石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

会津戦争4 勢至堂峠の防塁とざんごう跡

2006年09月09日 | 戊辰・会津戦争

関ヶ原の防塁と戊辰戦争の塹壕、豊臣秀吉の太閤道のある峠

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県須賀川市勢至堂峠、郡山市湖南町三代 国道294号線勢至堂トンネル上

Photo_8  国道294号は、福島県の会津と中通りとを結ぶ国道で、戦国時代、葦名盛氏が会津と白河を結ぶメーンルートしとて開設し、峠に柳津町から勢至菩薩を運び、祀ったことから峠の名になっています。  天正17年(1589)、豊臣秀吉の小田原攻めが終了し、奥羽仕置きのために秀吉は会津へ入るため会津の黒川(現若松)城主伊達政宗に命じ、幅3間(5.4m)の道路、橋、宿所の改修や建設を命じます。そして、その道は、秀吉が通った「太閤道」と呼ばれるようになります。勢至堂の村では、休息し柏もちを食べ、それから柏もちを出した家は柏木と名乗るようになりました。秀吉は、御代・福良に宿し1589年8月9日、黒川(現在の会津若松)へ入ります。その道は、江戸時代の白河街道となり、現在の国道294号となっています。  慶長5年(1600)の関ヶ原直前には、上杉景勝が、徳川家康の進攻に備え、この峠入口に堂谷坂陣を築き、峠の頂上にも防塁を築きました。  また、会津戦争(1868年)では、会津藩が、この峠の両側に二重の塹壕と土塁、台場を築いています。

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