五、「教会とわたしたち」(392) 5.近代から現代へ(宗教改革とその後)
はじめに、近代への萌芽としてアウグスチヌス著「神の国」から引用(その31)
⒘ 処罰や汚辱の恐れから自殺をすることに
ついて。
このような非業を忍ぶよりは、むしろ死を選んだ婦人たちについては、感動の余り彼らのために赦しを願わない者がいるであろうか。他方、他人の悪口を避けようとして自分自身で(前回はここまで)罪を犯すようになることを恐れ、あえて自
殺することのなかった人々も存する。だれでもこのことのゆえに彼らに罪を負わせようとする者は、自分自身が愚昧の非難を蒙らないように注意しなければならない。たとえ有罪であるとしても、法廷の死刑判決によらないかぎりは、私人が
他の人間を殺すのが違法であるとすれば、自分自身を殺す人間は必然的に殺人の罪を犯していることとなる。もし人が自殺するとすれば、そのような手段に訴える理由が小さければ小さいほど、その人の罪は大きい。われわれがユダのし
たことを嫌悪するのは、理由のあることである。事実、彼が自らくびれて死んだとき、彼はその邪悪な裏切りの罪を償うどころか、かえって罪を増し加えたのであって、二重に断罪さるべきである。神の慈愛に絶望し、ただ後悔という形でだけ
悔いることにより、彼は救いに至らせる悔い改めに所を与えなかった。ましてや、そのような極刑に値することを何もしなかったものは、自らの生命を絶つようなことはすべきではない。ユダが自殺したとき、彼は悪人を殺したのである。彼は
キリストの死についてのみならず、自分自身の死に (つづく) (教団出版「神の国」出村彰訳1968)
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