新選組・土方歳三会津を去る1
会津古城研究会長 石田明夫
慶応四年(1868)8月21日、母成峠の戦いで新選組の土方歳三と斎藤一は、最後まで戦いますが敗れ、新選組の半分は旧幕府の大鳥圭介とともに、猪苗代町の大原村から裏磐梯の秋元原を経て、北塩原村の大塩温泉を目指しました。齋藤一ら40人は、猪苗代湖岸から背炙り山を経て、東山天寧寺に向かいました。その後、斎藤一は城下の宿に宿泊しています。
8月23日、二本松街道の大寺口を守っていた桑名藩は、若松城下北東入り口へ移り、蚕養口で戦い敗戦し、塩川を経て大塩温泉向かったのです。『戊辰戦争見聞略記』に、会津若松を発した桑名藩の松平定敬(さだたか)公一行は、夜になり大塩温泉に到着します。村人は逃げ去り、人影は見えなかったのです。食糧さえなく大変窮しました。桑名藩の石井勇次郎は、夜ある人(土方歳三)を訪ねます。
「会津から落ちてここに集まっている兵は千人はいるだろう、それに竹中・大鳥(圭介)君もここにいる」
「自分が定敬公と竹中・大鳥両人に談判して速やかに兵を整え、会津若松を救う作戦を立てようと思う。この村は幸い要地だ、ここを本営にしたいと思うがどうか。」
と相談を受け、大塩温泉では、旧幕府軍と新選組、桑名藩ら約千人が集結し、若松を救う計画を立てたのです。しかし、定敬公は、すでに米沢へ向かうため大塩を出発し、勇次郎は走って桧原で定敬公と会います。
24日、桑名藩は、早暁に桧原宿を出発、国境の桧原峠に到着します。米沢藩の綱木村の関門は閉じられ、直談判してようやく入りますが、門の外は避難者であふれ、食べ物も与えらず、餓死者も多く出て目も当てられない状況となりました。
「定敬公がおいでになったことは米沢に報告し、指示あるまでここを通すことはできない」
と門番が言うので、米沢藩が同盟に背いたことを知ったのです。
写真は、会津若松市蚕養町法華寺の堂内にある西軍が乱入した際に切りつけた刀傷
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