人と話していると、自分が外に出てしまう。
なんていうか、枠組みの外に。
相手のつらさとか抱えてる問題に組み込まれない自分を感じる。
そんなの、会話の常識上、あたりまえのことなんだけど。
たとえ、相手が自分のことで悩んでいても、そういう直接的なことを言う機会っていうのは、とても少ない。
そうだった。私もいろんな場面で言わないままだった。
私にとって、重要な人たちに、いかにかれらが私にとって重要か、ということを伝えないままだった。
そうこうする内に、年月はすぎ、っていう感じ。
最近、母と話したこと。
「お母さんは、私のやることにいつも否定的だ」
「・・・言葉ではそうかもしれないけど、行動においてはいつも全肯定やん」
あぁ、そうかもしれない。
ぼくらは言葉の力を信じすぎなのかもしれない。
言葉の表面に、力を持たせすぎてしまうのだろう。
言葉には、おもてうらがあるんだ。
裏を読む、というのは、穿った見方をする、っていうよりも、話している人が置かれている状況を読みとる、ってことなんだと思う。
言葉だけでなくて、もっと相手の存在全体に思いを馳せる、というか。
まぁ、むずかしいけどね。
それができるかどうかは、yes or noの世界でなくて、グラデーションなんだと思う。
比較的よくできる人と、あんまり上手でない人がいるというか。
つまり、ここまでできたら合格、とかそういうラインがあるわけでない、というか。
ただ、やっぱりね、年を重ねてる人に、ときどき、すごく人の状態を見抜くのがうまい人がいて、年を重ねることのいい面をまなぶ気がしている。
あぁ、ちょっと待って。
そういうことができる人は、小さい意味での自我を消しているのかもしれないなぁ。
つまり、私が、自分がいなくなる、と感じるのは、まちがった方向でもないかもしれない、ってことだけど。
ただ、自分がいなくなって、くるしい、とか、かなしい、とか思う内は、むりに消えてしまわないことだろう、と、未熟な私は思っている。
でも、消えちゃうんだよなぁ・・・。
なんていうか、枠組みの外に。
相手のつらさとか抱えてる問題に組み込まれない自分を感じる。
そんなの、会話の常識上、あたりまえのことなんだけど。
たとえ、相手が自分のことで悩んでいても、そういう直接的なことを言う機会っていうのは、とても少ない。
そうだった。私もいろんな場面で言わないままだった。
私にとって、重要な人たちに、いかにかれらが私にとって重要か、ということを伝えないままだった。
そうこうする内に、年月はすぎ、っていう感じ。
最近、母と話したこと。
「お母さんは、私のやることにいつも否定的だ」
「・・・言葉ではそうかもしれないけど、行動においてはいつも全肯定やん」
あぁ、そうかもしれない。
ぼくらは言葉の力を信じすぎなのかもしれない。
言葉の表面に、力を持たせすぎてしまうのだろう。
言葉には、おもてうらがあるんだ。
裏を読む、というのは、穿った見方をする、っていうよりも、話している人が置かれている状況を読みとる、ってことなんだと思う。
言葉だけでなくて、もっと相手の存在全体に思いを馳せる、というか。
まぁ、むずかしいけどね。
それができるかどうかは、yes or noの世界でなくて、グラデーションなんだと思う。
比較的よくできる人と、あんまり上手でない人がいるというか。
つまり、ここまでできたら合格、とかそういうラインがあるわけでない、というか。
ただ、やっぱりね、年を重ねてる人に、ときどき、すごく人の状態を見抜くのがうまい人がいて、年を重ねることのいい面をまなぶ気がしている。
あぁ、ちょっと待って。
そういうことができる人は、小さい意味での自我を消しているのかもしれないなぁ。
つまり、私が、自分がいなくなる、と感じるのは、まちがった方向でもないかもしれない、ってことだけど。
ただ、自分がいなくなって、くるしい、とか、かなしい、とか思う内は、むりに消えてしまわないことだろう、と、未熟な私は思っている。
でも、消えちゃうんだよなぁ・・・。
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