[ かなやまひこじんじゃ / かなやまひめじんじゃ ]
この両社はかねてから参拝したかったのですが、二社が高低差を伴ってそこそこ離れているのと、金山彦神社は駐車場がないので、どう訪れようかと考え延ばし延ばしになっていました。今回、金山彦神社の方は、申し訳なかったのですが、堅上コミュニティ会館へ行く道路の入口に車を停めさせていただき参拝しました。府道183号線は、大和川から離れて神社方面の登りに入ると、金山彦神社の前までは車1台しか通れないほどの細道となります。今回はたまたま対向車がいませんでしたが、いたら難儀したと思います。両社共に社殿は近年に再建されて整えられ、境内もきれいで大切に信仰されてる風でした。
(金山彦神社)境内。社殿より鳥居方面。↑は入口鳥居
【ご祭神・ご由緒】
それぞれ神社名になっている金山彦神、金山媛神が祀られているとされています。「古事記」によれば、伊邪那美命が火之迦具土神をお産みになって病み臥せられた時に、その嘔吐物から出現した神とされていますが、「日本の神々 河内」で小林章氏は、真っ赤に焼けた鉄の表象といわれる、と付記されています。この両神の祭祀地は砂鉄や鉄鉱石の産地や製鉄集団の居住地である事が多いですが、この地もそんな場所です。なお、「日本の神々」での神社名の表記は「金山孫神社/金山孫女神社」となっていました。読みは同じです。共に『延喜式」神名帳の式内小社です。
(金山彦神社)拝殿
【鎮座地】
金山媛神社の鎮座する雁多尾畑集落からさらに北東方向に「留所(とめしょ)の山」といわれる山があり、その付近から鉄滓(かなくそ)が発見されています。「大阪府誌」や「大阪府全志」には、両社が共に「嶽山(たけやま)」の嶺にあったのを、かなり古い時代に(御由緒掲示では中世に)それぞれ現在地に移されたと書かれているようですが、その「留所の山」が「嶽山」の有力候補とされてきました。さらに北の方向には奈良県の龍田大社の風神が降臨したと伝えられる「御座峰」があるという場所でもあり、この峰から吹き下ろす強い北風を利用して野ダタラが営まれていたことが想像されると、小林氏は書かれています。今回の参拝時も特に金山媛神社では強い風を感じました。
(金山彦神社)拝所からの本殿
金山彦神社の鳥居前に柏原市の掲示板があり、平成10年にこの境内で古代の製鉄実験と刀鍛冶の実演が行われ、当時1000人程の見学者が集ったと書かれていました。高さ1メートルほどの円筒形のたたら炉の写真も載せられていて、一昼夜をかけて作業が行われた結果、27キロの鉄塊が得られたそうです。地域で古いたたら製鉄の歴史を大切に保存、伝承しようとしている事が感じられました。並んで設置される神社のご由緒書きによると、鉄の重要性が増した弥生時代後期から応神河内王朝時代に至るまでこの地で製鉄が行われ、多くの富を授けて下さった偉大な神様だと説明されています。
(金山彦神社)本殿。春日造
【金山彦神社 旧鎮座地比定】
「日本の神々」で小林氏は、棚橋利光氏の「式内社調査報告」における論考も引用しながら、金山彦神社の旧鎮座地について記載されています。金山彦神社を現在地にあてるのは、「河内志」「河内名所図会」「神社覈録」「大日本氏神祀志」「特撰神名牒」など多くの書に記載された説によるようですが、なぜ青谷村にするかについていずれも明確な理由は述べられてないようです。
(金山彦神社)稲荷神社と龍王神社
棚橋氏は、「柏原市史」がJR関西線の河内堅上駅から少し西側の大和川にそった平地について、ここを昔から地元では鳥取千軒と呼ばれている事に触れ、おそらく青谷の集落はこの鳥取千軒が洪水で流された後、少し山手の方に移っただろうと考えられます。したがって、青谷の地域は本来、堅下郡の鳥取郷であって、鳥取氏の居住地だったろうということです。製鉄集団の居住地は雁多尾畑すなわち堅上郡の方の高地地帯だったと考えられるから、青谷を金山神の鎮座地とすることにはなお若干の疑問があり、両社は中世から近世にかけて同じ八大金剛寺社として密接な関係にあり、「河内志」の著者はこの関係を古代の金山彦・金山媛神社の関係にみたてただろう、と考えられるのです。
(金山彦神社)伊勢神宮遥拝所。
棚橋氏はさらに同書で、上記した「大阪府誌」「大阪府全志」の説であれば旧鎮座地の疑問は無くなるが、金山彦神社はもと青谷村の山頂にあってその旧地には老松があるという「河内志」「河内名所図会」の伝承を「大阪府史蹟名勝天然記念物」の記述が具体的に裏付けていて、また「老松一株なおあり」という伝承のスタイルそのものに言い伝えの確かさが感じられるところから、青谷をもとからの鎮座地とする説も捨てがたい、とも述べられています。
(金山媛神社)石標は駐車場横に。「日本最古」をPRされてます
【祭祀氏族】
小林氏は、両社の祭祀氏族については明らかでないとしつつ、雁多尾畑地区は古代の大県郡賀美郷にあたり、渡来系氏族・上村主(かみのすぐり)氏の本貫地であると記されています。しかし、この氏族と製鉄の関連を推測する決め手は、「神々」執筆当時では、ないとされます。
