日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

牧 会 通 信

2017-06-19 17:42:39 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)   ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その5)

◯先達は言つた、「あすこに横はつてゐるあの邪悪な獣まで、わたしらはいま少し曲つて行かねばならぬ。」

   それでわたしらは右側に下りて、熱砂と火の子を十分に避けるために、緑の上を十歩ほど進んだ。

   わたしらが獣のそばに着くと少し向うの熱砂の上、切り立つ崖の緑に近く坐つてゐるものたちが見えた。(前回ここまで)

◯そこで師は言つた、「この環(みち)について完全な経験を得るためには、行ってあのものたちの状態を見よ。

    話は短く切上げよ、そなたが戻るまでに、強い肩を貸してくれるやう、わたしはこの獣と話し合はう。」

    かうしてさらにわたしは第七圏(たに)のいちばん端の上を、たつた一人で悲惨なものたちが坐つてゐるところまで進んだ。(つづく)

 

◯本日、6月18日(日)の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「神の栄光の都」という。聖書は黙示録21章22~27節である。その22~23節に、「わたしは都の

中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」と。

また27節に、「しかし、汚れた者、忌まわしいことと偽りを行う者はだれ一人、決して都に入れない。小羊の命の書に名が書いてある者だけがれる」とは、一人ひとり、この御

言葉をどう思うか。信仰によって小羊の命の書に名を書いてもらおう。

◯写真は、長崎伝道所を伝道委員の稲葉一先生と南茂の二人が問安した。(6月14日前11時半ころ撮影)。


プロテスタントとカトリック

2017-06-15 16:25:14 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(415)   近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その55)

 35.ちょうど教会の中にも偽キリスト信者がいるように異教徒の中にも、教会の隠れた子らが見いだされ る。

しかしながら、わたしどものあからさまな敵の間にさえ、たとえ彼ら自身にさえ知られていなくても、わたしたち

の友となるよう予定されている者がいるとすれば、彼ら[偽キリスト者]が立ち返る望みを捨ててしまう理由は存

在しない。このように(前回はここまで)して、わたしたちが論じて来た二つの国は、この地上では混在し共存す

る。両者は最後の審判において分離されるであろう。この二つの国の・生成・発展・その定められた終焉を語る

ことが、わたしのこれからの課題である。神の栄光のため、わたしは神の助けによってこれに取りかかろう。神

の回向は他と比べられるとき、いっそう明るく輝き渡るのである。

36.以下の各篇において論ぜられる主題について。 (第一篇はここまで)

第二篇 から第二十一篇までを割愛して、

最終篇に入ります。

第二十二篇 神の国の永遠の浄福に

1.  天使と人間の創造について

前篇で約束したように、本書の最後となる.

この篇において、わたしは神の国の永遠の浄福について論ずることとする。「永遠の」という形容句は、何世紀

もの間続き、そしていつの日にか終わりが来る、という意味ではなく、「その支配はかぎりなく続く」(ルカ一・三

三)と福音書に記され~ (つづく)(「神の国」出村彰訳)


聖書研究

2017-06-15 16:22:31 | 大分中央ウィークリー

創世記24章39節である。「わたしが、主人に、『もしかすると、相手の女がわたしに従って来たくないと言うか

もしれません』と申しますと、」といいます。ここに彼の仕事に対する慎重さが見えます。アブラハムに進言して

アブラハムからの考えを引き出そうとしていました。そのために彼が思いだしながら、ここにその経過をそのま

ま繰り返している。

 

確かに、ここに思い出しながら、繰り返いてはいるが、その背後に神が働きかけておられるという、神の真実を

そっと語るのが目的であった。『もしかすると、相手の女がわたしに従って来たくないと言うかもしれません』と

は、彼女に進んで来たいと思わせるところの神の働きかけを期待しながら、神に向って話しかけているようでも

あるといえるし、またわたしどもの神学的理解のためにもそのように考えねばならない。

 

40節である。「主人は、『わたしは今まで主の導きに従って歩んできた。主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、

