石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争36 若松城下への乱入 

2019年06月30日 | 戊辰・会津戦争


 若松城下への乱入

 会津古城研究会長 石田明夫 

 戊辰戦争のあった1868年8月23日の天気は、明治天皇昭憲(しょうけん)皇太后のロシア語とフランス語の通訳だった山川健次郎の姉操(みさお)が、明治42年『婦人世界』七月号に
「その日は朝から雨が降って、何となく肌寒いやうな日でございました。」
と雨が降る寒いひとあり、そして城に入る時間は
「まだ朝飯前でございました」
とあります。
 会津藩士の妻、間瀬みつは、若松城の鐘が鳴ったのが「朝六ツ半頃」とあることから朝七時過ぎのことでした。
新島(山本)八重は『婦人世界』十一月号の「男装して会津城に入りたる当時の苦心」で
「着物も袴も総(すべて)男装して、麻の草履を履き、両刀を把(たば)さんで、元籠七連発銃を肩に担いで参りました。他の婦人は薙刀(なぎなた)を持っておりましたが、家が砲術師範で、私もその方の心得が少々ございましたから鉄砲にいたしたのでございます。それに弟の三郎と申しますのが、その春、山城国鳥羽の戦いで討死(実際は、鳥羽で負傷し、江戸の会津藩屋敷で死去しました)したので、その形見として着物と袴(はかま)がつきましたから、私は弟の敵を取らねばならぬ、私は即ち三郎だという心持で、その形見の装束を着て、
『一は主君ため、一は弟のため、命のかぎり戦う決心』
で城に入りましたのでございます。」
と、主君のため、家族のため必死に戦ったのです。
八重は、大河ドラマ「八重の桜」で採用された服装の男装して城に入ったのです。
さらに、城内の本丸に入ると、光景はすさまじく  
「白無垢の上に腥(なまぐさ)い血潮の色」では「御婦人などは、白無垢に生生しい血潮の滴っているのを着ておられました。これは多分、家族に卑怯者があって、城中に入って戦うのは厭(いや)だといふのを手に掛けて、その足でまいられましたのでございませう。~御本丸へまいりますと、大書院には、大勢の女中が照姫様を取囲んで警護いたしておりますが、皆、懐剣を持って、いざといはば、城を枕に殉死する覚悟をいたしておりました。」
とあり、足手まといになる者は自害の手伝いや手に掛けて城に入り、皆、殉死覚悟だったのです。

 写真は山本八重の弟、三郎が負傷した京都・鳥羽の戦場跡。

会津の歴史と問い合わせはホームページ「考古学から見た会津の歴史」へ


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