五、「教会とわたしたち」(380)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その19)
12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。
しかして、余り多くの死体があったので、そのすべてを埋葬することが不可能であった。(前回はここまで)キリスト教の信仰を持つ者は、このことを余り思い煩わない。信仰を持つ者は、たとえ獣が死体を貪り食うとも、彼らは再び立ち上がるであろう、という約束を確信している。なぜならば「頭の髪の毛一すじでも失われることはない」(ルカ二一・一八)からである。もしも殺された者の死体に敵が加えたことが、未来の生への障害となるとすれば、真理の君〔キリスト〕が「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ五・二八)と言うはずがなかったではないか。
あるいは、人は愚かにもこう主張するかも知れない。死ぬまでは肉体を殺すことのできる者を恐れねばならないし(なぜなら彼らは肉体を殺すことができるから)、さらに死んでからも彼らは死体の埋葬を拒否するかも知れないから、彼らを恐れねばならない。このように主張することは、キリストの言われたこと、すなわち「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな」(ルカ一二・四)(もし実際それほど多くのことを、死体に対して行うことができるとすれば)という言葉を否定することになる。真理の君が教えられたことを、否定するようなことがあってはならない。彼らが人を殺す場合には、殺される肉体に~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)