エイトル・ヴィラ=ロボスは1887年、ブラジルのリオ・デ・ジャ・ネイロで生まれました。
父ラウールは、国立図書館に勤める文人で、すぐれたアマチュア音楽家でした。
彼は、エイトールにチェロやクラリネットを熱心に教え、また彼の叔母さんもピアノを
教え、さらに彼はギターも習得し、リオの街の民族楽団に参加するようになります。
12歳のときに、父は早世し、ヴィラ・ロボスは生活のためにチェロをひいて独学で勉強
を続けました。
彼は、オーボエを除き、オーケストラのすべての楽器を演奏することが出来たらしい。
なるほどねえ。それであんなにむずかしいピアノ譜を書くし、オーケストレーション
もおもしろいんだ!
1905年には、ブラジル東北部に民謡の収集にでかけ、ごくわずかな期間だけ、リオ・デ
ジャネイロの音楽院でアカデミックな訓練を受けるが、彼の音楽教師は、自分自身と
膨大なスコアだった。すごいですね!
1923年にパリに留学。この間に、アントゥール・ルビンシュテインや、エドガー・ヴァーレー
ズらと交友を結ぶ。
私は、好きな芸術家の伝記を読むのが趣味で、そこでの交友関係が特に気になり(笑)
天才どうしの交流の場面は、すごく興奮してしまうのですが(笑)
プロコフィエフの伝記を読んでいたときに、このヴィラ・ロボスもよく友人として登場して
いました。
プロコは以前、Ⅱのブログのお墓シリーズで書きましたが、
http://blog.goo.ne.jp/albalb23/m/200802
彼の伝記は過激で、当時の新しい音楽に対する民衆の反応や、交友関係がすごくて、
読み手としては非常におもしろいです。
たとえば、1927年にパリで《鋼鉄の歩み》のセンセーショナルな初演には、
ピカソ、ストランヴィンスキーとコクトー、ラヴェル、ルーセル、シュミット、オーリック、
プーランク、ロボス、レスピーギ、コープランド、ピアノのコルトーとホロヴィッツが並び、
精神病院から連れられてきたニジンスキーもうつろな目で舞台を見ていた・・・
などというくだりがあります。どんな会場なんだ!ニジンスキーもきていたか・・・と思わず
感慨にふけってしまう、という具合。
プロコの伝記は非常におもしろいので、また後日取り上げます。
ということで、話がそれましたが、ヴィラ・ロボスは幅広い芸術家の喝采をあび、
1930年に帰国。代表的な連作、さまざまな楽器のための「ショーロス」(14曲)から
代表曲となる「ブラジル風バッハ」全9曲を書き上げます。
そして、リオ・デ・ジャネイロの音楽院の院長に就任してブラジルの民俗音楽に
根ざした作品を創作し、祖国の音楽環境の向上に主導的な役割を果たしました。
晩年まで旺盛な作曲、指揮活動をし、1957年ニューヨークで倒れ1959年故郷リオ・
デ・ジャネイロで72年の輝かしい人生を閉じました。
彼の伝記『白いインディオの想い出』は、彼の直弟子が書き、その孫弟子の日本人
の鈴木裕子さんが訳した物で、これも非常におもしろく、別にヴィラ・ロボスのお墓の写真
もあるので、これもまた後日書きたいです。
尚、今回の冒頭の写真は、アルバム『Heitor Villa=lobos BACHIANAS BRASILEIRAS
No.7,9,8』からで、演奏もいいと思います。