「学問・至誠・厄除けの神様」として誰もが知っている、菅原道真公をお祀りする太宰府天満宮です。神社によると、全国に約12000社は有るとされる天満宮の、総本宮です。摂津三島では、上宮天満宮(高槻市)や蹉跎(さだ)天満宮(枚方市)があります。参拝した日はあいにくの雨でしたが、さすが著名なパワースポットとあって、なかなかの賑わいでした。バスで少し行けば、大宰府跡や、あの坂本八幡宮もあり、”令和効果”も有るのかもしれません。
・中世の大鳥居
言うまでもなく、道真公はここの地の本殿の真下、長さ三間、横一間半、高さ四尺位の石畳に囲まれ、上を粘土と石灰で漆喰にかためた中に鎮まっているとされ、元々は墓所でした。中央の京都から左遷され、大宰府の南館でお亡くなりになったのが、903年。遺言に従い、大宰府に葬られることになりましたが、四堂のほとりに墓所を造ろうと、味酒安行により遺骸が牛車に乗せられ、大宰府の郭をぬけ、東北方向に進んでいったが、急に牛がとどまって動かなくなったので、道真公の思し召しを思い埋葬した、という伝承が、この地の由来です。
・心字池、太鼓橋
当時、平城京でも墓地が郭外に設けていた事が確認されています。大宰府の東北郭外でも宝満山麓の花見ヶ丘火葬墓が検出されていて、それが太宰府天満宮本殿の東方約500mに有る事から、上記の「北野天神縁起」の話は、信憑性が有るとされます。
・楼門。結構歩きました。
道真公を埋葬した後、味酒安行が墓を守っていましたが、905年、神託によって墓所に祀廟を建立しました。その後、915年あたりに安行によって安楽寺が創建され、さらに919年には醍醐天皇の勅令によって、藤原時平の弟仲平が下向して社殿の造営を完成したと伝えられています。つまり、この宮は元々お寺であり、神仏混然一体で社僧が奉仕する宮寺として出発したのです。
・拝殿。1591年小早川隆景再建。
・飛梅
しかし、その後も道真公を左遷した都で、多くの宮中の関係者が亡くなり続けます。以下に列記しますと、
・908年 藤原菅根(道長公左遷の実働者)
・909年 藤原時平(左遷の張本人)
・923年 保明親王
(※ここで、道真公の官を右大臣に戻し、正二位を追贈し、左遷の詔を破棄。さらに年号を延長と改め、大赦の令を発する)
・925年 慶頼親王
・930年 清涼殿落雷 公卿数人死亡
醍醐天皇(落雷事件のショックを受け)
・本殿。五間社両流造という大型の社殿。
これらの不幸や災難が道真公の怨霊と結びつけられたのですが、背景として、当時の御霊信仰や雷神信仰と習合し、また仏教の密教思想によって裏付けされる事で、道真公の霊がどんどん神格化されていったようです。
・境内。こちらにも絵馬が沢山
・回廊をぶち抜く樟
京都で955年に北野天満宮が創建された頃、安楽寺の別当として道真公の子、淳茂の次男平忠が太宰府に下向してきました。これ以降、別当は菅原氏一門から補任される事になります。また二代目別当、兼茂の子の鎮延が、自ら申請して別当になる手続きを取った事で、安楽寺が単なる菅原氏の氏寺としてだけでなく、公的・官寺的性格を有するようになったという事です。これで大宰府政庁との関係が密になり、京都でも天神信仰の高まりもあり、京都から下向してくる官人たちによって荘園が寄進される等して安楽寺はますます盛んになっていったそうです。
・天神の森、大樟
怨霊神として畏怖された天神信仰は、時代と共にその影はうすれ、ご祭神の生前の人格によって文神へと性格を変えていきました。つまり、正義の神、慈悲の神、芸能の神、詩文の神、書道の神、至誠の神、寺子屋の守り神、渡唐天神等々、時代の志向に合った展開をみせ、日本文化形成に大きな力になったと、評価されています。また、次第に神社的性格の方が濃くなり、境内図の変遷でそれがわかるようです。
(参考文献:谷川健一編「日本の神々」森弘子氏)
東出雲王国伝承では、菅原氏へとつながる土師氏の始祖、野見宿禰は、東出雲王家の血筋を持つ御方だったと説明しています。出雲王国が滅亡しなければ、王になっていたそうです。しかし、出雲王国が九州東征軍に負けてしまったので、元の”富”から”野見”へ名前を変えたらしいです。さらに、菅原道真公は、出雲で生まれた、と出雲の人たちは伝承しているそうです。