五、「教会とわたしたち」(379)5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その19)
11 長短いずれにもせよ、すべての現世の生は同じように終わりを迎える。
たった一度だけ死ぬことによって、もはや死の恐れを持たなくなるよりも、たとえ多くの死の恐れの下においてであっても長生きする方を人々がずっと多く好むことを、わたしは知らないわけではない。しかし弱い肉体がそのような恐怖の下に戦き畏縮することと、理性的精神が慎重に考察し、恐れに打ち勝つこととは別事である。善き生涯の終わりである死を、悪しき(前回はここまで)ものと考えることはできない。死を悪とするのは、死の後に続くものである。
いずれにしても、必ず死ぬことに定められている者にとっては、どのような種類の死によって死ぬかではなく、その死によってどこへ行かねばならなくなるかが真の重大問題である。キリスト信者は犬の舌によってなめられていた貧者の死の方が、紫布の立派な衣に包まれて暮していた不信心な金持ちの死よりも、はるかに立派だったことを知っている(ルカ十六・十九以下) 。それを知っていれば、立派な生涯を終わった者が、死すべき人間に降りかかる死がどのような種類のものであろうと恐れるはずがあるだろうか。
12 死体の埋葬が出来ないとしても、それはキリスト信者にとって損失でない。
しかして、余り多くの死体があったので、そのすべてを埋葬することが不可能であった。~(つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)