摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

十市御縣坐神社(とおちのみあがたにますじんじゃ:橿原市十市町)~事代主命で始まる十市県主系図のこと

2022年06月11日 | 奈良・大和

 

だいたい、東に三輪山、西に多神社(その先に二上山)、そして南に耳成山が有るという絶妙な立地で、大和盆地の田畑に囲まれた集落の中にひっそり鎮座する神社です。駐車場はなく、境内もけして大きくありませんが、きっちりと木々が整った感じでよく手入れされていると思われる境内は、なかなかさわやかな印象でした。

 

・入口の鳥居。扁額に豊受大神と刻まれます

 

【ご祭神・ご由緒】

現在の主祭神は、豊受大神。配祇として市杵島姫命がお祀りされています。「延喜式」神名帳にも載る神社で、大和国に七つの御県神社が記されています。

 

高市郡 高市御県神社(名神大、月次新嘗)

・葛下郡 葛木御県神社(大、月次新嘗)

十市郡 十市御県坐神社(大、月次新嘗)

城上郡 志貴御県坐神社(大、月次新嘗)

・山辺郡 山辺御県坐神社(大、月次新嘗)

添下郡 添御県坐神社(大、月次新嘗)

・高市郡 久米御県神社三座

 

御県とは、4~5世紀のころ、大和政権がその王領ないし服属地に対して設定した行政上の単位と言われていて、「日本書紀」大化元年(645年)に゛其れ倭国の六県に遣さるる使者゛と書かれています。後世には、県から甘菜、辛菜のほか、酒、水、氷、薪などが朝廷に献納されました。ただ、七社のなかで久米御県社は事情が違うようで、「延喜式」祈年祭祝詞では社名が始めの六社しか出てこなかったり、久米社だけが小社だったりします。これは、御県の実体や機構が失われてしまったと考えられる平安時代に久米社が御県神社として公認されたためだと、「日本の神々 大和」で木村芳一氏が述べられています。

 

・鳥居横に神池があります

 

【祭祀氏族・神階・幣帛等】

十市県主は当社を中心に十市郡に勢力を持っていた豪族と考えられ、「和州五郡神社神名帳大略注解」に載る「十市県主系図」や記紀の記載から、磯城県主から分かれたとするのが通説だと、「日本の神々 大和」で大和岩雄氏が書かれています。それは、その系図では、十市県主五十坂彦の注に、孝昭天皇の時代、春日県が十市県に改称したので春日県主を十市県主というようになったとある事と、さらに、「日本書紀」では孝霊天皇の皇后細姫が磯城県主大目の女細姫(本文)とか、十市県主の娘(一書)と書かれ、一方の「古事記」では十市県主大目の娘と書いている事などを勘案してのことのようです。

関連して大和氏は「日本古典文学大系・日本書紀・上」の、゛十市県主系図などの記載をそのまま信ずるわけにはいかないが、何らかの古い伝承が系図に残されていると思われる゛や゛春日県が十市県に改められたか、あるいは春日県主氏が磯城県主氏または十市県主氏に併呑されたかいずれかによって、春日県がかなり早く消滅した事は事実であろう゛という文章を引用し、「十市県主系図」に検討価値を見出されていました。

 

・拝殿

 

当社は奈良時代の「大倭国正税帳」(730年)に1068束という、十市郡では太(多)神社に次ぐ蓄積稲量の財力を持つことが見えています。「新抄格勅符抄」には806年に神封二戸が給され、「三代実録」には859年に従五位下から従五位上に昇叙されたと記されています。「延喜式」では大社に列し、祈年・月次・新嘗の案上官幣に預かっています。

 

【中世以降歴史】

社蔵の棟札には「藤楽寺」の寺名がみえ、室町時代には神宮寺があったようです。その室町時代にはこの地を本貫として大和武士団の一つ十市氏が居ました。境内にあった大日堂の本尊大日如来坐像は、明治の廃仏毀釈の際に神社西南の正覚寺に移され、今も存在します。

 

・瑞垣。綺麗に塗りなおされています

 

 

【十市県主系図】

まずは、記紀における孝霊天皇と孝元天皇の后妃に関する説明を一部記載します。微妙に違いが有りますが、ほぼ同様な人物を指しているように思えます。

 

「古事記」

・孝霊天皇(フトニ命)

  • 后 十市県主の祖先大目の娘 細比売命 - 子 孝元天皇(クニクル命)
  • 妃 意富夜麻登玖迩阿礼比売命(クニアレ姫) - 子 母々曽比売命(モモソ姫)、大吉備津彦命ら
  • 妃 クニアレ姫妹の蠅伊呂杼(ハエイロド) -  子 若彦建吉備津彦命ら

・孝元天皇

  • 后 穂積臣ら祖先内色許男の妹内色許売命(ウツシコメ) - 子 大彦命、開化天皇(オオビビ命)

 

「日本書紀」(本文)

・孝霊天皇(フトニ命)

  • 后 磯城県主大目の女細媛命 ‐ 子 孝元天皇(クニクル命)
  • 妃 倭国香媛(クニカ姫≒クニアレ姫?) - 子 百襲姫命(モモソ姫)、大吉備津彦命(彦五十狭芹彦命)ら
  • 妃 絚某弟(ハエイロド) ‐ 子 稚武彦命(若彦建吉備津彦命、吉備臣先祖)ら

・孝元天皇

  • 后 穂積臣ら祖先内色許男の妹鬱色謎命(ウツシコメ) - 子 大彦命、開化天皇(オオビビ命)ら

 

・本殿。一間社春日造

・隅木無で疎垂木という古風な形式。檜皮葺。築造時期は分かりません。

 

