一人であることの意味

2007-12-19 23:54:24 | テレビっ子
(以下、水曜ドラマ『働きマン』の最終回を見てて思ったことなんですけど…)

小さい頃から、周りから浮いた存在だった。(‘浮いていた’というより‘沈んでいた’という表現の方が正しいかもしれないけど。)

いちいち理屈で考えないと、動けない。

小学生の頃、クラブ活動で、‘多数決の暴力的な側面’について訴え、担当の先生からは煙たがられた。(といっても理路整然と表現するだけの能力はなかったので、自分としても不完全燃焼だった。)

学習塾には通ったことがない。そういうところでは、自分の可能性をつぶされると直感的に思った。(たぶん、LD[学習障害]があるため、勉強に関して人と意見があったことははない。)

いなかで育って、周りの人達に愛着は感じていたけど、自分の居場所はここじゃないと感じていた。

そういう中で、自分はひとりだという意識を持ってきた。

それは本当なんだと思う。

人ってそれぞれ、能力とか、求めている生き方とか、ほんとにさまざまで、だから人のすることにたいして、ほとんどの場合は、どうこう言えないし、自分は自分の判断でその時、正しいと思えることを選んでいくしかないのだと思う。

そういうことがこわくて、甘えたい気持ちもいっぱいあるし、そうなんだけど、決めるのは自分よ!って思ってる自分もいる。


いつになったら、人生始まるんだろう、と思ってたけど、最初っから、始まってたみたいだ。(←わかりにくい言い方ですね。)

最初っから、自分の行きたい場所に向かって、ずっと、進んできているみたいだ。

自分の道を進むために、それまで居た場所を涙ながらに離れることもあった。

そこまで自分をつき動かすもの。

それがなければ、わたしは基本的に無気力な人間だ。

挫折のあった時期は、本気で廃人になろう(そんなの意思をもってなれるものでもないだろうけど)かと思ってたこともあった。

曽野綾子さんのことばで、「人はしたい事ではなくて、すべき事をしたときに本当の満足を得られる」というようなのがあった。

勝手に自分の使命だと思い込んでいるもの。

そういう思い込みって不思議なんだけど、それはしたい事という以上に、すべき事っていう色味をおびて、自分の心の中に存在している。

内側から湧き上がってくるものに、つき動かされて動いていく、っていう点においては、人はひとりで生きていく必要があるんだと思う。

そして、それを表現したときに、協力してくれる人、協力しあえる人が現れてきて、そこに連帯が生まれる。そのとき‘ひとりぼっちじゃないかも’って思えるわけで。

どこまで自分はひとりなのか、どこから社会の一員なのか。

それらの境界線をある程度わかっていると、人に甘えすぎて傷ついたり、ひとりだと思って突っ走りすぎたりすることが、減ってくるんだろうと思う。

自分のことも、人のことも、ちゃんと信じたい。

そうしてることで、現実の毎日が理想の生活に近づいていくのではないかと思ってみたり。

還元主義reductionist。

あ、そういう意味での還元主義なら、実質的に人の役に立つ考え方のような気がする。
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