕主体は主体として構築されるためには、かならずしも振り向く必要がないし、主体を起動させる言説は、声の形態をとる必要もない」バトラー(2004 p49)。「呼びかけ」は、呼びかけられたものがたとえ振り向かなくても呼びかけの効果を発揮する。つまり「君は日本人か」という呼びかけは、呼びかけられたものがどのような応笞を選択しようとも、ナショナルな同一性へと回収可能な呼びかけなのである。なぜなら「君は日本人か」という呼びかけは、そもそもナンョナルな同一性を前提とする立揚に立って発話されているのであって、日本人という同一性に回収するか、それとは別の同一性に回収するかという、既存のナショナルアイデンティティの構造を反復引用することのなかで可能な問いであるからだ。

 しかし、そもそもアイデンティティの表明は、対他関係抜きにはあり得ない。周知のように、帝国日本は周縁を差異として取り込かが故に中心としての「日本」を遡及的に捏造することができた。そのなかで沖縄の人びとは、「日本人へと同化すること」のなかで「差異化」された。そして戦後は、米軍統治のもと、「琉球化」することで「日本人」との「差異化」を刻印された。その後の「祖国復帰」がその反動としての「同化=復帰」であった。

(略)
 
「君は日本人か」という呼びかけは、常に既にあやまった呼びかけであるにもかかわらず、その呼びかけに応えないわけにはいかない。「呼びかけ」ヘの不可避の応答は、既存のカテゴリーの「あやまち」を引き出すことになるが、同様に、同じ不可避の応答のなかでナショナルな同一性への規範的な反復引用の様式を追認し、それに効果を与え続けてしまうことにもなる。

===引用おわり

参考 google

新川 明 1931年、沖縄に生まれ

岡本恵徳 おかもと・けいとく 1934(昭和9)年沖縄-2006(平成18)年

岡本恵徳 「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし

『国家を歌うのは誰か?―グローバル・ステイトにおける言語・政治・帰属 (単行本)

吉本隆明 wiki異族の論理

琉球・沖縄は現状のままでは地獄、本土復帰しても、米軍基地をとりはらっても、地獄にきまっている」(「異族の論理」『文芸』1969年)