日本キリスト教会 大分中央教会

1517年、宗教改革による改革派信仰の伝統を引き継ぐ教会です。

プロテスタントとカトリック

2016-09-06 21:40:47 | 大分中央ウィークリー

五、「教会とわたしたち」(378)

近代から現代へ(宗教改革とその後)

はじめに近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その18)

11 長短いずれにもせよ、すべての現世の生は同じように終わりを迎える。

しかしながら、多くのキリスト信者が、(前回はここまで)しかもさまざまの非道な方法で殺されたのも事実である。しかし、たとえ堪え難いことではあっても、死

は確かにすべて生あるものに共通の定めである。死んだ者は、すべて死すべくして死んだのである。長い短いこそあっても、すべての人生は同じように終わり

を迎える。終わりがやって来るそのときには、善・悪、長・短の違いはなくなるのである。どのような形の死によって人に一生に終止符が打たれようとも、一度

死んだ者がもはや二度と死ぬ必要がない以上は、いったいどれほどの違いがあろうか。この人生の浮沈において、すべての人はさまざまの形での、無数の

死の脅威と日々直面にしているのである。そのうちのどれが自分の上に振りかかるか、それはだれにもわからない。死によってその一つを耐え忍ぶ方が良い

か、それとも生きながらえてそのすべてを忍ぶ方が良いかわたしにはわからない。

たった一度だけ死ぬことによって、もはや死の恐れを持たなくなるよりも、たとえ多くの死の恐れの下においてであっても長生きする方を人々がずっと多く好む

ことを、わたしは知らないわけではない。しかし弱い肉体がそのような恐怖の下に戦き畏縮することと、理性的精神が慎重に考察し、恐れに打ち勝つこととは

別事である。善き生涯の終わりである死を、悪しき~ (つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968


聖書研究

2016-09-06 21:36:59 | 大分中央ウィークリー

創世記23章20節である。「その畑とそこの洞穴は、こうして、ヘトの人々からアブラハムが買い取り、墓地として所有することになった。」という。これは銀四百シケルを支払ったときに確認されているが、サラ遺体を埋葬した後に繰り返されている。土地の所有権の移転の確認であり、今日的には証印の役目を果たしている。またアブラハムの生涯にとって妻サラの埋葬の土地取得の重要性を後代に伝えているのである。 

アブラハムとその妻との間にたったひりの子イサクが跡継ぎであった。その子のためにも重要な墓地となった。その独り子から十二人の子が生まれ、十二部族を形成し、パレスチナを治め、やがて、神の独り子イエスが、ヨセフとマリアから聖霊によって生まれ、信仰の継承者が天の星の数のようになり、世を神と共に治めている。 

24章1節である。「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになっていた。」という。18章11節に、ここと同じような表現があり、「アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、」という。そのときは「アブラハムは百歳、サラは九十歳」(17・17)であった。 

それからサラは百二十七歳でその生涯を閉じた。アブラハムの生涯は百七十五年(25・7)であるから、サラと死別してから38年間生きた。その間にケトラと再婚して六人の子供をもうけている(25・2)から、ここで「アブラハムは多くの日を重ね老人になり」というのは、サラと死別してかなり早い1~2年後のことであろうか。「アブラハムに祝福」という言葉はここが始めてであるが、その全生涯が祝福されていたという意味である。早速、一人息子イサクの嫁探しの話が始まろうとしている。

 


牧 会 通 信

2016-09-06 21:27:35 | 大分中央ウィークリー

ダンテの「神曲 地獄」編 第14歌   (原 光訳 2000年、沖積舎)(カッコ内は筆子、その10)

◯それからまた和らいだ顔つきで、わたしの方を振向いて言つた、「これはテーベを攻囲した七人の王たちの一人だ、奴は神を侮辱したし、

 いまも侮辱して見くびつてゐるやうだ、わたしが奴に言つたやうに、奴の激怒が奴の胸にぴつたりな飾りになつてゐる。

 さあわたしについてくるがいい、よく注意してずつと焼けた砂に足を突つこまず、つねに森にぴつたり沿つて歩くやうに。」(前回ここまで)

◯わたしらは黙つて歩いて、森から小川が噴き出てゐるところに着いたが、その血の赤はいまでも身の毛がよだつほどだ。

 娼婦たちが下の方で分ち合ふ、熱鉱泉(原語「プリカーメ」温泉の名称)から出る小川のやうに、この小川は熱砂を横切り下つてゐた。

 その底と左右の斜面と堤は石で出来てゐたので、そこが通路だとわたしは気づいた。(つづく)

 

◯本日、2016年9月4日は、第三十六主日となる。日聖協「聖書愛読こよみ」は「みことばの前進」という主題。聖書はフィリピの信徒への手紙1章12~17

節、その14節。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るように

なったのです。」と。使徒パウロがローマの牢獄に監禁されている苦しい現状の中で上より勇気を与えられて伝道が前進した。内外の苦難はかえって力を生

み出させる。今日も原始教会にもまして戦いが多い。教師や人を観て一喜一憂することはある。しかし大事なのは自分自身の信仰とその働きであろう。

 

◯写真は、先週、29~30日(月・火)に福岡城南教会で開かれた九州中会教職者会です。十一名と子供一人です。