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令和4年2月


2月3日の夜、弟から慌てふためいた声で電話がありました。

「お姉ちゃん!お父さんが!」

母が倒れた時と同じ、病院に運ばれる途中の救急車の中からでした。



木曜日、夕食を作っている最中で、鍋には茹ででいる野菜。
まな板には切りかけのにんじんが乗ったまま。
お米は炊飯中。

「わかった。すぐ行くから!」

夜8時少し前でしたが、そのまますぐ電車で大田区にある病院へ向かいました。
途中駅でまた電話があり、

「ごめん、だめだった。 今、霊安室にいる。」
「  そっか。。」

母と同じく、急なこの世とのお別れでした。

ひと月ちょっと前、母の命日に一緒にお墓参りしてお食事をしたのが最後でした。



病名は『虚血性心疾患』。
10年前に心臓にペースメーカーとステントを入れ、「今年電池交換だね。」って言っていたので、交換前に電池切れになったのかと思いましたが、そうではなくペースメーカーも効かないほど心臓が弱ってしまったようです。



倒れる3日前から体調が悪く、自分が経営する会社には行けていなかったらしいです。

7年ほど前に母は会社で倒れ、父は自宅で。
なかなか親の臨終に立ち会うことはできないものですね。



それから約一週間後の2月12日。
新規感染者が最多人数を更新する真っただ中でのこのご時世もあって、家族だけで葬儀をとり行いました。



取引先の社長からは多額なお香典と供花の弔電があったり。
家族葬のわりに立派なお葬式になったと思います。



「お香典で一人10万円とか、初めて聞いたわ。」
「お返しはどうすればいいのかしら。。」



臨海斎場でお骨にしてもらい、実家に戻ったところ。
今度はだんなの父親が救急車で病院に運ばれたとお母さまから連絡がありました。



そして2月26日の早朝。

「お父さんの心臓、もう止まりそうなんだって」とお母さまから電話がありました。
だんなは弟と母親とですぐに病院に駆けつけましたがこちらも少し間に合わずでした。

2週間の入院生活中、だんなの父はお世話になった人にお礼を告げ、
ちゃんと遺言書を書き上げ自分の最期を悟っていたようです。

お母さんと結婚出来て幸せだったと。
3人の息子たちへは立派に育ってくれてありがとうと。

遺言書にはそうしたためられていました。



令和4年の2月、私たち夫婦はそろって父親を見送ることになりました。
そしてなかなか親の臨終には立ち会えないものだなと改めて痛感しました。



この世から姿かたちがなくなったからといって、親の存在の大きさは何も変わりません。

母が亡くなったあと、「私にとってはお母さんは、変わらすにいつもそばにいる存在なんだよ。」
とだんなによく言っていましたが、

「ゆかりが言っている意味がだんだんオレもわかってきたよ。」
とだんなぽつり。

3月に入り、だんなの父親はお骨になり自宅に戻ってきました。



そして私の父の四十九日の法事と納骨。





母の骨壺と一緒にやっと2人そろって逗子に入ることになりました。





父を母のもとへ送りだし、これでやっと気持ち的に肩の荷が下りた感じです。
遅かれ早かれ、親を送りだすのは誰もが経験することです。



子供である私がちゃんと自活できるよう一人前になるまで、
元気に生きていてくれてありがとう。

そして私を産んでくれてありがとう。育ててくれてありがとう。



両親には感謝の気持ちしかありません。


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