摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

出雲伊波比神社(いずもいわいじんじゃ:入間郡毛呂山町)~流鏑馬で著名な当社と出雲祝神社との関係

2023年02月25日 | 関東

 

出雲に関心がある身には、これ以上ないと言いたくなる素敵なお名前を持つ神社が北武蔵の埼玉県にあるというので、参拝をさせていただきました。東武越生線の東毛呂駅が近づくころには遠目に見えるくらいの大規模な社叢が圧巻で、県道39号線側の鳥居から入るその社叢内の参道は異界のような神聖さを感じました。とにかくよい空気が吸えた感じで、とても良い雰囲気を持っている神社という印象です。その参道と合流する車道もなかなかの雰囲気ですが、ここはやはり県道側鳥居からの杜の参道を歩いて神社正面の鳥居へ行くルートがお薦めです。

 

県道39号線から見た社叢

 

【ご祭神・ご由緒】

ご祭神がとても多い事もこの神社が目を引くところです。主祭神は、大名牟遅命と天穂日命ですが、さらに合祀神として大山咋命、大日孁貴命、天鈿媛命、高龗神。そして配祇神として、須勢理比売命、息長足姫命、豊受姫命、菅原道真、迦具土神、素盞嗚命、建御名方命、大国主命、少彦名命、上筒之男命、伊弉諾尊、伊弉冉命、誉田別尊、大雷神らの多くの神様がお祀りされています。

社伝として「臥龍山宮伝記」によると、景行天皇の53年に日本武尊が東征の折にこの地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾をおさめ神宝とし出雲の大名牟遅命をまつったとされ、また、成務天皇の御代に武蔵国造兄多毛比命が出雲の天穂日命をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされています。「日本の神々 関東」で原島礼二氏が、「式内社調査報告」での伊藤勇人氏による、゛本来は出雲系の神を祭ったものが、時代を経るごとに勧請・合祀されて上記の如く増加したものであらう゛とのお考えを紹介されていました。

 

県道側の鳥居

 

【式内論社と奈良時代の幣帛漏落事件】

「延喜式」神名帳の武蔵国入間郡の小社として「出雲伊波比神社」が載り、当社はその論社ですが、他も下記の候補が検討されてきました。

  • 出雲伊波比神社(当社)
  • 出雲祝神社(埼玉県入間市宮寺)
  • 物部天神社(埼玉県所沢市:ここに合祀された)
  • 川越氷川神社(埼玉県川越市)

このうち有力視されているのが、当社と出雲祝神社です。

 

杜の中の参道。歩くと見出し写真の鳥居前に着きます

 

出雲伊波比神社という名は、奈良時代末の太政官符に見えていて、772年のその内容を「日本の神々 関東」記載の原島氏の現代語訳で記載します。

゛去年の九月二十五日付の武蔵国造の解(上申した文章)には、以下のように書いてある。「今月十七日に入間郡の正倉が四棟焼けました。焼け失せた稲は、一万五百十三石。また百姓十人が重病となり、頓死するものが二人でした。そこで占ってみたところ、入間郡家の西北の角にある出雲伊波比神の祟りだという事が分かりました。その神がいうには、私は常に朝廷から幣帛をうけていたが、最近は支給されなくなった。そこで郡家の内外にいる雷神をひきいて、この火災を起こしたのだ、というのです」云々゛

 

境内

 

ここでは出雲伊波比神社は入間郡家(郡役所)の西北方向に有ったことが明記されていますが、その郡家の所在がわからないので式内社論争に決着がつかないままになっている、という状況になっています。「出雲を原郷とする人たち」での岡本雅亨氏によると、確かに755年の符には゛武蔵国幣帛に預る社四処・・・入間郡出雲伊波比神社゛とあったようで、この確認により幣帛の奉献に漏れがあったとされて、右大弁藤原百川(鎌足の曾孫)らの著名で前例にならって奉幣するように神祇官に指示されたようです。

この一件に関して岡本氏は、「古事記」にあるような、崇神天皇の段での疫病のまん延や、垂仁天皇の段での言葉を発することができないホムチワケなど、出雲大神の祟りに起因するとされる話との関連性に留意され、出雲服属の経緯に端を発する出雲大神の祟りを恐れる畿内人の意識が有り、出雲伊波比神イコール出雲大神であればこその話だと考えられていました。

 

拝殿

 

【入間市の出雲祝神社】

もう一方の有力論社、入間市の出雲祝神社についてです。

「官寺小史」(1975年)によると゛出雲民族の総社で出雲大社の分家の如きもの゛と説明されていると、岡本雅亨氏が上記の書で紹介されています。社叢は天穂日命の子孫が武蔵へ来た時に出雲から持ってきた樹種を撒いて出来た寄木森だとの伝承があり、寄木明神と呼ばれたようです。また、ご神体は、天穂日命が上半分を杵築大社(出雲大社)に残し、下半分を持参した石棒だとの社伝や、出雲大社と同じ神紋(二重亀甲に剣花角)を使っている点など、出雲大社との関係が深いです。平安時代には菅原道真(土師氏の子孫)の三男(道武)が参拝して道真公の像を納めたり、明治時代には千家尊福(第八十代)出雲国造が直筆の扁額を奉納したり、さらに石碑を建立されていたりで、出雲と関係する有名人との縁も深いです。

 

垣の中の本殿と天神地祇神社

 

【越後、信濃からつながる゛出雲イワイ゛神社】

岡本氏は、越後からこの北関東地域まで、出雲系の出雲祝(イワイ)系の古社がつながっていると指摘され、興味深いです。北から順番に並べると以下の通りです。こう見ると、祝(イワイ)の語源が、磐・石(イワ)だったんだろうと想像されます。

