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「奄美の歴史とシマの民俗」 (単行本) 先田 光演 (著)

2009年10月18日 | 本と雑誌

091018bookamamihistory 奄美の歴史とシマの民俗 (単行本)
先田 光演 さきだ・みつのぶ (著) google

登録情報
単行本: 375ページ
出版社: まろうど社 (1999/06)
ISBN-10: 4896120213
ISBN-13: 978-4896120219
発売日: 1999/06
商品の寸法: 19 x 12.6 x 3.4 cm 

構成

1.沖永良部島の古墓石
2.奄美諸島の遠島人について
3.琉球大砲船と奄美
4.沖永良部島の年中行事

=====この記事は、きのう記事後半(琉球の地割制度)からのつづきです。

一 1609年(慶長14) 琉球王国からの割譲
二 1623年 「大島置目之条々」の布令
三 1728年 「大島規模帳」「大島物定帳」「用夫改規模帳」の布令
四 1745年 換糖上納令の発布
五 1777年 第一次惣買入制の実施
六 1830年 第二次惣買入制の実施
七 1873年(明治5)砂糖専売制を廃止し、大島商社を設立する。
八 1879年(明治12)砂糖の自由売買が行われるようになった。

400年前の1609年(慶長14)薩摩の軍船が奄美大島に侵攻して
いきなり、砂糖地獄と言われるような厳しい収奪体制が敷かれたわけではない。

↑ 上は、本書において、藩政時代に入ってからの奄美諸島(特に奄美大島)の支配政策が段階的に強化されていった時期をを藩の政策によって区分けしたものである。

文仁演(ぶにえん 人名)の越訴事件は、1733年に起こる。

おっそ【越訴】
(一定の順序を経ないで、直接上級の官司に訴えること。律令制以降、全時代を通じて原則として禁止され、特に江戸時代はこれに厳罰を与えた。(おっそ)

文仁演事件は、↑ 上の、三の時代、藩による本格的な奄美収奪の政策が取られはじまる時期にあたる。

1733-1609=124年経っている
1868(維新)-1733=135年後

薩摩藩はは、郷士制度や耕地を強制的に分割・分配する門割(かどわり)制によって独特、巧妙な農村支配を行い「百姓一揆のない国」と言われ 1858年の加世田一揆以外、強訴、越訴、逃散などは見られないが奄美ではたびたびの越訴や逃散がみられる。(このことはすでに学んだ)。

これは、藩政時代当初の「馴致策」や、「代官や附衆の不埒(ふらち)を藩へ申しでよ」との申し渡し書(1671年)もあるように藩があいまいな姿勢を示したことなどによるが、
なんといっても古代・中世を豪放闊達に生きてきた島民性によるものだと見ることもできる。(黒糖悲歌の奄美 前田長英p230)(これは現代でもどかかにひそんでいるのではないか)

さて、文仁演(ぶにえん)の越訴事件とは?

島役人藩庁へ越訴・・その結末は。

大島度連方の与人(よひと)文仁演(ぶにえん)は親類筋の稲里(いなさと)らに、大量の米を借りていたが、返済できず、利息もふくらんでいた。

そこで、稲里(いなさと)らは、代官(鹿児島からの派遣役人)の北郷伝太夫に賄賂を贈り、文仁演に対する債権取立てを願う。

(中略)いろいろあって、だまされ、ほとんどの財産や「下男下女」までもなくしてしまった文仁演(ぶにえん)は、民間の貸し借りに介入して私腹を肥やした代官北郷伝太夫が許せない。

文仁演(ぶにえん)、覚悟を決め藩庁へ越訴。

越訴状を見た藩庁の重役たちの衝撃はことのほか大きかった。

文仁演(ぶにえん)はだだの農民ではなかった。代官所の指示に従って方(群)行政全般を担当する島役人である与人(よひと 長官)であった。こうした島役人には琉球王国以来の旧家の一族が就いた。(代官に賄賂を贈った稲里(いなさと)らもそうした一族であった)

事件の結末は、文仁演(ぶにえん)ら当事者のみならず大島の与人役全員が罷免されるという大事件に発展している。

それは、なぜか。藩が下した判決から読み取れることとは。

以下、本書からの引用(p126)は、一番注目した部分なので長いけれど書いておきます。

藩の処置は、代官所役人と与人文仁演側・稲里側に対してはそれぞれ異なっていた。代官に対しては先の「大島規模帳」の令達を適用して厳しい処断を下し、島役人については遠島や解任を行ったものの、数年後にはその一族が島役人に復帰している。

文仁演一族の七島遠島は「越訴之科」によるものであり、島人同士の貸借のトラブルは断罪していない。このことは「下男・下女」がすでに存在していた島社会における家人制度が、奄美大島独自のものとして形成されつつあることに、藩府としても関与できなかったことを表しているのであろう

 薩摩藩は、藩本土で一貫して取り続けてきた門割制度郷士制度が、奄美社会には適用できないことを承知していたのであり、島内での貸し借りによる身売りや処分方法は、当事者同士の問題としてとらえていたものと考えられる。

それだけに、島役人の権限は強大であったといえるであろう。

奄美諸島のシマ社会は、薩摩藩の支配下に入っても琉球王国時代の村落共同体的な身内意識が強固社会であり、近世封建社会における薩摩藩内の門割制度は導入することができなかった
 文仁演事件で奄美大島のすべての与人が解任されているが、当事者であった文仁演も後に赦免となって帰島しその子孫は再び島役人として復権している。また、稲里一族も兄弟や子供にわたって代々与人役を勤めている。おそらく、他の解任された与人たちの子孫同様に島役人として再び任命されたであろう。
 この事件は、島役人を琉球王国時代の意識から断ち切り新興勢力の台頭をはかるための機会として利用されたといわれるが、奄美社会の状況下では貫徹することができなかったと考えられる。
 奄美諸島においては、薩摩藩の内検によっても農民の分断再編は行うことができなかったのである。
そのため、島役人階層の権力は世襲制であり、藩役人の権限も及ぶものではなかった。
 「本琉球支配之節儀を今以申上候儀ハ、其遠慮可有之儀候、御蔵人候而ハ皆百姓ニ而候」と命じてもシマ社会の構造を変えることはできなかったであろう。
この後、砂糖政策が強化されるようになって、シマ社会の内部からだんだんと変質していことになる。島役人の社会でも新旧の交替が進み、財力を蓄積しながら砂糖の増産に目ざとく励み、シマの貢納を肩代わりして家人を抱える豪農が出現して、奄美社会は大きく変革していったのである。

引用おわり。これまで素朴にいだいていた島民像をくつがえし、奄美の歴史を見る視点の転換を促されているようだ。

本書では、ほかに、「幕府の公儀流人」「『種子島家譜』の遠島記事」奄美諸島間の流人、琉球からの流人などについても述べられていて新鮮だ。

沖縄県浦添市教育委員会が1987(昭和62)年に発行を始めた『琉球王国評定所文書』の中に豊富に存在することがわかった奄美諸島に関する記録を読み解くことによって、これまで薩摩藩側の文書のみに依存し、藩の支配政策の研究に集中していた奄美の歴史研究がさらに進展し、琉球と奄美のつながりが質量ともに豊かな広がりをもっていたことを解明できるであろう、と著者は期待している。p208

本書の刊行から10年が経った。

=====この記事は、きのう記事後半(琉球の地割制度)からのつづきです。