上村主氏は、「日本古代氏族事典」では上(かみ)氏として記載されていて、上村主、上日佐、上勝の三氏族が含まれ、上は賀美郷の地名に因みます。上村主は河内国が本貫ですが、他の二氏は特定できないようです。上村主氏は「新撰姓氏録」では、広階連と同祖で魏の太祖武帝の子陳思王曹植の後とあります。704年に百済が、そして715年には通が、阿刀連の改氏姓を得て、769年には五百公が連の姓を賜りますが、それ以降はみあたらないようです。
(金山媛神社)階段を登ったら鳥居があります。境内社が左の階段を登った上に並びます
また、堅下郡の鳥取氏は、「日本書紀」垂仁天皇二十三年条の誉津別王の件でその由緒が語られる氏族です。しゃべれなかった誉津別王が鵜を見て言葉をしゃべったので、父の天皇の命を受けて出雲(または但馬とも)まで行って鵜を捕らえた功績により、天湯河板挙(アメノユカワタナ)が鳥取造の氏姓を賜り、鳥取部、鳥養部が置かれた話です。その鳥取部の中央伴造家が、天武天皇期に改姓した鳥取連です。「新撰姓氏録」の山城国神別に゛鳥取連。天角己利命三世孫天湯河板挙之後也゛と記されます。
同書には、無性の氏族が河内国や和泉国にいた事も書かれていて、この地の鳥取氏が祀ったのが、柏原市高井田にある天湯川田神社です。また、近くには宿奈川田神社もあり、そのご祭神の少彦名命は鳥取氏の氏神と見られると、先の小林氏は「日本の神々」に書かれています。さらに、臣姓、首姓の鳥取氏が出雲国にみられ、国造、出雲臣家の一族が鳥取部の現地管理者となったものです。また、首姓は出雲の村落単位の統轄者だろう、ということです。
平安時代の辞書である「和名類聚抄」に見える鳥取郷(駅)として、三河、下総、河内、和泉、越中、丹波、因幡、備前、肥後に、鳥養郷が筑後に存在していて、ともに古代の鳥養部(鳥取氏)の分布を示していると考えられます。
(金山媛神社)拝殿
【所蔵神宝】
昭和43年の柏原市による調査で、金山彦神社のご神体が八体の素朴な木像神像である事が確認されました。その内訳は、男神座像二、女神座像二、武人形神像一、騎馬神像一、立鳥帽子姿神像一、捼鳥帽子姿像一で、いずれも高さ20センチほど。鎌倉時代の作とされています。なかでも騎馬神像が朝鮮風のいで立ちだと見られていて、鎌倉期の作とはいえ、両社の古い祭祀氏族を考えるうえで一応の参考にはなるかもしれない、と小林氏は書かれています。
(金山媛神社)本殿。流造
【伝承】
東出雲王国の伝承では、弥生時代中期に東出雲の王家・富氏(記紀でいう事代主命の家系。スクナヒコはその王の受け持った役職名)から三島溝咋姫が子供達と共に摂津三島に帰り、その子供達が大和の葛城~磯城地域に入って分家・登美氏となったと一貫して説明しています。その伝承本の一つ「事代主の伊豆建国」で谷日佐彦氏が、葛城地域に入った出雲の人たち(或いはその子孫か?)が雁多尾畑で製鉄をおこなっていたとしてこの両社を記しています。いつ頃かは明確に書かれていませんが、神社掲示の製鉄実施時期と矛盾はしないようです(なお、この話は斎木雲州氏や富士林雅樹氏は書かれていません)。
(金山媛神社)本殿。庇横は白壁ですが、身舎は板壁。ただ身舎も四角柱のようです
谷氏によると、「青谷」の地名の「青」は緑の事で、製鉄用の木炭を作る木々が良く繁っていたので、青谷の地名を付けたと考えられるそうです。他の例として、南伊豆市の製鉄遺跡・日詰の近くの青市、青野川の名を挙げておられます。そして雁多尾畑での製鉄は、後に伊賀の敢國神社(ご祭神は大彦命、少彦名命、金山姫神)方面に伝わったらしい、そうです。さらに谷氏はその本で、古代出雲の製鉄は露天タタラであり、その神を金山彦と呼んだと説明されます。一方、製鉄の神様としては金屋子神もおられますが、コチラは後に出雲に対して優勢になった九州本貫勢力の、屋内で長方形の炉を土で築いて高熱で精錬する方式の神様だということです。現在奥出雲でされてる製鉄は、後者ですね。
(金山媛神社)並ぶ境内社と灯篭。
となると、鎮座地の堅下郡にいたとされ祭祀氏族でないと考えられた鳥取氏の由緒に、出雲にまで行く話があったり、特筆される氏人として出雲臣がいる事との関連が気になります。出雲伝承の主張している、3世紀にイクメ王が出雲王国ならびに大和や河内にいた出雲出身氏族に対して優勢となった事績をほのめかしたのでしょうか。一方、天湯河板挙が鵜と捕まえた地として但馬がわざわざ併記されますが、出雲伝承からすると3世紀であれば但馬は丹波・丹後のアマ氏(のち海部氏・尾張氏)が既に入っています。アマ氏は大和で登美氏と連携した人たちで、共に九州勢力に圧迫されたらしいです。
(金山媛神社)境内
(参考文献:金山彦神社掲示板、中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、「式内社調査報告」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、鈴木正信「古代氏族の系図を読み解く」、谷川健一編「日本の神々 摂津」、三浦正幸「神社の本殿」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、前田豊「徐福と日本神話の神々」、竹内睦奏「古事記の邪馬台国」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元出版書籍)