  • 石井(イシイ)神社(新潟県出雲崎町。「特撰神名牒」が式内社石井(イワイ)神社に比定) ご祭神:大国主命
  • 祝(ハフリ)神社(長野県千曲市。須須岐水神社境内。旧御穂須須美神社) ご祭神:御穂須々美命
  • 小祝(オボリ)神社(群馬県高崎市) ご祭神:少彦名命
  • 出雲乃伊波比神社(埼玉県大里郡) ご祭神:須佐之男命
  • 伊波比神社(埼玉県比企郡) ご祭神:天穂日命
  • 出雲伊波比神社(当社) ご祭神:大名牟遅命
  • 出雲祝神社(埼玉県入間市宮寺) ご祭神:天穂日命

なかでも関東平野西北部の扇状地にあたる武蔵・上野国境界地には、北陸の能登経由で伝播した出雲信仰の足跡が残るとし、「式内社調査報告」でも小祝神社と能登の大穴持神並びに宿那彦神像石神社との関連性が指摘されているようです。古代の出雲人の関東方面への移動経路が浮かび上がってきます。

 

重要文化財の本殿

 

【中世以降歴史】

中世から近世にかけては、「茂呂大明神」「毛呂明神」「飛来明神」「八幡社」などとよばれていました。伊藤勇人氏によると、現在に至る出雲伊波比神社の名が記される始まりは、1811年の斎藤義彦による「臥龍山宮伝記」からのようです。また、「飛来明神」と呼ばれる理由については、1828年の「新編武蔵風土記稿」に説明があります。つまり、この神が元来、毛呂氏代々の氏神であり、堂山村(現在の入間郡越生町堂山)にある最勝寺所蔵の大般若経奥書に、「延徳四年(1492年)六月二十八日、於臥龍山蓬莱神書継之」と書かれている事から、飛来はおそらく、この蓬莱を誤り伝えたのではなかろうか、ということです。

 

戦前当時に国宝だったことを示す石標もありました

 

【社殿、境内】

本殿は、室町時代の建築様式を持ち、戦前は国宝にも指定されましたが、戦後は国の重要文化財になりました。一間社流造の銅板葺ですが、以前は柿葺でした。1527年に火災にあい、翌年再建されていることが同年の棟札からわかっています。1533年、1574年、そして1633年に部分的な修理がされ、昭和32年にも解体復元工事が施されました。

本殿向かって右手に鎮座するのは天神地祇神社で、元々の境内社であった八幡神社本殿に、春日社、神明社、松尾社、稲荷社、季光社(ご祭神は藤原季光)などを合祀したものだと、原島氏が上記の書で書かれていました。

 

流鏑馬の馬場。入口側から

 

【神事・祭祀】

境内でもう一つ目を引くのが、やはり西側を貫く流鏑馬の馬場です。神社の掲示によると、毎年11月3日に行われ毛呂山の秋の風物詩として親しまれているとの事。始まりは平安時代の後期、源頼義、義家親子が奥州平定の為に当社に戦勝を祈願し、凱旋途中の1063年に再び立ち寄り、流鏑馬を奉納したのが起源と伝えられています。乗り子は小中学生が務めるという全国的にも珍しい行事で、乗り子は10日間、稽古・精進を重ねて本番に臨むとうことです。朝夕行われるうちの夕的では、勇壮な騎射のほか、ムチ、ノロシ、扇子などの馬上芸も披露されます。

 

社殿と馬場

 

【伝承からの創祇氏族思案】

氷川神社の記事でも触れましたが、関東の出雲族の話を聞くとき、東出雲王国伝承に馴染んでしまうと、さてその出雲族は旧出雲王国系なのか出雲国造系なのかと考えてしまう事になります。入間市の出雲祝神社の話を見る限り、御由緒や近代においても出雲国造との関りが深いことから、出雲国造系なのでしょうか。単純な見方としては、ご祭神が単独で天穂日命なら出雲国造系と見ておきたくなります。となると、当社出雲伊波比神社も天穂日命が祀られていますが、そもそも大名牟遅命を祀っていた社伝を重視すると旧出雲王国系の式内社と言えるのかどうか・・・出雲国造は古墳時代以降に政治的力を持つわけですから、天穂日命が後から合祀されていくという想像です。出雲国造は大和王権に協力して出雲服属に加担した側だというのは、出雲伝承のみならず一般的にも語られている事ですから、それこそ最も祟られる御立場になるとも言えます・・・だから式内社としてのそもそもの出雲伊波比神社は旧出雲王国系ではないかと思っています。

 

天神地祇神社

 

出雲伝承では、自身が出雲系だと自負していて、高槻に住んでいた当時に出雲王国にも出向いたという大彦命は、北陸方面に向かった後、信濃に入って亡くなり川柳将軍塚古墳(長野市篠ノ井石川)に葬られたと、富士林雅樹氏が「出雲王国とヤマト王権」に書かれています。興味深いのは、その古墳と上記した千曲市の須須岐水神社が千曲川を挟んで3キロ程度の距離にある事です。大彦命の後裔・阿部氏は武蔵国に入り、氷川神社の祭祀氏族となったとみられる話があったり、その信濃の地と武蔵国を繋ぐ移動経路があったとするお話にはとても感心しました。そもそも弥生時代中期頃の時代に建御名方富命が出雲から越後を経由して信濃に入ってたらしいので、早くから関東各方面への回路があったと想像します。

 

馬場から見た社殿

 

(参考文献:毛呂山町公式HP、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、谷川健一編「日本の神々 関東」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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