旅の目的をかなえてくださる。お前は、わたしの親族、父の家から息子のために嫁を連れて来ることができよ

う。」と。この言葉は、まだ現実にはなっていない。アブラハムの僕にとって、人間的には、主人のアブラハムか

ら聞く一つの予想であり、一つの仮説である。その反対の結果もありうる性質の言葉であった。

 

しかし、そうであるにもかかわらず、やはり僕の主人アブラハムは、信仰の人であった。それゆえ彼の不安を払

拭すべく、ここで主人が彼に語りかけたのを思い出させたのであった。「主人は、『わたしは今まで主の導きに

従って歩んできた。~』」と。それゆえ、「主は御使いを遣わしてお前に伴わせ、旅の目的をかなえてくださる。」

という。三段論法である。彼、僕は得心して、その心の内の言葉を感謝して打ち明けた。


牧 会 通 信

2017-06-15 16:12:42 | 大分中央ウィークリー

(原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 17歌(カッコ内は筆子、その4)

◯しばしば岸辺に引上げられて半ばは水の中、半ばは土の上にある艀(はしけ)のやうに、あの暴飲暴食のド

イツ人たちの土地で、

  戦はうと身構る海狸(いるか)のうに、この最悪の獣は熱砂を限る石の縁の上に凝(じ)つとしてゐた。

  その尾はすつかり空中にのたくり、蠍(さそり)みたいに先端の尖つた毒ある熊手を高くひねり上げてた。(前回ここまで)

◯先達は言つた、「あすこに横はつてゐるあの邪悪な獣まで、わたしらはいま少し曲つて行かねばならぬ。」

  それでわたしらは右側に下りて、熱砂と火の子を十分に避けるために、緑の上を十歩ほど進んだ。

  わたしらが獣のそばに着くと少し向うの熱砂の上、切り立つ崖の緑に近く坐つてゐるものたちが見えた。 (つづく)

 

◯本日、6月11日(日)三位一体主日の日本聖書協会の、「聖書愛読こよみ」の主題は「聖霊の実」という。聖

書はローマ8章1~11節である。その1~2節、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定

められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解

放したからです。」という。ここに、「キリスト・イエスに結ばれている者はの「に結ばれている」は口語訳では「キ

リスト・イエスにある」いう、パウロ神学の基調用語、キリストとの一体形を現しわたしたちの現在の罪も、過去

の罪も、更に未来に犯すべき罪すらもキリストは引き受けることを現す。

◯写真は、八女伝道所を伝道委員の稲葉一先生と南茂の二人が問安しました。(6月7日午後1時頃撮影)。


プロテスタントとカトリック

2017-06-09 16:17:31 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(414)    近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」(1968.教団出版)(その54)

 35.ちょうど教会の中にも偽キリスト信者がいるように異教徒の中にも、教会の隠れた子らが見いだされ

る。これがわたしたちの主キリストの贖われた家族と、王なるキリストの巡礼者の都が、その敵対者に対して

答える論議である。わたしたちはそれをいっそう拡大し、もっと豊かにすることさえできる。わたしたちの敵対者

の間にすら、来たるべき神の国の隠れた市民が存することを思いみよう(前回はここまで)ではないか。神の

国[の市民]は、わたしたちの敵がついに神の御名を告白する日まで、彼らの敵意を堪え忍ぼうとする努力が

無駄なものだと考えてはならない。同じように、神の国がこの世で巡礼者であるかぎりは、その聖秘蹟にあず

かりながらも、聖徒が受くべき永遠の嗣業に決してあずからない者が含まれているのである。ある者はすでに

顕わであるが、そうでない者も存する。いずれの場合にせよ、彼らは躊躇することなくわたしたちの敵に加担

し、自らその名を帯びている神に対してつぶやきごとを言い、時に彼らとともに劇場に蝟集(いしゅう)する。

  

    しかし他の者はわたしたちとともに教会堂を満たすのである。しかしながら、わたしどものあからさまな敵の

間にさえ、たとえ彼ら自身にさえ知られていなくても、わたしたちの友となるよう予定されている者がいるとすれ

ば、彼ら[偽キリスト者]が立ち返る望みを捨ててしまう理由は存在しない。このように(つづく)(「神の国」出村

彰訳)