石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

戊辰・会津戦争34 若松城下侵入

2019年03月05日 | 会津の歴史
  



若松城下侵入 

 会津古城研究会長 石田明夫 

 1868年8月23日『会津史』によると、早朝から猪苗代湖西岸の戸ノ口原で戦闘が開始されます。白虎隊などの会津藩兵を打ち破り、午前8時には一箕町滝沢の堂ヶ作山に到着し、そこから会津盆地を見て、侵入経路を確認し、9時には甲賀町口郭門、10時には北出丸大手口近くまで西軍は進攻したのです。若松城下の町にある木戸口には、町民が殺到し、折り重なって亡くなった者が多数いました。また、大雨で大川(阿賀川)が増水し、舟で渡りきれず水死したもの数百人いたという。市街戦の戦死者は460余人、藩士家族の殉死233人におよび、一般町民は多数で正確には不明。約千戸が焼失。白虎隊士16人が飯盛山で自刃したのです。 
 同日、南会津の那須岳西側の三斗小屋でも戦闘があり激しい戦いでした。これは、期日を決めて、会津領内に入ろうと西軍が計画していたためです。
 西軍、薩摩藩士の記録『栖雲記』に、
「薩摩の国人、川島信行が若松城門の前にいと大きな屋敷があり、それに向発砲するも応ずる者なし。進みて内に入り長廊下を過ぎ、奥なる便殿に婦人多数居並びいて自尽せり。年齢17、8なる女子が今だ死なず、起こしたが、その目は見えず、開けられない。声かすかに「見方か敵か」と問うと、わざと「味方」と答えれば、身を深く探り、懐剣を出して、これをもって命をとめてとの事なれど、見るに忍びねば、そのまま首をはねて出る。傍らに70ばかりの老人がいさぎよく腹切れていたり。女子の懐剣は、九曜の目貫にて、旧井某が持ち去」
というと記録があり、これは西郷頼母邸でのことでした。『西郷隆盛一代記』には
「玄関より入り、書院と覚しき処を通り、奥の室に進み入り」
とあり、大広間のある書院で「男女環座して」とあり、輪になって自刃していたのです。
『会津落城の時の老人婦女子の逃避行手記』には、
「柳原をとおって蟹川(大川)の渡しに行き、渡ろうとすれば、舟は三艘しかなく、どの舟の人で一杯になり、中に居る人が、抜き身の槍をもってとめるのも聞かず、沢山飛び込むので、その内二艘は転覆。私どもは、渡れぬと思い、川に沿って歩き、高瀬の桃林を抜け、越後街道の高久の橋まで行き、ここで川を渡った。」
と庶民の避難も大変でした。

 写真は、21人が自刃した家老の復元された西郷頼母邸。東山町の会津武家屋敷。

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