五、「教会とわたしたち」(378)
5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その18)
11 長短いずれにもせよ、すべての現世の生は同じように終わりを迎える。
しかしながら、多くのキリスト信者が、(前回はここまで)しかもさまざまの非道な方法で殺されたのも事実である。しかし、たとえ堪え難いことではあっても、死
は確かにすべて生あるものに共通の定めである。死んだ者は、すべて死すべくして死んだのである。長い短いこそあっても、すべての人生は同じように終わり
を迎える。終わりがやって来るそのときには、善・悪、長・短の違いはなくなるのである。どのような形の死によって人に一生に終止符が打たれようとも、一度
死んだ者がもはや二度と死ぬ必要がない以上は、いったいどれほどの違いがあろうか。この人生の浮沈において、すべての人はさまざまの形での、無数の
死の脅威と日々直面にしているのである。そのうちのどれが自分の上に振りかかるか、それはだれにもわからない。死によってその一つを耐え忍ぶ方が良い
か、それとも生きながらえてそのすべてを忍ぶ方が良いかわたしにはわからない。
たった一度だけ死ぬことによって、もはや死の恐れを持たなくなるよりも、たとえ多くの死の恐れの下においてであっても長生きする方を人々がずっと多く好む
ことを、わたしは知らないわけではない。しかし弱い肉体がそのような恐怖の下に戦き畏縮することと、理性的精神が慎重に考察し、恐れに打ち勝つこととは
別事である。善き生涯の終わりである死を、悪しき~ (つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)