日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-09-21 15:43:23 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(380)

近代から現代へ(宗教改革とその後)はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その19)

12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。

しかして、余り多くの死体があったので、そのすべてを埋葬することが不可能であった。(前回はここまで)キリスト教の信仰を持つ者は、このことを余り思い煩わない。信仰を持つ者は、たとえ獣が死体を貪り食うとも、彼らは再び立ち上がるであろう、という約束を確信している。なぜならば「頭の髪の毛一すじでも失われることはない」(ルカ二一・一八)からである。もしも殺された者の死体に敵が加えたことが、未来の生への障害となるとすれば、真理の君〔キリスト〕が「からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(マタイ五・二八)と言うはずがなかったではないか。  

あるいは、人は愚かにもこう主張するかも知れない。死ぬまでは肉体を殺すことのできる者を恐れねばならないし(なぜなら彼らは肉体を殺すことができるから)、さらに死んでからも彼らは死体の埋葬を拒否するかも知れないから、彼らを恐れねばならない。このように主張することは、キリストの言われたこと、すなわち「からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな」(ルカ一二・四)(もし実際それほど多くのことを、死体に対して行うことができるとすれば)という言葉を否定することになる。真理の君が教えられたことを、否定するようなことがあってはならない。彼らが人を殺す場合には、殺される肉体に~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-09-21 15:40:15 | 大分中央ウィークリー

創世記24章2節である。「アブラハムは家の全財産を任せている年寄りの僕に言った。『手をわたしの腿(もも)の間に入れ~』という。ここに出てくる「年寄りの僕」とは、「全財産を任せている」といわれているから、最も信任の厚い「僕」であったらしい。通説では15章2節のイサクが生まれるまで、アブラハム自身が跡継ぎはこの人と決めていた奴隷の子「ダマスコのエルエゼル」であろうとされている。 

相続権を自分から奪ったイサクのために働くため、アブラハムは誓約させるのである。その誓約の儀式が古代の儀式で、このモーセ五書が編集された前5世紀にはこの方法が存在しなかった。説明不十分のまま「手をわたしの腿の間に入れ~」(47・29にも)と。「腿」は男子割礼性器の象徴的表現で、厳粛な儀式であったと思われる。 

3節である。「天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたはわたしの息子の嫁をわたしが今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、」という。「今住んでいるカナン」というのであるが、アブラハムは23章で、ヘトの人々との交渉に見るように、カナンの人々に対していかにも丁重に対応しその言葉にも態度にも謙遜であった。土地を買ったことは、たとえサラの墓に必要な一部分の土地であったとしても、彼らと同じ土地に住むことを確認させる。 

「嫁を~カナンの娘から取るのではなく」と。アブラハムと彼の子孫は決して、彼らカナン人とは同じではなく、同じになってはならなかった。それを、この節は読者に伝えている。この地球上で一つ、神に選ばれた民のユダヤ人は旧約全巻に通じる異教徒結婚禁止である。異教の中でイエスとの結びつきを切らない信仰を暗示する。


牧 会 通 信

2016-09-21 15:31:06 | 大分中央ウィークリー

 (原 光訳 2000年、沖積舎)

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌(カッコ内は筆子、その12)

◯「いかなるものも入るのを拒まれぬ、あの門からここに入つてから、わたしがそなたに示した外のすべてのものの中で、

上に落ちてくる火をみんな消してしまふ、ここにある小川ほど注目すべきものは、一つとてそなたの眼は認めなかつたのだ。」

わたしの先達がかう言つたので、おかげでもりもり食べたくなつた食物を、気前よく与へてくれるやうに、わたしは頼んだ。(前回ここまで)

◯すると言つた、「海の真中に荒廃した国がある、そこはクレタ(南地中海の島)と呼ばれ、そこの王の支配下でかつて世界は純潔だつた。

  そこにはイダ(クレタ島の中央)と呼ばれる山があり、かつては水と葉繁みで陽気だつたが、いまは老い古びたもののやうに荒廃してゐる。

 レア(神話の神々の母)はかつてその山をわが子の信頼できる揺籃(ゆりかご)として選び、もつとよく隠すために、子が泣きだすと人人を叫ばせたものだ。  (つづく)

 

◯本日、2016年9月18日は、第三十八主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「二つの道」という主題。聖書は申命記30章15~20、その15節。「見よ、

わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く。」という。わたしたちの目の前にある道は、たった二つだけである。キリスト教の歴史は大友宗麟から

数えても600年にも満たない。それゆえキリスト教人口は極めて少ない。今日人生80年といわれるが、人生の道はたった二つしかない。問題の中心は命の

道を歩く人は、ここにいるわれわれである。お金では買えない。感謝して歩きたい。 

◯写真は、先週、13日(火)に九州中会ヤスクニ委員の内二人、島田善次委員長(左から二番目)と南茂昭夫は八女伝道所の祈祷会に招かれた。