摂津三島からの古代史探訪

邪馬台国の時代など古代史の重要地である高槻市から、諸説と伝承を頼りに史跡を巡り、歴史を学んでいます

牟佐坐神社(むさにますじんじゃ:橿原市見瀬町)~大久保町の生國魂神社との関係や「呉国」の不思議

2022年07月16日 | 奈良・大和

 

古代史で律令国家成立に向けたクライマックスと言える壬申の乱の戦いの最中に、印象的な託宣を下す神として気になる一柱が「牟佐社」です。今回は、その比定社である牟佐坐神社と共に、「日本の神々 大和」の「牟佐社」比定論考で異説として推されていた生國魂神社(大阪の難波大社・生國魂神社ではない)の二社を参拝をさせていただきました。橿原市は飛鳥のお隣で風光明媚な大和の観光地ですが、両社共に住宅街の中で現在の人々の生活に身近な感じで鎮座されていました。ただ、牟佐社の社叢は立派です。

 

・(牟佐社)なかなか急な境内への登り。👆見出し写真は一の鳥居

 

【ご祭神・ご由緒】

現在のご祭神は、高皇産霊神と孝元天皇の二柱です。近世には「榊原(さかいばら)天神」と呼ばれて天児屋根命と高皇産霊神をご祭神としていた事が、棟札銘から分かっていますが、明治4年に、そもそも身狭村主青が祀ったとされる先雷神(生霊神)と恩兼神に変わりました。しかし当社地が孝元天皇の軽境原宮跡に治定された事から、再び改めて現在の二柱に落ち着いたという経緯になります。

 

・(牟佐社)境内

 

この神社のご由緒は、「日本書紀」における、あの壬申の乱の最中に登場します。つまり、大海側の高市軍が金綱井に集結した時、大領の高市県主許梅が神がかりのようになって言うのに、「吾は高市社にいる事代主である。また牟佐社にいる生霊神である」といい、神の言葉として、「神武天皇の山稜に、馬や種々の武器を奉るがよい」と言った。さらに「吾は皇御孫命(大海人皇子)の前後に立って、不破までお送り申して帰った。今もまた官軍の中に立って護っている」と言った云々、の件です。この「牟佐社」が「延喜式」神名帳の「牟佐坐神社」であり、当社に比定されています。

 

・(牟佐社)拝殿

 

【鎮座地、比定】

「牟佐」は「身狭」とも記されて、「日本書紀」でこの名前を使う地名としては、崇神天皇皇子である倭彦命の身狹桃花鳥坂古墳、欽明天皇七年にある高市郡の韓人大身狭屯倉と高麗人子牟佐屯倉、そして宣化天皇の身狭桃花鳥坂上古墳などが見られます。二基の古墳は、当社の1キロ強程東に並んでいます。大矢氏は、そのムサの示す範囲は詳らかでないとしつつ、現在の橿原市の見瀬や鳥屋がそれぞれ牟佐や桃花鳥坂の転訛とみられていて、ムサは畝傍山の東、久米川(高取川)に沿う地域を呼んだとするのが定説だと説明されています。それによって、本居宣長らが牟佐坐神社を当社に比定し、現在に至っているのです。

 

・(牟佐社)拝殿から伺った本殿。一間社春日造の社殿が2つ並んでいます

 

【祭祀氏族】

当地高市郡牟佐を本拠地とするのが牟佐氏とされていて、姓は村主でした。「新撰姓氏録」左京緒蕃上に゛牟佐村主は呉の孫権の男、高より出づ゛とあります。「日本書紀」の雄略天皇条では、身狭村主青が史部(書記の官)として天皇の寵愛篤く、二度呉国(中国江南地方)へ派遣されて、漢織、呉織、衣縫らの技術者を連れて来たとあり、五世紀末の外交使節として活躍した事が見えています。この青が、「和の五王」の武の上表文の筆者だとする説も有るようです。「日本の神々 大和」で大矢良哲氏は、牟佐村主氏はこのように中国南朝の呉と非常に深い関係を持っており、牟佐社の祭神は五世紀後半ごろこの地に進出した牟佐氏系氏族の祖神であった可能性も考えられると書かれています。ただ、当社の比定については、「日本書紀」に明記される神から以下のように異議を唱えておられます。

 

・(牟佐社)本殿を境内から拝見するのは難儀します

 

【大久保町の生國魂神社と難波大社】

「日本の神々 大和」で大矢氏は、「日本書紀」に゛牟佐社にいる生霊(いくたま)神゛とあるのだから、牟佐の神の鎮座地は、橿原市大久保町の生国魂神社に比定すべきだ、と主張されています。「奈良県高市郡神社誌」によると、生国魂神社には寛文八年(1668年)の棟札があり、「梵 奉生玉明神造営息災延命福貴祈所也」と記されていて、古くから生国魂神を祭神としてきたと考えられるのです。この生国魂神社は、元々畝傍山の北麓、今の神武天皇陵付近に有りましたが、そこの集落の移転に伴い、大正九年に現在地に遷座されて今に至ります。なので、゛高市社゛の比定社である川俣神社と共に神武天皇陵とは特に近い位置関係になり、「日本書紀」の話が理解しやすくなるというのです。

 

・(生國魂社)一の鳥居

 