これに対し、事代主命を始祖として始まる「十市県主系図」では大目や細姫は出てきません。大和岩雄氏が引用する阿部猛氏のお考えでは、゛もし十市県主の後裔が、自らの家柄を誇示する為に系図を偽作するならば、「古事記」「日本書紀」を最大限に利用してよさそうなものである。ところが、孝霊天皇の皇妃について、「古事記」が細比売命を挙げ、「十市県主大目女」としているのを用いていない点は注意されるから、系図は少なくとも「日本書紀」編纂時において「一書云」といわれる如き伝承を直接表現しているかもしれない゛と、細姫に関する記紀との記述の違いに注目され、系図になんらかの根拠を想定されているようです。

また、「日本の神々 大和」に掲載されている「十市県主系図」の、十市県主になって以降、大日彦の子として気になる姉妹の名前が出てきます。

  1. 倭国早山香媛 亦日絙某姉媛 孝霊天皇妾妃
  2. 倭真舌姫   亦日絙某弟媛 孝霊天皇妾妃

下線を引いた文字の類似性(よく言われる、写し間違い?)や、共に孝霊天皇の妃だと注記されてることから、これらは1がクニカ姫≒クニアレ姫、そして2がハエイロドの事だと考えたくなります。

 

・五社神社。大日靈女貴命、春日大神、廣幡八幡神、熊野大神、菊理日女命。

 

【伝承】

東出雲王国伝承は、旧東出雲王国・富氏の分家として弥生時代に大和にやってきた登美氏が磯城県主だったと、はっきりと述べています。登美氏の最初が事代主命の子天日方命、つまり「十市県主系図」の鴨主命の亦の名と一致し、その子の建飯勝命以下が登美氏即ち磯城県主と理解されます。そして建飯勝命の兄弟の大日諸命が春日県主として分かれ、さらに十市県主に変わったという流れに見えます。なお大日諸命は゛春日宮゛の祝になり、その宮は後に多神社になったと「多神宮注進状」は書いています。さらに、建飯勝命、大日諸命とのもう一人の兄弟、渟名底仲媛は安寧天皇の皇后です。

 

・四柱神社。天之御中主神、高御皇靈神、神御皇靈神、天照皇大神

 

出雲伝承における孝霊天皇と孝元天皇の后妃について、「古事記の編集室」(斎木雲州氏)、「親魏倭王の都」(勝友彦氏)では以下のように主張されてます。

 

「古事記の編集室(古事記と柿本人麿)

孝霊天皇(フトニ命)

  • 后 登美氏のクニアレ姫 - 子 大彦命、モモソ姫
  • 妃 クニアレ姫の妹ハエイロド ‐ 子有り
  • 妻君 細姫命 - 子 大吉備津彦命、若彦建吉備津彦命、孝元天皇(クニクル命)

(斎木氏によると記紀では、"大キビツ彦と若キビツ彦の母は、別人の妃が生んだと書き替えられた゛とも書かれています)

・孝元天皇

  • 妃二人 物部氏の姫 - 子 開化天皇(オオビビ命)

 

「親魏倭王の都(魏志和国の都)

孝霊天皇(フトニ命)

  • 后 細姫命 - 子(兄弟) 大吉備津彦命(細姫息子)、若彦建吉備津彦命
  • 妃 (明記なし) - 他の御子たち(孝元天皇(クニクル命))

・孝元天皇

  • 后 登美氏のクニアレ姫 - 子 大彦命、モモソ姫、開化天皇(オオビビ命)
  • 妃 物部氏のウツシコメ

(ただし、別では゛オオビビは物部氏の血を持つ゛とも書く。ウツシコメの子の間違いか?)

勝氏の本ではさらに、大彦が高槻市に住んでいた頃、出雲王家に援助を求めにやって来た事が有り、その時大彦が゛自分はクニアレ姫とクニクル王の子で、出雲富王家の親戚なので、守ってほしい゛と言ったと聞いている、とまで書いています。なぜ斎木氏がこの話に触れないのか不思議ですが・・・

 

・小さな祠。奥より八幡神社、八坂神社、玉津神社(夜通郎女命)。磐座は金毘羅さんでしょうか。

 

つまり、お二人で部分的に相違はある(悩ましい相違ではあります)ものの、出雲伝承を元にすると以下のような理解をしたくなります。

  1. 十市県主はとにかく出雲王家系(なお、出雲国造家とは基本関係ない)氏族で、登美氏(磯城県主)と同族。春日県主も同様。
  2. 大彦命の母は物部氏のウツシコメではなく、登美氏のクニアレ姫。伝承の主張する史実では、大彦命は物部氏と対抗したのに、記と紀は大彦命が物部氏の母の子である処はしっかりと合わせている
  3. キビツ彦兄弟の母は、細姫(十市県主でも出雲王家系でもない)。これは、鳥取・因幡地域に数多くあるササフク(楽々福)神社に残る孝霊天皇の鬼退治伝承で、天皇と細姫そしてキビツ彦兄弟がセットで登場したりご祭神になっている事とも合っていて、自然に見える。ササフク信仰でのフトニ王一家の祭神は記紀で整理されていて、本来の祭神でなかろうと言われるが、記紀ではキビツ彦兄弟は細姫の子ではない。

もしかして、「十市県主系図」は、当時(「和州五郡神社神名帳大略注解」としてはは15世紀中頃)の旧出雲王家の末裔にも自家の伝承を広めようとする動きがあり、そんな流れで製作したものかしら、などと想像すると楽しいです。なお、大元出版本では十市県主については触れていなかったと記憶しています。

 

・整った境内。歌碑は、中世の武人十市遠忠の一首が刻まれています

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和/山陰」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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