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石田明夫の「会津の歴史」

全国的な視野で見た戊辰・会津戦争の歴史です

北の関ヶ原10   兼続の野望・神指城築城のわけ

2007年11月28日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続10、直江兼続の野望、神指城は東日本の府となる予定だった巨大な経済都市

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市神指町 磐越道会津若松インターから5分

007 上杉景勝・直江兼続が夢に描いた神指城は、1600に築きましたが、徳川家康の会津進攻で築城中なかばで中止した城です。城は、中央の大坂・京都、西の広島、東の神指という秀吉の構想のもとに築城された当時では先端的な平城です。城を造るの神指町の13の村を強制撤去し、12万人を動員。石垣は会津若松市の東山町慶山から運びました。若松城の2倍、本丸と二ノ丸だけで55ヘクタールという大規模な平城で、本丸の石垣と門は完成していましたが、家康の進攻に備え、白河方面の防御を強化するため12万人の人夫を白河口へ移動したのです。関ヶ原で石田三成方についた景勝と兼続は、敗者となり、城は破城を命じられ、慶長6年6月以降に石垣や門は壊されました。

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北の関ヶ原9  兼続・上杉景勝の城、坂戸城

2007年11月27日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続9、直江兼続と上杉景勝が誕生した「坂戸城」

会津古城研究会長 石田 明夫

新潟県南魚沼市坂戸(旧六日町) 

六日町駅の東側の坂戸山に山城、山麓に居館があり

071118_021025 平成21年のNHK大河ドラマの主人公、上杉景勝と直江兼続が誕生したのは新潟県南魚沼市の坂戸城です。城跡は六日町の東側にあります。国史跡で、石垣や土塁、屋敷跡、山城が残されています。ドラマのメーンは、徳川家康とのやり取りで、会津攻めと関ヶ原前後の会津時代が見せ場となります。会津の歴史と景勝が築いた神指城や最後の砦の向羽黒山城や上杉氏が徳川進攻に備え築いた白河市や日光市、母成峠や勢至堂峠、馬入峠などの防塁跡の情報は

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北の関ヶ原8  景勝・兼続最後の砦、向羽黒山城

2007年09月17日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続8、兼続・上杉景勝最後のとりで「向羽黒山城」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津美里町本郷 会津若松市の南西に位置 磐越道会津若松ICより20分

060924_064_1 永禄11年(1568)16代葦名盛氏が8年歳月をかけて築いた山城。葦名氏は、黒川城(現在の若松城)が居城。いざ戦争があると山城の小田山城に立て籠もることになっていましたが、小田山城は、黒川城に近いことや、敵が小田山城を占拠した場合、黒川城ひとたまりもないことから(事実戊辰戦争では小田山に新政府軍が陣取り大砲を撃ち込まれ甚大な損害を受けています)最後の砦となる山城を6キロ離れた向羽黒山城にしました。面積は50ヘクタールあります。葦名氏の隠居城ではなく、本格的な山城で、伊達政宗が6ヶ月かけて大改修し、蒲生氏郷も2年、上杉景勝も2年かけて大改修しています。今の姿は、上杉景勝の手によるものです。石垣は蒲生氏郷が築いています。大きな竪堀と竪土塁は、上杉景勝が居た朝鮮半島の倭城を模したものです。慶長5年(1600)の関ヶ原で上杉は石田三成方であったことから翌年に、この城や神指城を破城し、米沢に移りました。

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北の関ヶ原7  兼続が築いた神指城

2007年09月15日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続7、兼続と上杉景勝が築いた豊臣秀吉の城「神指城」

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県会津若松市神指町 市街地北西、国道49号線沿い 磐越道会津若松ICより5分

1  慶長5年(1600)2月10日、上杉景勝は、直江兼続に神指原に、秀吉の大坂城にならい、東日本を代表する当時最新の城であった平城(模範は聚楽第と広島城)の築城(水攻めの臨時の城ではありません)を命じます。当初は会津盆地の真中、湯川村北田へ築城しようとしますが、日橋川との落差が5メートル以上あり、運河や川の水を引き込むことが出来ず断念します。そして、大川(会津では当初から大川という。今では「阿賀川」と付けられています)や応湖川と湯川から水を引き込み運河や堀として利用可能な神指を選びました。この城を築城する前の2年間、会津美里町本郷の向羽黒山城を大改修し、最後の砦としています。『旧事雑考』によると、築城には直江兼続が総指揮となり、鉄氏が実行の指揮をとり、本丸は家臣団で築城し、堀と石垣・門まで築きました。天守閣は本丸北西に築こうとしましたが、完成しませんでした。二の丸は、家臣と領民8万もしくは12万ともいわれる人数を動員しましたた。測量には、夜間、ちょうちんを使用して水平をとり、北は北斗七星を基準としました。そのため、ちょうちん土手の名が残っています。同年6月10日、家康の会津侵攻に備え白河や長沼、田島方面を主として領国の峠について防御する必要があり、城の改修と防塁の築城が急がれたため中止します。面積は、若松城の2倍、55ヘクタール、家臣団の屋敷は若松城外郭の2倍、500ヘクタールに及ぶものでした。そのため、『塔寺長帳』には、13の村を移転したと記録されています。13の村とは、神指町のほぼ全域の村になります。本丸には、石垣が今でも確認できます。慶長6年、自ら築いた城を家康の命令で、本丸の石垣と門を崩し、破城したことを家康方が確認し、11月に米沢に移転します。二の丸北東角には、鬼門の御神木となる国天然記念物(樹齢600年、築城200年前よりあり)の「高瀬の大木(ケヤキ)」があります。

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北の関ヶ原6  母成峠防塁跡

2007年02月20日 | 北の関ヶ原

天地人直江兼続6 戊辰戦争だけでない。直江兼続が築いた母成峠防塁

会津古城研究会長 石田 明夫

福島県猪苗代町・郡山市 母成グリーンラインにある防塁

Photo_27 慶長5年(1600)に上杉景勝は、徳川家康の会津進攻に備え、領国内の会津へ入る主要ルート上にも防塁を築きました。母成峠は、戊辰戦争の激戦地であり、今に残る遺構は、戊辰戦争のものと考えられがちですが、384メートルある遺構の内、150メートルほどは、関ヶ原時代に上杉景勝が築いたものです。残りは、戊辰戦争時に造られたざんごうです。勢至堂峠、馬入峠、白河市南の防塁、日光市の防塁など、構造は同じで、幅7メートルの空掘、高さ2メートルから4メートルの土塁で直線を基本とした織豊的な土塁と堀になっています。

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