ご祭神に関しては、明治十二年の「神社明細帳」は祭神を生國魂神一柱としていて、今一緒に祀られる咲国魂神は後に加えられたものだろうと、大矢氏は考えられていました。また、大阪の難波大社・生国魂神社との関係が気になりますが、大矢氏は詳らかでないとだけ書かれています。難波大社についての「御由緒調査書」によれば、生国魂神は生嶋神又は生国神とも言い、咲国魂神は足嶋神又は足国神とも言います。国土の神であり、「延喜式」記載の宮中神祇官西院で祀られる神々の「生島巫祭神二座」にあたり、天皇即位の八十島の神です。記紀での生国魂神(や咲国魂神)の神様としての所伝はこの壬申の乱以外は見えなく(難波社としては孝徳紀に記述有り)、大阪の生国魂神が社伝として、神武天皇が九州から東征して難波に到着された時にお祀りしたと説明しています。なお、この大久保町の生国魂社は式内社ではありません。

 

・(生國魂社)境内

 

【信濃の゛生玉さん゛の伝承】

生国魂大神・足国魂大神を祀る神社として、長野県上田市にも生島足島神社が鎮座しています。神社のご由緒では、祀ったのは建御名方富命であると説明されていますが、東出雲王国伝承を語る斎木雲州氏、富士林雅樹氏は、建御名方富命がこの神社に祀ったのは、出雲王国の信仰であるサイノカミ(幸の神。岐の神や八衢姫神など三柱の神)だと書かれているのです。ただ、それ以上の解説がないので、サイノカミと生国魂大神・足国魂大神の関係は不明です。それでも、出雲伝承も神社の公式説明も建御名方富命が祀ったと言っているので、ここでは繋がっていると捉えてみたいと思います。

 

・(生國魂社)拝殿

 

【伝承の語る呉国の渡来人】

もう一点注目するのが、牟佐村主が、(三国時代の)呉の孫権の後裔だという系譜です。その身狭村主青の話を始め、「日本書紀」では中国の南方を徹底して「呉」と表現しているのが気になります。一般にはそういうものと理解されているようですが、理由をチョッと強引に推定しますと、牟佐村主の祖先が渡来したのが呉の時代だった事から、その国名を習慣として使うようになったのでは。。。そんな仮定をしたくなるのは、出雲伝承に、三国時代の呉の鏡工人の渡来譚が有る為です。この伝承譚をとにかく゛代入゛して、話をつなげてみたいと思います。

出雲伝承では、いわゆる邪馬台国の時代の中国で、呉国の孫権が遼東半島の公孫淵と連携しようと、遼東半島に向けて大使節団を派遣したけれど、魏にそそのかされた公孫淵が裏切ったために破綻。行き場を失った船に乗っていた呉の鏡作りの工人達が和国のヤマト側に亡命してきたという話があります。当時のヤマト側にいたらしいのは、出雲系豪族・登美氏と丹後アマ(海部)氏が連携する初期大和勢力。九州勢力側は魏の仲間なのでNGです。その工人達がヤマトで三角縁神獣鏡を作ったというのです。この話を前提とすれば、呉からの渡来人は初期大和勢力の出雲系氏族に触れた可能性が出てくるので、その頃に呉の渡来人達がサイノカミ~生霊信仰を持ったと考えてみたいです。400枚以上の鏡を作った人たちだったとすれば、それなりの人数で影響力はあり、中国南方を呉と呼ぶ習慣に繋がったというアテ推量は可能ではないかと。そして、その子孫に牟佐村主が合流・関係していた、と考えてみたいと思います。

 

・(生國魂社)本殿。一間社流造

 

【生国魂神と生霊神の関係の謎】

「日本書紀」壬申の乱の件で出てくる生霊神は、(出雲伝承や、出雲国造が神賀詞神事でも主張するとおり)出雲の神である事代主と一体で官軍を護っていると自分でおっしゃっているのですから、共に出雲系の神と思われ(さらに村屋社の神も出雲系)、どうも国土神とか八十島の神とは性格が異なるようです。宇佐国造の子孫であられる宇佐公康氏が、゛(宇佐氏の族長とみられる応神天皇による)応神王朝の成立にともなって、原大和王朝以来、崇神王朝に最も盛んに行われてた物部氏のシャーマニズムをはじめ、和邇氏や(出雲系の)大神氏のシャーマニズムと混交し、宮中祭祀として統一された゛と言われていて、生魂・足魂神が宮中の国土神になったのは河内王朝からだと想像します。なので、壬申の乱の時現われたのは、そもそも牟佐氏が持っていた、より古い出雲系の゛生霊神゛だったと思いたいです。

大久保町の生國魂神社は、式内社でもないしあまりご由緒も見られないので、ただそれだけからですが、比較的新しい神社なのではないでしょうか。宮中祭祀としての生魂・足魂神が定着し、大阪の生国魂神社で神武天皇と結びついたので、牟佐坐神社から分けられて神武天皇陵(陵の元地は畝傍山周囲に複数候補あり)の近くに改めて祀られたのが、大久保町の生國魂神社だったのではないかと、あくまで私的ロマンとして一旦締めさせて頂きます。。。

 

・(牟佐社)高台ですが、のどかな方面の視界は開けてなく、南東方向の岡寺駅や住宅街が見えます

 

(参考文献:中村啓信「古事記」、宇治谷孟「日本書紀」、かみゆ歴史編集部「日本の信仰がわかる神社と神々」、京阪神エルマガジン「関西の神社へ」、谷川健一編「日本の神々 大和/摂津」、村井康彦「出雲と大和」、梅原猛「葬られた王朝 古代出雲の謎を解く」、岡本雅亨「出雲を原郷とする人たち」、平林章仁「謎の古代豪族葛城氏」、佐伯有清編「日本古代氏族事典」、宇佐公康「古伝が語る古代史」、金久与市「古代海部氏の系図」、なかひらまい「名草戸畔 古代紀国の女王伝説」、斎木雲州「出雲と蘇我王国」・富士林雅樹「出雲王国とヤマト王権」等その他大元版書籍


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