石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原12  兼続、家康との決戦地は白河

2008年03月29日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続12、直江兼続が家康との決戦場としたのは、北の関ヶ原白河口。 

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県白河市  国道294号線沿い 東北道白河ICより10分

080216 慶長5年(1600)6月から7月にかけて、上杉景勝と直江兼続は、徳川家康の会津進攻に備え、白河市南(県埋蔵文化財センターまほろんのすぐ南)を決戦場とし、皮籠原に大規模な防塁を築きました。現在、石阿弥陀地区に約300メートルにわたり、幅7メートルの空掘と高さ約3メートルの土塁が残されています。土塁は、当時の織豊大名の特徴である上場を平らにし、直線的に築かれ、堀の外に小さな土塁が伴う二重土塁となっています。推定3000メートルから5000メートルを築きました。家康の進攻に備え、会津若松の神指城の築城を中止し、6万人を動員して築いています。守備には安田右京らがあたりました。ただし、現地ではほとんど知られていませんので、地元の人や関係機関に聞いても答えられません。写真をクリツクすると大きくなります。

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